第9章 ふたりのふたり(後編)
日はだいぶ沈み掛かっている。夕焼けの綺麗な時間帯になっていた。 俺と母さんは大通りから離れたところを歩いていた。ワーエーマートからすぐ裏道に入れるところがあり、そこを使ったほうが多少早く帰れるのだ。お陰で車通りも少なく、ツクツクボウシの鳴く声だけがあたりを占めている。 結局あの後、母さんたちは5分ぐらい話し込んでいた。美奈の母親が突然、「アイスが溶けちゃうから」と言わなければ、まだ倍ぐらい続いていたかもしれない。 そして、母さんは言った通り、買い物を速攻で終わらして来た。必要外のものはまったく目もくれなかったようで、5分程度で戻ってきたのだ。今は、ビニール袋を片手にしている。俺は、スポーツドリンクを飲みながら母さんと並んで歩いていた。 「……なにもそんな三流大学目指さなくても、雄馬の成績だったら一流とは言わなくても、充分二流どころ目指せるんじゃないの? あえてあんなところ選ぶなんて、変な子ね〜」 さっきから母さんはずっと世間話を振ってきていた。カディズミーナの事を避けるようにしているのは判っている。だから、母さんが何か話題を振るたびに、俺は眉をひそめていたのだが、そんな俺の様子にはお構いなしだ。 (このまま、西口香美子として一生過ごしていくつつもりかよ!) いい加減、俺は母さん……いや、カディズミーナに腹を立て始めていた。黙っているにも程がある。彼女は彼女なりの考えがあるのだろうが、俺を無視して勝手に自分の考えを押し通そうとしているのが気に食わなかった。 だから、俺は次の母さんの言葉を止めていた。 「でも、あんな三流大学だったら、美奈ちゃんが困るんじゃないの? 絶対、あの子の成績とつりあわ……」 「なあ、カディズミーナ」 大して大きな声で言った訳ではない。だが、それを聞いた彼女の反応は、まるで怒鳴り散らされたかのようだった。 俺はそんな彼女を無視して話を進める。確認しなくてはならないのだ。二人で、今後の事を。 もはや俺たちがこの運命から逃れる方法など、ないのだから……。 「いつまでそうやって誤魔化すつもりなんだ。避けられない事ぐらい、判っているんだろう?」 淡々とした口調で言う。母さんは暫くの間険しい表情で俺の横を歩いていたが、嘆息一つ、体の力を抜いた。 「ええ、判っているわよ。私も、そろそろ話さないといけないかなと思っていたところだから。本当は、食事の後にしようかなって思ってたんだけど、やっぱり無理があるしね……」 ポケットからハンカチを取り出すと、額の汗を拭う。 「どこから話そうかしら?」 そう言いながらこちらに向けた笑顔が、少し不自然なものになっていた。 俺はまず、無難なところから入っていくことにした。 「そうだな。まず聞くけど、母さんとカディズミーナって、いつから一緒になったんだ?」 あの薬は、いわば憑依の薬だ。元いた相手の記憶と融合し、その相手が死ねば、別の相手に移る。俺の場合がそうだから、母さんの場合も多分そうだろう。 カディズミーナが薬を改良していなければの話だが……。 「そういう雄馬のほうは、いつからユーマリオンと一緒になっているの?」 逆に同じ質問を返された。 「俺か? 俺は1年半ぐらい前だよ。2年になってすぐぐらいだったかな?」 それで合っていた筈だ。記憶が安定するのに、2ヶ月ほど掛かったが……。 「ふーん。まあ、同じようなものかな?」 「そうなのか?」 もっと、前を想像していた。前にも述べたかもしれないが、だいたい転生(?)先の相手は20代から40代。そのほとんどが20も前半だったので、同じぐらいと思っていたのだ。 「私はね〜。4年前からカディズミーナと一緒になっているのよ」 「4年前?」 何か、その数字に引っかかるものがあった。 「確か4年前って、母さんが『再婚する』とか言っていた時じゃないのか?」 そうだった。昨日美奈とも話したのだが、4年前と言えば、母さんの『再婚立ち消え』があった頃だ。 俺はあの時の、理由を問いた俺に対し、困った表情を見せ何も言わなかった母さんを思い出していた。再婚の話とカディズミーナ。4年前判らなかったあの表情の意味に、俺はようやく合点がいっていた。 「あの人はね、和馬さんに良く似ていたわ。全てにおいて、私の理想だったのよ」 前を向いたまま、当時を思い出し言っているのだろう。その目は、昔の情景を眺めていた。 「取引先の人でね。あの人、私の働きぶりを良く見てくれていたわ。向こうも早くに奥さんを亡くしていてね、お互いの足りないものを補うために、結婚の準備を進めていたのよ。私はあの人が好きだったし、もし私が再婚すれば、雄馬も安心してくれるかなって思ってたわ」 母さんの表情は笑みだ。だが、この話を微笑みながら話せるようになるまで、一体どれだけの時間、母さんは葛藤を続けたのだろうか? 俺には、そんなそぶりをまったく見せなかったのだが……。 「その準備に大方の目途がついたころだったのよ。私の中にカディズミーナの記憶が入ってきたのは」 そこから先は、俺の予想したとおりだった。 「悩んだわよ、結構ね……。悩んで悩んで、悩んだ挙句、結局私はユーマリオンを捜すことを決意したわ。二千年もの間離れ離れになった恋人を追い求めていた少女の思いを、どうしても全うさせてあげたかった。だから、再婚の話をなかったことにして貰ったわ」 「して貰ったって、相手のほう納得しなかったんじゃないのか?」 俺がその人だったら納得しないだろう。お互いを必要としていて、その話を纏めようといろいろ頑張っていたはずだ。なのに、突然「やっぱりやめましょう」なんて言われたら、当然理由を問い詰めるだろう。 そして、母さんにはその人を納得させる理由がないのだ。話がもつれた事は、容易に想像できた。 「何回も頭下げてね。とにかく『ごめんなさい』って……。ひたすら、あの人が無理矢理納得するまでね」 俺は、ジュースに軽く口をつけ、そのまま前を向いた。 ……辛かったはずだ。その人が嫌いになったわけではないのだから。 「私、あの人を納得させた後、本当は旅に出るつもりだったのよ。ユーマリオンを捜す旅にね。どこにいるのか判らない、どうやって捜したらいいのかも判らない。だけど、捜さないと気が済まなかった。ユーマリオンが、私のことを今も捜しているのかと思うとね」 (ん?) 俺は視線改めて母さんに向ける。 「でも、結局今まで家にいたじゃないか。何ですぐ旅に出なかったんだよ?」 その質問に俺の顔を呆れたように見つめた母さんは、やがて嘆息しながら肩を落とした。 「……親の心子知らずかあ」 呟く声は、少し疲れたものだった。 「あのね雄馬、私が旅に出なかったのは、あなたがいたからなのよ」 「俺が?」 