第5章 カディズミーナ

 身長は俺とほぼ同じかそれ以下か。女性のような長くて綺麗な黒髪に、良く日焼けした日本人といった感じの肌の色。上下黒の出で立ちは、人間と言って差し支えないだろう。だが、その異常なまでに尖った犬歯と爪、緑色の瞳は明らかに人が持つものではない。
 そして、皮や肉はおろか骨まで貫き通す豪腕と、この世界の人間の目にはややもすると映らない程のその速度は、間違いなく魔族のものだ。
 俺たち……ユーマリオンとカディズミーナがいた世界で、人間を殺し、喰らった魔族。
 グリードがその名前だった。
 しかしながら、こいつはカディズミーナの魔法によって封印されていたのだ。どうしてその封印が解けてしまったのだろうか? この世界に、奴の封印を解ける魔法使いはいないはずなのだが……。
 (しかし、まさか奴を封印したあの場所が、日本だったとはな)
 あの、俺とカディズミーナがグリードと戦った場所は、今俺が住んでいるこの地だったのだ。もし、こいつがもっと別の場所で復活していたのなら、もっと前にその被害が耳に入っていただろう。それがなかったのは、恐らく奴がつい最近に、少なくともこの市内で復活したということを意味している。
 俺は、昼間のニュース速報の内容を思い出していた。『田沢市北区の工事現場で、土木作業員10人が殺されているのを発見』……。そんなことをできる奴が、もしいるのなら間違いなくこいつだった。
 「では早速、試させてもらうぞ」
 それが、グリードの宣戦布告だった。そう言い放つと、身を縮め身体中に力を溜め始める。 
 (余計なこと考えている場合ではないな)
 奴は溜めた力を解放し、5メートル以上ある距離を瞬時に詰めてきた。俺の後ろには美奈が逃げずにまだいるので、避けるわけには行かない。
 グリードは頭を低くした体勢から、伸び上がるようにして左手を突き出す。狙いは、俺の喉元だった。
 だが、普通の人間にとっては神速でも、ユーマリオンの力を有した俺にとってはその動きが見て取れる。速いには速いが、対応不可能な速度ではなかった。幸い相手は油断しているようで、フェイントなどの小細工なしでただ単に手を突き出している。その油断を突かない手はなかった。
 伸ばされた左手が俺の首を掴む前に、僅かながら左に動いた。その際、左足を前に突き出していたのは、腰の回転を効率良くするためである。そして身体を少し沈めると、奴の左腕が俺の右肩の上を通り過ぎる。
 その刹那、俺の充分な体重が乗った右拳が、グリードの顔面に炸裂した。
 「ごうあっ!?」
 なんとなしに疑問符が混じったような発音の悲鳴を上げ、グリードが元いた位置までコマのように回転しながら吹っ飛んでいった。突き出してきた左腕の上から被せるようにして右を打ち込む、いわゆる『クロスカウンター』である。相手の力をそのまま利用することのできるパンチで、元々まともに決まれば相手を一発で倒すことができる高等技術である上、異世界の力を持つ俺が手加減なしに打ち込んだのである。普通の人間が相手なら、顔面がざくろになるか、首がねじ切れるかしていたかもしれない。
 しかし……。
 「おぅわたたたた! なんだぁ!?」
 (マジか?)
 グリードは、軽いむち打ち症にでもなったのか、しかめっ面であぐらをかき、首を押さえているだけだった。確かに、剣をまともに叩きつけても裂傷を負う程度で済んでしまう強靭さを持っていたが、脳がある頭部へこれだけの強打を叩き込んだにも関わらず、その程度の被害で済むとはさすがに思っていなかった。
 (パワーが足りなかったか)
 「……もう一回行くぞ!」
 首を押さえた手を外し、起ち上がると再び突っ込んでくる。両腕をどちらでも繰り出せるように構えているが、腰の位置が普段より高いのを俺は見逃さない。
 「おうらぁっ!!」
 やはり構えはカモフラージュ。実際に繰り出されたのは腕ではなく、足のほうだった。右足首が俺の側頭部に迫る。
 しかし、それを読んでいた俺は、その足を強引にキャッチした。
 (ならば、これはどうだ!)