意外だった。なんで、俺がカディズミーナの邪魔になったのか判らなかった。 しかし、次の母さんの言葉で、俺は彼女の気持ちを存分に知ることになる。 「旅に出ないとユーマリオンは見つからない。だけど、和馬さんの忘れ形見……雄馬が成長して自立するまでは待とう……そう思ってね。遊園地にも海にも連れてあげることが出来なかった。だから、せめて雄馬が結婚して幸せになるのを見届けるまでは……。それが、私が果たせる唯一の親の義務だと思ったから」 「母さん……」 胸が熱くなるのを感じた。再婚相手を放り出させたカディズミーナの思いも、母の愛には勝てなかったのだ。 知らなかった。母さんが、そこまで俺のことを大切に思っていた事を。てっきり、美奈に任せて自分は仕事と割り切っているものだとばかり思っていた。思えば、俺と美奈の早婚を勧めていたのも、冗談などではなく本気でそれを願っていたのだろう。俺たちが早くに結婚すれば、その分早くユーマリオンを探しに行けたのだから。 俺は、自分の愚かさを呪わずにいられなかった。 「なにしんみりしているのよ〜。私がいきなりどこかに行ったら、雄馬生活困るじゃないの。あたりまえじゃない。……さっきも言ったけど、子供が親の事に気を使う必要なんてないのよ。大人が勝手に決めた事なんだからね〜」 言いながら俺の頭に手を伸ばすと、母さんはそれを撫でまわす。 お陰でバンダナがずれた。 「やめてくれよ、母さん……」 両手が塞がっているので防御が出来ない。だから、身体をよじったり頭を下げたりしてかわしているのだが、母さんはしつこく頭を撫でまわし、楽しそうに笑っている。 本当に楽しそうだった。 「しかし、さすがにユーマリオンがこんなに近くにいるとは思ってなかったわ〜。ユーマに雄馬……凄い偶然だなとは思っていたけど……」 母さんは無抵抗な者への相手の攻撃を止め、そう言うと空を仰ぐ。 「そうだ、思い出したよ」 今の一言で、ふとグリードと戦っていた時の事を思い出していた。戦いに突然割り込んできた母さんは、初めから俺がユーマリオンだと言う事を知っていたようだった。それも、知ったのが昨日やおとといの話ではない雰囲気。狼狽していた俺に対し、母さんはやけに落ち着いていたのだ。もっと前から、その事実に気付いていたに違いない。 だとしたら、いつ、どうして気付いたのだろうか。 俺はその疑問を直接母さんにぶつけてみる。その答えは、こうだった。 「ボクシングよ」 「あ? 全国大会で優勝したからか? あんなもの、別にユーマリオンの力がなくても本気でやれば優勝できていたよ。母さん、俺が喧嘩強いって言うの知っているだろ」 今言った通りだ。喧嘩の強い人間などいくらでもいる。高校の全国大会を制した程度の肩書きが、ユーマリオンを判別する材料にならない事くらい、母さんでもわかるだろう。 思ったとおり、母さんはゆっくりと首を左右に振った。 「ううん、違うのよ。もうちょっと前の話……。2ヶ月ほど前になるわね〜」 またポケットからハンカチを取り出すと、額の汗を拭ってから再び口を開いた。 「仕事の知り合いでね、地区予選のビデオを取ったって人がいてね〜。『あんたの息子が映っているから、見てみないか』っていうから、昼休みに見てみたのよ。それを見てピンと来たわ……。みんなはボクシング界の超新星だとか、将来チャンピオン間違いなしとか言っていたけど、私には解った。自分の息子が、ずっと捜し求めていた、ユーマリオンなんだってね」 「そっか、あれを見たのか……」 言い終わった時のその表情は穏やかな笑み。だが、その裏にある悲しみが、わずかに見て取れる。 この2ヶ月の間、母さんは俺を見るたびにどういう気持ちでいたのだろうか? 事実を話したかっただろう。「私がカディズミーナなのよ」と言いたかったに違いない。 だが、言ったところでどうにもならない。だから、いつもと同じように。 どういう気持ちだったのだろうか……。 「雄馬は、私のこと怪しいとか思わなかった? やっぱり身近すぎて、考えもしなかったのかな〜」 思いに耽る俺に気付いていたのか気付かなかったのか、特に調子を変えずに俺に問い掛けてきた。 「わかる訳ないだろう? 魔法は全然使っているそぶり見せないし、名前に関連性はないし」 それを聞いた母さんは、きょとんとした表情になる。 (??) 「名前に関連性がない? 何言ってんのよ。どう考えてもそのまま……」 瞬間、ものすごい殺気が真横で膨れ上がったと思ったら、思い切り背中を叩かれていた。 「のわっ!」 つんのめって思わずジュースをこぼしそうになる。なんか、その叩かれ方に記憶があった。 「何すんだよ、母……」 文句を言おうとして固まる。もの凄く子どもっぽい、むっとした表情をしていて、思わず慄く。 「ユーマッ、また私の愛称忘れたでしょう! 私の愛称はカディズミーナの『カ』と『ミ』を取って『カミィ』でしょ!! 『香美子』と『カミィ』、どう考えても名前被っているじゃないの! ……んもう、何でこんな簡単な呼び名、忘れるのかなあ。信じられないわ……」 今この瞬間だけ、母さんは完全にカディズミーナになっていた。 ……そうだった。カミィがあいつの愛称だ。何故か聞く度に忘れて、その都度背中を叩かれていたのを今更ながら俺は思い出していた。 「ごめん……」 母さん(カディズミーナか?)がかなりむっとしているようだったので、素直に謝っておく。すると、母さんはぷっと顔を膨らませて、前を向いてこう言った。 「今度忘れたら、魔法で腕強化してから背中叩くからね」 ……かなり怖かった。 「まあ、判らないのは仕方がないかな〜。魔法は人目に触れないようにしていたしね〜。」 「まあ、魔法はな……」 唐突に母さんの口調に戻る。デフォルトは、こちらの方らしい。 「でも、なんか共通点なさ過ぎる気がするんだけどな。外見はともかくとして、性格とか全然違うしな」 言ってから、俺は左手のジュースを飲み干そうとした。 どちらかと言えば、俺の記憶のカディズミーナは、母さんよりも美奈に近い。まかり間違っても、母さんとカディズミーナをイコール式で結ぶ事など出来やしない。 と思っていたのだが……。 「共通点ねえ……」 少し首を傾げ、考えるような仕草をする。 「駆け落ちしたところかな?」 ぶっ! 俺は、口に含んでいたジュースを全て吐き出していた。 「雄馬〜、汚いわね〜。私雄馬のこと、道端にジュース吐き出すような子に育てた覚えはないわよ」 「そんな風に育てられた覚えもねえよ……って、駆け落ちだってぇ!!」 目を剥いて母さんに詰め寄る。しかし、母さんはそんな俺に驚いた様子もない。というか、明らかにその反応を楽しんでいた。 「雄馬、おかしいと思った事なかった? 結婚早々夫が死んだんだったら、別に無理して一人で子ども育てなくても、生家を頼れば良いじゃない? だけどね、私は家を捨ててあの人と一緒にここに来たのよ。だから、帰るところがなかったわけ。驚いた?」 「驚くぞ普通は……」 驚くと言うか呆れると言うか……どう反応していいのかわからなかった。 まあ、クラスメイトがお年玉いくら貰ったとか聞く度に、うちの家には親戚いないのかとか思ったことはあったが、まさか駆け落ちとは……。 「良家のお嬢様だったってことも、共通点といえば共通点かもね〜。結構良いとこの子だったのよ、私ね。だから、ごく普通の家庭だった和馬さんとの結婚を認めてくれなかったの。でも私、どうしても和馬さんのこと諦められなくてね。おなかの子どもの事もあったし。……ああ、雄馬の事ね。だから、駆け落ちしたのよ」 「確かに、カディズミーナと似ているな」 何故、母さんとカディズミーナが一緒になったのか、ようやく納得できた。その恋愛に関して情熱的な性格、似すぎていると言えよう。 そして、その相手を失ってしまった事も。 「本当はね、戻って来ないかって言ってくれてたのよ。お父さんは勘当だって言ってたみたいだけど、お母さんがなんとか説得するからってね。だけど、私断ったのよ。和馬さんと私の子どもは、絶対に私が一人で育てるんだってね」 「なるほどな……」 良家のお嬢様が知らない町で一人、蓄えた財産もなしに、生まれたばかりの子どもを抱え、働きまわる20年前の母さんを想像する。苦労しているのは知っていた。だが、その苦労の度合いを本当に知ったのは、今のことだった。 「そう言えば、母さんと父さんって結婚しているんだよな? まさか、『西口』って母さんの生家の名字じゃないんだろ?」 そんな様子じゃ、結婚式も挙げていないのでは? そう思い、母さんに問う。 「……雄馬、この指輪をなんだと思っているの?」 左手を差し出し、薬指にはまっている指輪を俺に良く見えるようにした。 「婚姻届は出しているわよ。駆け落ちした後、私の居所を知った父親から届いた言葉が、『結婚したければ勝手にしろ、ただし後は知らん』だったからね〜。願ったり叶ったりよ」 してやったりと言わんばかりの表情。その顔に、当時を振り返り公開している様子は微塵も感じられない。 「ただ、結婚式は挙げられなかったな〜。挙げたのは、二人が『結婚式』と呼んだままごとみたいなものよ。あの、グリードと戦った湖ね、あそこがその結婚式場って訳。偶然私が見つけてね、『ここで私たちだけの結婚式を挙げましょう』ってね」 「メルヘンチックだな」 「でしょ?」 俺の感想を聞いた母さんは満足そうだった。先程、母さんがあの湖の事を『思い出の地』と言ったことを思い出す。あの、湖面を見つめていた、異常なまでに美しい母さん。そんな彼女の結婚式は、さぞ絵になっただろう。 「あの人も凄く気に入ってくれてたわ。私と和馬さんの最高の思い出、それが、あの湖なのよ」 母さんは少し空を見上げると、またポケットからハンカチを取り出し汗を拭う。 今まであまり母さんの過去を聞いた事はなかった。聞いて、俺は今まで母さんの事に対してあまりにも無関心だったのではと思った。放って置かれているつもりだった。だけど、本当に放っていたのは俺の方だったんじゃないだろうか? もっと母さんのために、してあげれる事があったんじゃないだろうか? だが、もう遅い。母さんだと思っていた存在は、もうその一言では済ませられない存在になってしまったのだから。 それとも、母さんはまだ母さんのままでいるつもりなのだろうか? それを聞かねばと思った時、母さんは別の話題を持ち出していた。 「雄馬……いや、ユーマリオン? この二千年の間、どんな事があったの。多少は覚えているんでしょう?」 「どんな事があったか……」 たまたまだろうか、それとも、またはぐらかされたのだろうか。よく判らなかったが、そのまま話に付き合う事にする。 家までの距離は、後少しになっていた。 「細かい事までは覚えていないけどな。覚えていると言えば、トレジャーハンターに、荒野のガンマン、エスキモーになった事あたりがインパクト強かったよな」 その記憶は、幼少時代のものみたいに、ほとんどがおぼろげなものと化している。そんな中でも比較的覚えていたのがこの三つだった。 トレジャーハンターの時は、世界中を駆け巡る伝説の男だった。幾多もの財宝を手に入れた男が、最後に求めた財宝は一人の女。だが、それを手に入れる事はついに叶わなかった。ガンマンの時は、銃を使うよりも敵弾をかわして殴り倒した方が性に合っていた。決闘をしながら、カディズミーナの情報を求め旅をしたが、結局見つけられずに……。そして、エスキモーの時は、一面に広がる氷原にただ呆然としたのを覚えていた。 「エスキモーは結構笑えるわね〜」 「ほっとけ。転生相手が自由にならない事ぐらい。薬作った本人が一番良く知っているんだろ」 「……ごめんね」 意地悪そうに笑う母さんに文句を言う。すると、慌てて母さんは笑みを消し、謝った。 「別に良いよ。条件は同じだったんだしな。……で、そっちの方はどうだったんだよ?」 俺が同意した事だ。別に薬の効果がどうこうと今更言うつもりはなかったので、元の話を進める事を促す。すると母さんは、小さく聞こえるかどうかぐらいの声で「ありがと」と言い、再びハンカチを取り出す。 (ん?) こめかみを伝う汗を拭う仕草を眺め、額に皺を寄せる。なんか、先程から母さんはやたらと汗を掻いているような気がする。 「母さん、何か調子でも悪いのか?」 「えっ?」 何でと言わんばかりの顔をこちらへ向ける。 「いや、妙に汗掻いている見たいだし……」 「気のせいよ。これだけ暑かったら、汗ぐらい出るわ」 「話を続けるわね」と言葉を続ける。俺も今の一件を気のせいで片付けようとしたが、何か気になるものがしこりのようになって残っていた。 「そうねえ、私が転生した相手で印象に残っているのは……。まずはとある国のお姫様かな? 何不自由ない、それでいて自由のない生活。カディズミーナの比じゃなかったわ。あなたを求めて王城を抜け出した後も、しつこく追っ手が来て、あなたを捜すどころの話じゃなかったのを覚えているわ。……追われると言えば、犯罪者だった事もあったわね。生活のために要人を殺した少女に転生してね。この時は悲惨だったわよ」 口調はあくまでも普通に。だが、俺にはその言葉に含まれている重みがわかる。同じだけの時間を過ごしてきた俺じゃないと、判らない重さが。 「悲惨といえば、極めつけがあったわ。