 驚愕するグリードの足を持ったまま、それをハンマー投げのような形で振り回す。初めは頭の上でぐるぐると。そして自分自身も回転して、プロレスのジャイアントスイングのような状態になる。
 しかし、俺はそのまま放り投げるような甘いことはしない。回転しながら、だんだん道路際へと寄っていく。そして……。
 ズドーン!!
 そのまま、いつのまにかいなくなっていた茶色の服を着た女性がいた電信柱に、脳天を叩きつけた。その衝撃で、電信柱が車でも衝突したかのように折れ曲がり、倒れる。
 だが、電信柱に後頭部を埋め込んだグリードの右腕が、小さく空を薙ぐ。直感で腕を放すと、俺の腕があったらへんを衝撃波とおぼしきものが抜けていくのを感じた。恐らく、カディズミーナが得意としている気弾のようなものなのだろう。それは、道路の反対側にあった民家の2階の外壁に穴をあける。
 (ちくしょう! これでも駄目なのか)
 視線をグリードのほうへと戻すと、奴は電信柱から首を引き抜き、ニヤニヤしながらこちらを向いていた。
 「なかなか楽しましてくれる。この世界の人間風情でも、面白い奴がいるんだな」
 奴は懐かしい言葉を口にした。やたらと、『人間風情』という言葉を使うのが、こいつの癖なのだ。
 「ゆう……ま?」
 後ろから小さな声が聞こえる。振り返ると、まだ美奈が俺の後ろにいた。その顔は、普段の明るい表情が実は仮面だったと思えるぐらいに、青ざめ、怯えている。
 「雄馬……怖いよ……」
 彼女は恐怖に震えている。しかし、奴に対して怯えているのか、俺に対して怯えているのかまでは判らなかった。
 (早く、美奈をここから離さなければ)
 もちろん、危険だからと言う意味が強い。幸い、奴の興味は今俺に向いている。邪魔でもされない限り、他の者に危害を加えることはないだろう。今なら、逃げることは簡単なはずだ。
 それよりも、この場にいて欲しくなかったのは、本気を出した……人間外の力を使った俺自身を見られたくないという思いがあった。この力を見せつければ、彼女は怯えて俺から遠ざかるかもしれない。以前から、俺はそういうことを危惧していて、必要以上の力を見せびらかすのは避けていたぐらいなのだ。
 「美奈、早く逃げてくれ。こいつ相手では、お前を守り抜く自信がないんだ」
 心の底からの願いを言葉に込める。
 「でも、雄馬が……」
 彼女が逃げなかったのは、別に現実を理解できなかったのでも、恐怖にすくんで動けなかったのでもない。ましてや、俺たちの戦いに見とれていたなんてもってのほか。
 彼女は、俺のことを心配していたのだ。いても、何が出来るわけではない。逃げるのが正しいことぐらい、彼女は最初から理解しているはずだ。それでも、逃げるのをためらっていたのだ。
 だが、俺は純粋にこの場からいなくなって欲しかった。だから、説得した。
 「俺のことは心配するな。大丈夫だから、お前は逃げてくれ。お前なら、俺のこと信じてくれるだろう?」
 見つめ合う二人。その間、約5秒……。いや、緊迫した場面では、時間は異常に長く感じるもの。実際は、3秒以下だったのかもしれない。
 とにかく、それくらいの時が経ち、彼女は半歩後ずさりする。
 「約束だよ。絶対無事でいるって……」
 更に半歩後ろへ。
 「ああ……」
 それを聞いてまた半歩。
 しかし、その次はまた間が空く。
 「私は……。私は雄馬を信じているからねっ!」
 5秒ぐらいの時間が空いていたのだろうか、それを言った彼女は、身を翻し全速力で走り去っていった。
 (やっと行ってくれたか……)
 これで、心置きなく戦う事ができた。
 だが、別の念が沸き起こる。
 (結局のところ、俺は美奈を求めているのか? それとも、カディズミーナなのか?)