……盲目の少女よ。両親を亡くして途方に暮れて、やっと生きていく自信を掴んだと思った矢先に仕事上の事故で失明してね。生きる気力を失くしかけていたときに私と一緒になったの。私の魔法でなんとか生きていく方法を見つけてね。これからって言うところで、魔女として惨殺されたわ。殺されたのは、あの時だけ。苦しかったわ……殺された事じゃなくて、自分の力であの子を守れなかった事がね」 もの凄く遠い目つきだ。その視線の先は普通の人間では見られない過去。この目ができる人間は、世界中を捜しても俺とカディズミーナしかいない。 二千年という気の遠くなる時を経てきた二人にしか……。 「二千年の間、本当に長かったわ」 呟くように母さんは言う。途端に、母さんの持っている気が、悲しげなものに変わる。 「母さん?」 その俺の声を、彼女は聞いていなかった。 「本当に長かった。気の遠くなるような時間……。言葉なんかで言い表せない。それほどの時間を経て、やっと逢えた……」 「……」 暫しの間が開く。その間を埋める言葉を、俺は知らない。 「本当は夢なんじゃないかと思っていた。そうだと思っているだけで、本当はユーマじゃないのかなと思っていたわ。だけど、間違いなかった……」 母さんの足が早くなる。追おうとした俺を、その悲しげな背中が遮る。 「やっと逢えたよ、ユーマ。もし……もしもね、これが夢だと言うのなら……」 続きを言わない。2秒、3秒と時が過ぎる。 母さんが前を向いたままその言葉を口にした時、10秒ぐらいが過ぎ去っていた。 「夢だと言うのなら、醒めて欲しい……」 またハンカチを取り出す。しかし、拭っているのが汗ではない事は、後ろからしか見ていなくてもわかる。突きつけられた現実。その現実に対する答え。その答えに、悲しみが集約されていた。 しかし、その現実を受け入れるしか、俺たちに手段はない。 もし、運命というものに形があるのであれば、今すぐ叩き潰したかった。滅茶苦茶に切り裂いてやりたかった。 しかし、そんなものがある訳なく、やりきれない怒りをぶつけるところが見つからないまま…… あとは、蝉の鳴き声だけが辺りを占めた。 玄関の扉を開ける。室内はすでにかなり薄暗く、明かりをつけないと見にくい時間になっていた。 「雄馬、炊飯器の梱包といてくれない? すぐ仕掛けるから」 あれ以来、母さんが初めて口を開いた。「ついでに説明書読んでくれない? 母さん機械音痴だから、読んでも判らないのよ〜」と苦笑いで言葉を繋げ、テーブルの上にビニール袋を置く。 ……結局、母さんと今後の話をする時間はなかった。だが、今はまだ話す時期ではないのかもしれない。少なくとも、母さんがまだ西口香美子のままでいたがっている間は、俺も何も言わずに黙っている。そうするのが正しいように思えてきた。時が経てば、話し合いが必要になれば、母さんの方から言い出してくる。 そう信じて……。 「おなか空いていると思うけど、ちょっと待ってね。美味しいの作るからね〜」 がさがさと音を立ててビニール袋から食材を取り出す。なんか、そのスピードが普段のおっとりしている母さんから想像できない位に早かった。 「慌てなくても良いよ。美味しいものが食べられるんだったら我慢するし……」 「ありがと」 と言うが、そのスピードは落ちない。テーブルにある食材を流し台に持っていき、早速切りかかる。さすがに絵を描いているだけあって手先は器用で、料理はたいして美味くない割には、その包丁捌きだけはプロ並みだ。 「先に釜だけくれない? お米洗うから」 包丁を動かす腕を止め、こちらを向きながらそう言う。俺が承諾すると、釜を受け取りそれを軽く洗った。 「ん?」 その時、初めて電話の録音ランプが点灯している事に気がついた。録音メッセージがあると点灯するようになっており、いつも帰ってくるなり確認するのだが、大きい荷物に気を取られていたのか、今日はチェックするのを忘れていたのだ。 そのランプのすぐ下にある再生ボタンを押す。途中で放って帰った美奈からだと思っていたのだが、予想に反して聞こえてきたのは男の声、俺の知らない相手だった。 『西口さん、仕事放り出してどこに行ったんですか? 戻られているんでしたら会社に戻ってきてください。仕事が残っていますので……』 (え?) 母さんは『仕事は終わった』と言っていた筈だ。なのに、留守録に入っているこの伝言は? (母さんが嘘をついていたのか?) もう一度内容を確認しようと思い、再生ボタンに手を伸ばそうとする。 (!!) その時、俺の直感がその腕を引かせた。 バカンッ!! 大きな音を立て跳ね上がったのは電話機。天井近くまで跳ね上がったそれを、俺はキャッチする。だか、それは内部の基盤までを砕かれ、もはや通電していなかった。 カタンという音が足元でする。見れば、電話機の横にあった、小さい頃の俺を抱く母さんの写真が入った写真立てが床に落ちていた。 「何するんだよ、母さんっ!」 電話機を破壊した張本人を振り返り、叱声を上げる。こんな事をできる人間はこの世に一人しかいない。ましてや、この家にいるのは俺を除けば、その一人である彼女だけだ。 母さんは、俺に背を向けたまま止まっていた。 「雄馬、お願いだからもうちょっとだけ、私の息子を演じてくれないかな〜」 「母さん……?」 いつもどおりの間延びした声。しかし、その語尾が微妙に揺らいでいる。 「もう少しだけでいいの……。お願いだから」 強い口調ではない。だが、その懇願するようなものを含んだ声に、俺はこれ以上言葉をかける事が出来なくなっていた。 なにを言っているのかわからなかった。例え西口雄馬にユーマリオンの記憶が宿っていようとも、西口香美子にカディズミーナの記憶が宿っていようとも、俺が母さんの息子だという事実は変わっていない。 それとも、違うとでも言うのだろうか? 俺たち二人は、もう親子と呼べない存在になってしまったとでも言いたいのだろうか? 母さんは再び料理を続け始めた。俺も壊れた電話を元あった位置に戻し、写真立てを拾う。写真に写った母さんは、十数年前に撮ったものにもか関わらず、今とあまり変わりがない。 (母さん、いったい何考えているんだよ?) 現実の彼女が答えてくれないのは判っている。だからと言って、写真の中の彼女が答えてくれる訳ではない。しかし、俺は思わず問い掛けていた。 不安だったのだ。母親を演じ続けようとする彼女。その中にいるもう一人の存在を押えつけ、仕事を放ってまで俺のそばにいようとした理由が判らないのが、とてつもなく不安なものへとなっていた。 (何を考えて……) 思考が遮られた。 ゴンとなにか重いものが落ちる音がした。続いて、小さく細かいものが大量に床に散らばる音。 何事かと思い振り返ると、母さんが米びつから持ち上げた受け皿をひっくり返していた。 「なにやっているんだよ!」 慌ててテーブルの向こうへと回る。母さんは呆然と足元を見詰めたまま、固まって動かない。 「母さん、じっとしていないで、拾うの手伝ってくれよ」 俺が米粒をかき集めようと、しゃがんだにも関わらず、母さんは突っ立ったままだ。見上げて作業を促すが、まだ呆然とした表情で足元を見詰めている。 その視線の先、つま先に、受け皿が乗っかっていた。 「足に落ちたのか? 大丈夫か……!?」 (えっ!?) 全身の髪が総毛立つ。それを見た瞬間、今度は俺の動きが止まってしまう。 最初は母さんのつま先に落ちているのだと思った。しかしよく見ると、それは母のつま先をすり抜けて、『接地』していたのだ。 (……なんだ?) 思考がまとまらない。しかし、身体のほうは緊急事態を察知していた。背中が室温に寄らぬ汗で濡れるのを感じる。 ようやく我に返った母さんが、無言のまましゃがみこむ。しかし、拾おうとした皿を母の手はすり抜けた。もしやと思い、その手を掴もうとしてみたが、手のひらに何かをつかんだ感触がない。 「これは……」 俺はこれと同じ現象を、ついさっき見たばかりだった。そして、それが意味する事も知っていた。 (そんな馬鹿な!) 母が手を引く。何の感触もないまま、それは俺の指をすり抜けた。 暫くの間、沈黙の時が過ぎる。聞こえてくるのは、心臓の鼓動の音だけ。 それを打ち破った母の台詞は、乾いた笑いから始まった。 「あはは、もう時間がないのか〜。せっかくユーマ会えたんだから、久しぶりにシチュー食べて貰おうと思ったんだけどなぁ……」 その笑みの中に、困ったような、泣きそうな、なにか色々なものが混じっていた。 「母さん、これは一体なんなんだよ?」 俺の声は身体中に拡がった不安によって震えていた。 母さんは小さくため息をつく。何かに疲れ切ったかのように。そして、顔を上げ俺と視線を合わせたときには、その表情はひとつのものになっていた。 『諦め』を受け入れたものに。 「雄馬、良く聞いてね。私がグリードを消し去るために使った魔法ね。あの魔法には欠点があって、大量の魔力のほかにもう一つ、術者の存在も犠牲にしなければならないのよ。言っている意味、判るわよね」 その言葉は、俺の予測していた通りのものだった。 「……冗談だろ?」 冗談でない事ぐらいすぐに判る。これが冗談であれば、米びつの受け皿を突き抜けた足をどう説明するのか? 俺の手をすり抜けた腕をどう説明するのか? ただ単に現実を認めたくなかっただけだ。 「この場で冗談言えるようなキャラクターじゃないわよ、私はね……」 そう前置きしておいてから、話を続ける。 「ずっと消えるのを魔力で防いでいたのよ。本当は今日一杯までは持つつもりだったんだけど、予想以上に魔力を浪費していたみたい」 (マジかよ……) そう言われて、気付いた事があった。さっき歩いているときに、母さんがやたらと汗をかいていたのを思い出す。あれは、魔力が枯渇しかけた合図だったのだろう。だから、さっきから妙に慌てていたのだ。 「ごめんね、ずっと黙ってて」 少し視線を落とし、呟くように詫びの言葉を言う。 「本当は何も言わずに、人知れぬ場所でこっそり消えたほうが良かったのかもしれない。多分その方が良かったと思うのよ。だけど、雄馬にだけは覚えていて欲しかった。最愛の息子ぐらいにはね。例えそれが、雄馬に辛い思い出を残す事だと判っていても……」 (母さん……) 母さんは膝を抱える腕に力を込める。何かを堪えるかのように。 堪えているのは、辛さだろうか。 「だけど私、ずっと働いてばかりいたから、きっと後で雄馬が思い出せるような事が少ないと思った。だから、残された時間を私と雄馬の思い出作りに使おうと思ったのよ。でもね……」 込めた力を抜いて、再び俺と視線を合わせたとき、母さんは苦笑いを浮かべていた。 「本当は遊園地にでも行って思い出でも作ろうかと思ったのよ。遊園地じゃなくてもいい。動物園でも、水族館でも……。だけど、雄馬はもう子供じゃない。私から見ていくら子供と言っても、世間一般の目から私たちを見たら恋人同士にしか見えないのよ。でも、親子と言うのは事実。私たちがデートみたいな事をするのは不自然。だから……」 美奈の母親が何気なく言った言葉を思いだす。あの時、母さんは笑い飛ばしていたが、心中穏やかでなかったに違いない。 「だから、一緒に買い物して、晩御飯食べて……。ごく普通の親子の時間を過ごす。そんな事しか考えつかなかった。だけど、今までそれすらほとんどまともに出来なかったんだから、最後くらいは、母親らしく……。そう思ったんだけど、結局出来なかったわ」 そこまで言うと、母さんは再び俯き目を閉じる。その端に、僅かに光るものが伺えた。 「ごめんね雄馬、本当にごめんね」 片手で目を軽くこすり、それを払う。今まで辛そうな表情一つ見せなかった母さんが流す涙を、俺は初めて見た。 「もう、どうにもならないのかよ。なんで、そんな魔法を使ったんだよ! 消えるだなんて、あんまりじゃないか……」 信じられなかった。俺のためにずっとがんばっていた母さんが消える。そんな事実を認めたくなかった。だから、必死で解決法を模作する。しかし、魔法に疎い俺が、彼女も考え付かない良案を見つける事などできやしない。 「どうしても、雄馬のこと守りたかったから。他の魔法でいくら魔力をつぎ込もうと、勝てるとは思わなかった。だから……」 俺を守るためにと、母さんは言った。本当なら、俺が守らなければいけなかったのに。 「すまん、俺に力が無かったせいで……」 悔しかった。あの世界では名の知れた凄腕の傭兵だったのに、好きな女一人守れない。こんな悔しい思いをしたのは初めてだった。 奥歯を噛み締める。悔しくて、情けなくて、そして辛くて……。涙が込み上げてきそうになった。 「気にしないで。グリードが強すぎただけ。それ以外のなんでもないわ。それにね……」 慰めの一言の次に出てきた母さんの言葉は、予期していなかったものだった。 「これで良かったのよ、多分ね」 「え?」 俯けていた顔を上げる。辛い気持ちを押さえ、相手にそれを見せないように無理矢理微笑んだ……母さんの表情はまさにそれだった。 「私ね、ずっと納得行かなかったのよ。雄馬がユーマリオンって判ってからこのかたずっとね。……本当はすぐにでも言いたかったのよ。『私がカディズミーナよ』ってね。だけど、私とあなたは母と子……。本気で愛し合う事は出来ない。だから、ずっと黙っていたのよ。