 美奈に嫌われたくない思いで、力をセーブしていたのだ。だが、カディズミーナを求めるのなら、彼女は結局のところ手放さなければならないのだ。なら、俺は美奈を求めていたのか? だったら、ウィーネを追って何故走った? 美奈を置いて……。
 「いつまで待たしたらいいんだ?」
 グリードが俺に聞こえるか聞こえないかの瀬戸際の声で、俺の思考が遮られる。言葉が通じていないと思っているのだろう。本当に俺に対して言っているとは思えない声量だった。
 しかし、こいつが場面の判る奴で助かった。俺たちが会話を終わらせるまで、律儀にも待っていたのだ。相変わらず、魔族とは思えない、人間以上に人間じみた奴だった。
 「済まんな、なかなか逃げてくれなかったんだ」
 あの世界の言葉でそう言う。それを聞いた途端、グリードは眼を見開き、何か得体の知れないものを見たかのように身構え、上体を仰け反らした。
 「喋った!?」
 まるで初めてグリードの声を聞いた時のカディズミーナのような反応だった。まあ、この世界で奴の言葉を理解できるのは俺を除けば、恐らく転生したカディズミーナただ一人の筈だから、この反応も仕方がないのかも知れない。
 少々大げさだと思うが……。
 「貴様、俺のいた世界の言葉を理解するとは、何者なんだ?」
 早速、奴は誰何してきた。その緑色の瞳が輝きを増す。それは、警戒しているようにも、好奇に満ちているようにも見えた。
 「何者とはずいぶんな挨拶じゃないか。グリード」
 それを聞いたグリードは、また上体を仰け反らせ、いかにも『驚いた』と言わんばかりの腕の構えを取る。しかし、その瞳の色は、今度ははっきりとわかる『好奇』の色。
 「俺の名前まで知っているとは……。それに、ずいぶんな挨拶……おまえ、俺を封印した魔法使いの嬢ちゃんの片割れか?」
 「ご名答」
 奴は案外頭が良いらしい。それとも、自分と互角に渡り合える人間の存在の印象が強かっただけなのだろうか。とにかく、グリードはあっさりとその答えにたどり着いた。
 しかし、奴は自分の回答が正解だったことに、喜ぶどころか、逆に顔をしかめている。
 「……顔が違うぞ。それに、お前が嬢ちゃんの片割れと言うんだったら、その嬢ちゃんはどこに行った? さっき隣にいたのがそうじゃなかったのか。顔も良く似ていたし……。その割には逃げていったようだが」
 「残念ながら、彼女は違う。それに、カディズミーナの行方は、俺が聞きたいぐらいだよ」
 呟く俺に、眼を丸くするグリード。奴に聞いても無駄だと判っているくせに、思わず問い返していた。
 「話が良く判らんぞ。俺は、封印が解けたばっかりで、この世界の事情がさっぱりなんだ。教えろ」
 そういうと、奴は先程自分の石頭で壊した……もとい、俺が奴を叩きつけたおかげで折れ曲がってしまった電信柱に腰をかけ、片膝を立てる。どうやら、回答を聞くまで一旦休戦にするらしい。
 俺は、グリードにあの戦いから2000年以上の時が流れていること。俺……ユーマリオンとカディズミーナは、グリードが最後に放った魔法のおかげで離れ離れになったまま、その生涯を終えてしまったこと。そして、転生の秘薬を使って現代まで、魂だけの存在となりつつも生き長らえているのが自分だという事を伝えた。
 それを聞いたグリードは、どこか遠くを見つめているようだった。
 「そうか、2000年も経っているのか。どうりで、訳のわからない物が色々あるわけだ」
 そう言って、奴は右から左へと180度首を巡らせる。グリードにとっては、今自分が腰掛に使っている電信柱や、あたり一面に敷き詰められたアスファルトすらも珍しいものに違いない。
 しかし、奴にとってそれは興味の対象外であることを俺は知っている。奴が興味を示すことと言えば、人間を殺し、喰らうことと、強い奴を見つけ、戦う事の2つなのだ。
 そう考えるや否や、奴は起ち上がると、片腕ずつ腕をぐるりと回した。
 「だいたいの現状は把握したよ。わかったところで、早速さっきの続きと行こうじゃないか。……お前に逢えて良かったよ。またあの時のような面白い勝負が出来るとは、思っていなかったからな」
 聞くだけ聞いて、こちらからの質問は受け付けないつもりらしい。こっちも、どうやって封印を解いたのかを聴くつもりだったのだが、奴は既にやる気充分だった。
 だが、俺のほうはというと、奴と同じように高揚した気分にはなれないでいる。ユーマリオンだった頃の俺なら、グリードが今作っているような余裕の笑みを浮かべていたかもしれない。だが、今の俺にはそんなことはできない。別段、雄馬とユーマリオンが意識を共有した際に、ユーマリオンのそういう面が消えてしまった訳ではなくて、ただ単にそうするだけの余裕がなかったのだ。
 前の戦いの図式は、テクニックのユーマリオン、パワーのグリード。それで、互角の戦いを演じていたのだ。しかし、今は不利な条件が揃いに揃っている。
 まずは、俺が全盛期の力を持っていないこと。雄馬の身体では、ユーマリオンが持っている能力をフルに使いこなすことが出来ない。先程はグリードが油断していたので、上手くあしらう事ができたが、相手の力を認めたグリードは、本気で掛かってくるだろう。そうなれば、先程のようには行かない筈だ。
 次に、俺は武器を持っていないこと。徒手空拳で奴に決定打を与えることが出来ないのは実証済み。ユーマリオンが持っていたような剣や、それに替わる武器があれば戦いようもあるだろうが、銃刀法が施行されているこの日本で、まっとうな道を歩んでいる俺がそういう物を持っている訳がない。練習の際に使っていた剣にしても木刀だ。今からそれを取りに帰ったところで、奴に太刀打ちするための手立てとしては不十分すぎる。
 そして最後に、カディズミーナがいないこと。元々、ユーマリオンだった頃の俺にしてもあくまで肉弾戦で『互角』だったのだ。加えて、奴が魔法を使うことが判明している。俺を遠距離まで弾き飛ばした力を考えると、奴の魔力が低レベルだとは決して言えないだろう。魔法を使うよりかは、その豪腕で相手を捻じ伏せることを好んでいるようだが、その気になれば、そこら中を火の海に変えるぐらいのことはできる筈だ。そうなれば、俺一人では手に負えなかった。
 もし、先程の金髪少女ウィーネがカディズミーナなら、そして、この近くに居合わせたのなら、彼女は間違いなく俺たちの前に姿を現すだろう。
 しかし、この場に彼女が現れるような気配を感じない。俺が感じているのは、背中を伝う冷たいものの感触だけだった。
 「……返事がないんだが、こちらから行ってもいいのか?」
 奴は右手の5本の指を絶え間なく動かして、間を持たせていた。その指が、早く俺の身体を引き裂きたいと言っている。
 俺は左右に目を走らせた。武器になりそうなものを物色するためだ。
 しかし、鈍器ならともかく、奴に傷を負わせれるような鋭いものは、どこを見やっても転がってなどいない。
 (素手で何とかするしかないか)
 武器を捜すのは諦め、グリードの方へ向き直ると、ボクシングの構えを取った。ユーマリオンが、雄馬の身体に入り込んでから覚えた格闘技術。しかし、あくまでも構えだけ。俺が実際に狙っているのは、眼か首筋を手刀で貫くことだった。首筋はともかく、眼はいくらグリードでも鍛えることは出来ない。その両目を潰せば、俺にも勝機はあるはずだ。
 (そう上手く行くとは思えないが)
 一番良い手は、この場から逃げ出して武器を探してくることなのだが、俺が逃げて戻ってくる間に起こる被害のことを考えると、そう簡単には逃げられない。はっきり言うと、こいつが人間の手には負えない事くらい、とうの昔にわかり切っている事。