だけど……」 そこで一旦言葉を区切り、ゆっくり一つ呼吸をすると、目を閉じ再び話し出す。 「だけど、このまま母親を演じ続けるのは嫌だったのよ。最愛の人が、私以外の誰かと幸せになるのを、ただ見ているだけ。そんなの耐えられなかった……だから、これで良かったのよ」 「カディズミーナ……」 母さんは、昨日も俺と美奈の結婚を勧めるような事を言った。それは母さんの台詞だろう。しかし、カディズミーナは複雑だったに違いない。本当は自分がという気持ちでいっぱいだった筈だ。なのに、もう一人の自分が別の事を口走っている。そして、自分にそれを止める事は出来ない。止めたところで、自分が幸せになる手立てなどないのだから。 「母さんが消えたら、お前はどうなるんだよ? 一緒に消えてしまうのか?」 彼女が哀れだった。 母さんがカディズミーナと判ったあとも、彼女はほとんど自己主張をしなかった。再び別れる事を知っていながら、その残り少ない時間を母さんと俺の思い出作りに使っていた。 なんとなしに判った。彼女は人のためと思えば自分を犠牲にする子だ。自分の住んでいる町が魔族に襲われたとき、自分の身の危険を顧みず一人、魔族に立ち向かったように。彼女は母さんのために、自分の時間を犠牲にしたのだ。 俺は、この少女を救ってやりたかった。2000年もの時を待ち続けながらも、自分を捨てようとした心優しき少女を。 だから聞いた。もし、彼女が再び転生するのなら……。 「正直なところ、判らないのよ。わかるのは、私……香美子が消えるって事だけ。カディズミーナは魔法の知識を持っていただけで、あくまでも魔法を使ったのは私だから、私だけが消えるんじゃないかな? 実際のところは本当に判らないわ」 そこで一旦彼女は言葉を切り、再び話し始める。心なしか、母さんの体が薄くなってきたように見えた。 「カディズミーナが消えたら、あの薬も存在しなかったことになるから、ユーマリオンがこの世界にいることはないわ。雄馬は、ユーマリオンの記憶を失くしてただの高校生になると思う。……いや、そんなことないわね。この魔法を見た者は、その記憶が残るんだから、ユーマリオンや雄馬にとっては、あの薬は存在したものだから、ユーマリオンの記憶がなくなることはない……のかしら? ははは、良く判らないわね」 俺は、母さんの乾いた笑いは聞いていなかった。 良く判らない……それでも構わなかった。可能性があるのなら。 「だったら、俺はお前を捜してやるよ! 今からお前を捜す旅に出るっ。だから、待ってろ! 必ず見つけ出してやるから」 口調を強めて俺は言う。その際、自然と握られていた両拳をの力が高まった。 もう俺は迷わなかった。 彼女を見つけ出す。そう心に決めその思いを彼女に伝えた。彼女が快諾する。そう決め付け……。 だが、彼女は返事をしなかった。 (……?) カディズミーナの笑顔が見たかった。てっきり、感極まって泣きついてくると思っていた。だけど、彼女は何も言わない。ただ黙って、俺の目から視線を外していた。 「カディズミーナ?」 予想外の反応に、体に篭っていた力が抜ける。その瞬間、思いがけない言葉が俺を襲った。 「……もう、いいの」 「なんだって!?」 身体中に衝撃が駆け抜ける。信じられない台詞を、俺は耳にした。 彼女の口から、そんな台詞が出るなんて考えもしなかった。 「もう、いいのよ。私は、もう一度あなたに逢えただけで充分だから……」 もう一度カディズミーナは拒否の言葉を繰り返す。呆然とする俺の反応を無視するかのように、彼女はさらに淡々と言葉を続けた。 「さっき……グリードに魔法の持続力のことを聞いたときにね、私たちが飲んだ転生の薬の、残りの効力を調べたのよ。……あと、良く持って3回、最悪次で終わりだったわ。逢うのにこれだけの時間を要したのに、残りの時間で再び巡り逢うなんて、無理な話よ。だからね、もういいの。私は、一回だけでも逢えた。それだけで充分だから……。充分、だから……」 視線を合わせないまま、『充分』と彼女は繰り返す。 自分を『偽って』!! 「嘘をつくな……」 静かな口調で。しかし、その言葉に含む怒りに気付いた彼女は、肩を瞬間震わせ、固まってしまう。 そんな彼女に、俺は構わなかった。 「嘘つくんじゃねえよ。充分だって? 本当にこれで満足しているんだったら、何で泣く必要があるんだよ?」 ……そう、彼女は泣いていた。先程のように涙を浮かべているのではない。両目から、大粒の涙がこぼれているのを拭わないまま、身動き一つせず俺の言葉を聞いている。 へたくそな嘘だった。 「夢を、諦めるのか?」 俺はさらに言葉を繋げる。そのことによって、彼女の涙の量が増えようが構わなかった。 俺は、無性に腹が立っていた。彼女の言葉に、腹を立てていた。だから、黙ったままの彼女を執拗に責めた。 「お前は、自分が見た夢を実現したくて、あの家を飛び出してきたんじゃなかったのか? お前の夢は、実現したのか? 『どこか遠くの街で、だた静かに好きな人と幸せに暮らす』という夢は、実現したのか?」 俺の言葉にじっと耐えている。辛いのに我慢している。 だから、さらに彼女を追い詰めた。新たな涙の筋が入ろうが、その肩が微妙に震えていようが……。 「ここまで来て諦めるのか? あの時……2000年前、死にかけている俺を相手にして諦めなかったお前は、もういなくなったのか? 今俺の前にいるのは、俺の知っているカディズミーナじゃなくなってしまったのか? 俺が惚れた……」 俺は彼女から視線を外した。外して、横を向く。そして、自分がこれまでに発した最も冷たい声でそれを言い放った。 「だったら、もういいよ。それで満足してしまえよ。お前がそれでいいんだったらな」 「ユーマ??」 視界の端で彼女が顔を上げこちらを見たのが判った。しかし、俺はそんな彼女を見る事をしなかった。 「俺は、お前みたいな奴のために、この永き時を彷徨っていたのか? ここまで来ておきながら、夢を諦めてしまうような奴のために……」 俺の怒りの原因はそれだった。カディズミーナが俺と駆け落ちしようとした時、初めは適当な頃合を見計らって彼女を親元へ帰すつもりだったのだ。しかし、実際のところは俺は彼女を手放さなかった。俺も彼女に惚れてしまったからだ。 そしてその惚れた部分は、彼女の『諦めない』性格。良家のお嬢様なのに、なんでも挑戦し、諦めないで繰り返した彼女。離れ離れになった俺に逢うために一人歩き続け、僅か2年という時で飛行の魔法を完成させた彼女。そして、俺が死のうとしている時、魔法の薬を使ってまでして俺と再び巡り逢うことを望んだ彼女が、俺は好きだったのだ。 なのに、ここまで来て『諦める』。