 俺がここで何とかするしかないのだ。
 「ん?」
 唐突にグリードが指の柔軟体操を止める。そして、こちらをじっくりと観察し始めた。
 「……お前、剣はどうした? その拳のみで闘うつもりか?」
 訝しげな表情で問う。奴が見ていたのは、俺の何も握られていない拳だったらしい。
 「あいにくとこの国は武器を所有することを禁止されている平和なところなんでね、困ったことに剣なんて都合のいいものがないんだよ」
 隠してもしょうがないことなので、素直に事実を伝える。事実を知られたところで、俺にこれ以上不利になることなどない。
 しかし、弱みを見せたことが、意外にも功を奏す。
 グリードは目を丸くして肩を落とした。
 「武器を持つことを禁止されただって? どうりで、軟弱そうな人間が揃っているはずだぜ……。ちっ、しょうがねえなあ」
 そう言うと、右手を宙にかざし、何かを呟く。すると、その右手に忽然と現れた剣が握られた。その刀身は、9月の日の光に本物が持つことのみを許される見事な反射を見せた。
 「ほらよっ」
 それを投げてよこす。俺はその柄をキャッチすると、軽く円を描くように片手で振って見せた。
 それは、刃渡りは通常の剣と同じだが、柄が長めで、片手でも両手でも持てるバスタード・ソードと呼ばれるものだった。俺がユーマリオンだった頃に愛用していたタイプの剣で、その長さや重量感は、実際に持っていた物と酷似している。奴が、それと似たものをわざわざ呼び出したのは間違いなかった。
 「お前、確かそういう剣を持っていただろうが。それで、条件はイーブンになったわけだ。公平じゃないと、面白くないからな」
 やはり、戦いを楽しむタイプの奴にとって、圧倒的有利の条件は不必要どころか、邪魔にしかならないらしい。おかげで、こちらにも勝機が見えてくる。
 「助かったよ。さすがに、素手では勝ち目が薄かったからな」
 俺は少しだが、頬の筋肉を動かす。そうして作った表情は笑みだった。状況が変わると、戦い好きの血が僅かながら体内を循環し始めたのを感じる。
 しかし、剣が手に入ったからといって、五分にならないのは先程述べた通りだ。一工夫も二工夫もしなければ勝てないことは、十二分に理解していた。
 「さてと、やっとフェアな勝負を楽しむことができるんだ。そろそろ始めるとするか」
 「何がフェアだ。お前、その気になったら魔法が使えるくせに」
 苦笑いを浮かべ毒づく俺の言葉を、グリードは否定した。
 「使わねえよ。そんなことしたら面白くないじゃないか。戦士は戦士の戦い方で倒す。魔法使いは魔法使いの戦い方で倒す。それが、戦いを楽しむ俺の持論だからな」
 「どうだかな……」
 俺は、それを聞いてから剣を正眼に構えた。所詮魔族の言っていること。信用に値しないと口では言っているが、心の中では奴の言葉を信用している。同質の俺にとって、やけに人間じみたこの魔族は、下手な人間よりも信頼できるところがあった。
 鋭い眼差しのまま楽しそうに顔を綻ばせ、お互い隙を伺う。鋭い一撃が交差する瞬間が迫ろうとしていた。
 だが、それを邪魔するものがあった。それも、複数である。
 それは、たくさんの声だった。
 「なにあれ、電柱が折れ曲がっているけど、事故でもあったの?」
 「その割にはガラス片とかが落ちていないぞ。処理が終わった後なのか?」
 「おい、あっちに人が倒れているぞ」
 「あれ血じゃないの? 凄い量だけど、死んでるんじゃあ……」
 「……あの連中は何だ? あいつ、あの爪異常だぜ。それに、血まみれなんじゃないのか?」
 「こっちの奴は剣持っているし……」
 「ひょっとすると撮影か何かかも?」