一番大事なことを『諦める』。そんなことを言う彼女が、信じられなかった。許せなかった。 だから、こう言い放った。 「俺は、惚れる相手を間違えていたようだな」 彼女が息を飲む音が聞こえた。 「ユーマ……。嫌だよ、私を嫌いにならないでよっ! 一緒になれなくてもいい。だけど、嫌いにはならないで。お願いだから……」 声は母さんの声。しかし、その口調は、カディズミーナ……いや、ただの怯えた子供のものだった。 「だったら……。だったら、本当の気持ちを言えよ!! 本当に言いたいことを言えばいいんだよ!!」 声を荒げる。首だけをそちらへ向けて、しっかり彼女と視線を合わせる。彼女もその弱気な目を俺から離さずにいた。 「ユーマ、私は……」 呟くように言い始めた言葉が止まる。 俺は、彼女が答えるのを待っていた。本当の気持ちを伝えるのを、待つつもりだった。 「私は……」 再び止まる。 言う事を躊躇っている。想いを伝える事を迷っている。 だけど、俺は本当の答えを聞きたかった。だから、再び解いた。 「もう一度言うぞ。夢を諦めるのか? 本当にそれで良いのか?」 彼女は俺から視線を外す。外したままで、微動だにしない。 そのまま時が流れた。沈黙の時間。蛇口から漏れる雫が流し台を打つ音が、やけに大きく聞こえる。 その音が3度、繰り返された時、それよりも小さな声で彼女は呟いた。 「……良い訳ないじゃない」 それは、想いの篭ったダムが決壊する前触れだった。 「良い訳ないじゃない! 良い訳なんてある訳ないでしょぉっ!! 2000年も掛かったのよ……。ただあなたに逢う……それだけで! それだけの間、あなたの事だけを想ってずっと彷徨ってきたのに、本当に諦められると思っているの!? 嘘に決まっているじゃない……諦められる訳無いじゃないのっ!! ……ちっぽけな夢、でも私にとっては大切な夢なのよ!!」 顔を上げまっすぐにこちらを見据え、彼女は叫んだ。流れ落ちる涙をぬぐいもせず、強き瞳で俺を睨む。間違いなく、カディズミーナの叫びだった。 「でもっ、私がここで言ってしまえば……本当に言いたい事を言ってしまえばあの子はどうなるのよ! 美奈ちゃんはどうなるのよっ!? ……私は、雄馬がちゃんと育ってくれたのはあの子のおかげだと思っているわ。私の代わりに、あの子が育ててくれたんだと……。その子の幸せを、私が奪ってしまうなんて、そんな事できる訳ないじゃないの!! なんで私を虐めるようなこと言うのよ、ユーマ……」 「素直にならないからだ」 にべもなく言い返した。 判っていた事だ。カディズミーナが、美奈のために自分を偽る事ぐらい、母さんのために時間を使った時点で判っていた。 だけど、納得するつもりは無かった。俺自身、美奈の事を忘れていた訳ではない。だが、決めたのだ。俺は、この少女を救うと。2000年もの間、自分の幸せのために彷徨い続けた哀れな少女に、幸せを与えるために。 「母さん、昨日言っていたじゃないか。俺は俺の好きなようにって……。勝手な言い方かもしれないが、美奈なら……あいつなら、誰かが幸せにしてくれるかもしれない。きっと俺がいなくても幸せになれる」 睨む力が強くなった。俺の言葉が彼女の心に怒りを芽生えさせる。 それが、一気に膨れ上がった。 「雄馬! なんて事言うの!! あなた、美奈ちゃんの気持ち知っているの!? あの子はあなたの事が好きなのよ! ずっとずっと昔から……。何でそんな事が判らないのよ!!」 「判っていないのはそっちじゃないか、 カディズミーナ!!」 彼女の力を真正面から打ち返した。同じ言葉を返された理由が判らないのか、呆然と俺を見上げている。 (やれやれ、困った奴だ……) 俺は彼女の方に向き直り、近寄るとしゃがんで視線の高さを合わせた。 「誰かのために自分を犠牲にできるその性格、嫌いじゃないよ。だけどな、カディズミーナ。ずっとそれじゃあ、一生……いくら転生を重ねても自分の幸せは掴めないぞ。本当の幸せはな」 まだ呆然としたままの表情だ。しかし、その視線は俺の瞳をしっかりと見つめている。 「お前、今度転生したら別の幸せを捜すのか? それで、自分は満足できると思っているのか? 2000年の溝が、それで全て埋まると思っているのか?」 問い掛けを繰り返す俺に対し、彼女は何も言わない。視線を少しだけ落とし、表情を真顔に戻す。しかし、再び流れ出した涙が、感情の揺れを示していた。 「判ってないんじゃないんだろう? お前を本当に幸せにできる人間は、世界中を探しても一人しかいないって」 俺は自信を持ってそれを言葉にした。例え彼女が別の幸せを見つけたとしても、そのすべてに満足できる訳が無い。常に俺と比較しつづけ、俺に劣る部分を見つける度に後悔する筈だ。例え、俺が勝った部分が十のうちの一つだったとしても、彼女は俺を諦めた事を後悔するはずだ。永き間見つづけた夢を諦めた事を……。 彼女に後悔などして貰いたくなかった。2000年の時を彷徨った事を、今更後悔して貰いたくなかったから、俺はもう一度言った。 「夢を諦めるのか? 後悔したくないのなら、本当の気持ちを言うんだ。自分のために……」 これで、全てを伝えた。ここから先は、彼女の意思。偽りなしの自分の気持ちで、判断してくれるはずだ。その結果に……彼女の選択にそれ以上何も言うつもりは無かった。 「……私、甘えるよ?」 視線を俯けたまま、彼女はそう言う。 「ユーマが困るぐらいに甘えるよ? 2000年もの間お預け喰っていた分、全て取り返すよ。それでもいいの?」 申し訳なさそうに上目遣いで俺を見る。彼女が……カディズミーナが俺に甘えようとしている時の癖だ。 そんな彼女の問いに、俺は笑顔を見せる事で答えた。 「うっ……ゆ、ゆぅまぁ……ユーマァッ!!」 俺の名を繰り返し、彼女は声を上げて泣き出した。子供でも、そんな風には泣かないというぐらいに。封じ込めていた感情が、慟哭という形となって噴き出していた。 「私っ、心配だった……。ユーマは私の事探してなんかいないんじゃないかって……。私の事なんか忘れて別の人と幸せに過ごしているんじゃないかって……。ずっとずっと不安だったんだよぉ! だけどっ、ユーマの事を信じてずっと探しつづけて……。探しつづけて正解だったんだ! 私はユーマの事好きになって正解だったんだ!!」 涙声で「正解だったんだと」繰り返す彼女。 暫くの間、彼女は泣き続けた。俺も、そんな彼女をなだめなかった。好きなだけ、泣かせておくのが良いと思ったから、泣かせておいた。 「……ごめん、泣いている時間、あまり無かったんだよね」 どのぐらい泣いていたのだろうか。気がつけば、彼女の体がさらに薄くなり、向こうが透けて見えるようになっていた。それに気付いた彼女は、慌てて涙を拭くと、泣くのを辞めて真っ赤な目で俺を見つめた。 「もう私は喋るのを止めるわ。残った時間を、もう一人の私にあげたいからね。……自己犠牲じゃないよ。もし、ちゃんと転生すれば、ユーマは絶対に見つけてくれると信じているから。そしたら、私はいくらでも喋れるからね」 無邪気な笑顔。顔が変わっても、本質は変わっていない。間違いなく彼女の笑みだった。 「私、待っているから。諦めずに、ずっと待っているからね。絶対に諦めないからね」 やっとそう言ってくれた。その言葉を、俺は待っていた。 「そうだよ、それがお前だよ。それが、俺が惚れたカディズミーナだ」 ぷっと、彼女が頬を膨らませた。 「カミィって呼んで。次、フルネームで呼んだら、思いっきりはたくからね」 「……判ったよ、カミィ」 二人は最高の笑みを見せあう。 俺たちにはまた辛い時間が待っているはずだ。しかし、お互い相手の笑顔を覚えておけば、その時間は乗り越えられるだろう。そう思い、俺は彼女の笑みを脳裏に焼き付ける。 そしてそれは、もう一人の彼女を忘れないためでもあった。 「まったく……。我が息子ながら呆れるわね〜。これじゃあ、何のために雄馬と美奈ちゃんをくっつけようとしていたのか、判らないじゃないの」 ポケットからハンカチを取り出すと、丁寧に涙を拭う。カディズミーナが後ろに隠れたらしく、その口調は母さんのものになっていた。呆れたと言っている割には、その表情はいつもの落ち着いた笑み。 とても、もうすぐ消えようといている人間の表情とは思えなかった。 「雄馬、2つだけ約束しなさい。一つは、美奈ちゃんに絶対に納得させる事。あの子が、間違っても雄馬の事を追いかけないように。それともう一つは、あなたがカディズミーナを見つける事。……言っている意味、わかるわよね?」 「ああ、言われなくても判っているよ」 そう、美奈を捨ててまでしてカディズミーナを捜すのだ。俺が……西口雄馬がカディズミーナを見つけないと、彼女を捨てた意味がない。厳しい旅になるはずだ。しかし、見つけなければ、母さんの思い、カディズミーナの思い、そして美奈の思い全てを無にする事になる。それだけは、避けなくてはいけない。 「頑張るのよ、雄馬。カディズミーナは西口香美子としての記憶のほとんどを忘れると思うわ。ひょっとすると、今日という日の出来事も忘れるかもしれない……。だけどね雄馬、あの子は忘れていないわ。カディズミーナの記憶は。あの時、初めてユーマに会った日。ユーマと一緒に街を出た日。あの海岸でユーマを待ち続けた日。……そして、あなたを求めて世界中を飛びまわった日を、忘れたりはしないわ。あなたと一緒に幸せに暮らしたい……その気持ちを決して忘れたりはしないわ。だから、絶対に見つけるのよ」 まっすぐに俺を見つめ、言い聞かせる口調で言う。それに無言で頷くと、母さんは笑顔を見せる。普段見せている優しさを滲ませてものではなく、本当に嬉しそうな笑みだった。 「母さん安心したわ……。私から言いたい事はそれだけ、もう伝える事なんて無いわ」 言い終えると、母さんはすっと立ち上がり、机を眺めた。それに触れようとするが、その手首が机の下に抜けたのをじっと見つめている。 「このテーブル、私が探し回って買ってきた物なのにね。もう触れないなんて……」 母さんの透明度が増す。もう、ほとんど時間が残っていないのが判った。 そのまま母さんは机があるのも構わずに歩き始める。それをすり抜け向かった先は、先程母さんが壊した電話機の方。その横にあった写真立てを掴み取ろうとする。取れない事は判っているはずなのに、取ろうとした。 母さんはその写真を見つめる。その目が、いつのまにか寂しそうなものに変わっていた。 「この写真もなくなるんでしょうね、きっと。数少ない私と雄馬の写真だというのに……」 「母さん?」 再びその瞳が涙で溢れる。しかし、今度のは違う。カディズミーナではなく、母さんが流した涙。 零れ落ちた涙が頬を伝うのを拭いもせず、母さんは俺に向き直った。 「雄馬は覚えていてくれるわよね。私の事……西口香美子の事、覚えていてくれるわよね?」 今まさに消えようとしている母さんの切実な願い。その唯一の願いを、聞かないつもりなど無かった。わざわざ言われなくても、忘れるつもりなどなかった。 「忘れないよ。俺の母さんなんだからな」 「ありがとう、雄馬。その一言だけ、母さんは聞きたかったのよ。本当にありがとう……」 最高の笑み。母さんが俺に見せた笑みの中で、間違いなく最高なものを、瞬間母さんは見せた。そして、その笑みをいつもの微笑に戻すと、俺に近寄り、まだしゃがんだままの俺に姿勢を合わせた。 「もう、時間が無いわ。だから、最後に一言だけ、もう一度謝らさせて」 (もう一度?) もう本当に時間が無いのだろう。訝しげ眉を寄せる俺に構わず、母さんは俺の目をしっかりと見つめた。 「ごめんね、雄馬。息子を見捨てて消える、どうしようもない母親を許してね」 「!? そんなことっ」 見捨てられたなんて微塵も思っていない。仕方が無かったのだ。 しかし、慌ててそれを伝えようとする俺を、首を強く振って制する。 「ううん。多分、雄馬は本心でそう言ってくれていると思うの。だけどね、私は思うのよ。もっといろいろしてあげれたんじゃないかって……。もっとあなたのために、時間を作るべきだったんじゃないかってね」 「……」 そんな事は言わないで欲しかった。母さんに、後悔の念を抱いたまま消えて欲しくなかった。だけど、気の利いた言葉が出てこない。焦れば焦るほど、掛ける言葉が浮かんでこなかった。 (何故だ! 一言……一言でいいのに、それが出てこないんだ!) 大切な一言なのに、それが出て来ない。そんな自分が腹立たしかった。 気がつけば、母さんの姿はさらに薄くなり、陽炎のようになっていた。自分の腕でそれを確認した母さんは、ふうっとため息をつく。しかし、その吐息が俺の頬を撫でる事は無い。 「もう時間ね」 そういう母さんの、次の言葉が最後の台詞になるのが判った。 「最後に……。雄馬に幸せが訪れることを祈るわ。さようなら、雄馬。私の大切な……」 言葉はそこで途切れた。母さんの姿は消え、静寂だけが辺りを占める。最後まで、母さんはそれを言いきることができなかった。 そして、俺は聞くことができなかった。 結局のところ、俺は何もできなかった。 一生懸命働いて、俺を養ってくれた母さんの…… 息子=かつての恋人という現実に悩んでいた母さんの…… 最後の最後まで、俺の心配をしていた母さんの…… 涙を拭ってやる事すら、叶わなかった。 |