 「カメラがないぞ」
 「ちょっと、うちの壁壊して、あんたたちどうしてくれるの!?」
 次々といろんな声が聞こえてきて、思わず俺は剣を下げた。グリードも訝しげな表情で声の方向に首を向ける。見れば、それは大学生ぐらいの6人の集団で、遊びに行く最中かその帰りにたまたま通りかかったらしい。よく考えれば、ここは天下の公道なのである。見れば、遠巻きに俺たちを見ている輩は他にもいた。
 ちなみに、最後の台詞はさっきグリードが壁を壊した家の者らしく、ほうきを持ったおばさんが敵意を込めた視線をこちらに向けていた。
 とても、戦いに集中できる環境ではない。そう思っているのはグリードも同様らしく、気の悪そうなものを含んだ表情を浮かべながら、どうしたものかと思案しているようである。一旦移動するか、追い払うかした方が良さそうなのは事実だ。
 だが、現状に追い討ちをかけるような事態が発生する。
 「こっちです!」
 グリードの後ろから声が聞こえてくる。少し横に移動して奴の向こうを覗き込むと、先程逃げていったと思われた茶系の服の女性が、こちらに向かって走ってくるのが見えた。その後ろには、5人の警官の姿が見て取れる。どうやら、近くの警察へ駆け込んだらしい。なかなかに行動力のある女性だが、俺の本心は「余計なことを……」である。こいつを相手にして、日本の警察など役に立ちはしない。
 帰って欲しかったのだが、そんな俺の気持ちは伝わるわけなく、警官たちは俺たちから5メートルぐらいのところで横並びに並ぶ。凶悪犯と既に聞いているのだろう、全員が滅多に扱わない筈の銃を引き抜き、こちらにその発射口を向けた。
 真ん中のリーダー格と思える中年警官が、なかなかに威厳のある声を上げる。
 「そこのバンダナの少年、武器を捨てなさい!」
 ……。
 (俺か!?)
 思わず目を丸くして自分を指差した。見れば、警官の後ろに隠れた女性が、痛打を受けたボクサーのようにガクリと腰を落としたのが見える。
 良く考えたら、俺とグリードのどちらが凶悪そうに見えると言えば、剣を持っている俺の方がどう考えても危険人物だった。
 「違う、俺じゃなくて殺ったのはそっちだ……というか、危ないので逃げて下さい! こいつは警察の手におえる相手じゃないです!」
 言っていて思ったのだが、まったく説得力がない。グリードの右腕は血に染まっているので、どっちが怪しいか良く考えればわかると思うのだが……。
 「下らんことを言うんじゃない。早く武器を捨てて投降しなさい!」
 メガホンでも使っているような大きな声だ。その声量に感心するが、だからと言って、「はいそうですか」と剣を捨てている場合ではなかった。
 「……なあ、こいつらなにもんだ? さっきから何を言っている? さっぱりわからねえよ」
 さっきから傍観に徹していたグリードが、苛立った表情を隠しもしないで俺に声をかけた。やる気を削がれて、そのいらつき度合いは最大値に近づいている。
 「この国の警備兵と言ったところだよ。お前がさっき殺した奴のこと、俺が殺ったと勘違いしているらしいんだ」
 嫌な予感に対し、いつでも行動に移れるよう神経を尖らせる。そんな俺たちのやり取りは、この世界の人間には理解できない言葉で行われたため、警官たちは戸惑いの表情を見せる。
 そんな表情を浮かべている余裕があったら、とりあえず逃げて欲しいのだが。
 「そうか。だったら、俺が誤解を解いてやるよっ」
 (やはりそうきたか!)
 そういうや否や、グリードは先程から俺たちに声を掛けていた真中の警官に向かって走る。その右腕が縦に振り下ろされると、顔面から下腹のあたりに掛けて、早速赤い筋が数本刻み込まれた。
 「た……」
 左横のまだ20代前半と思える警官が、何かを言おうとした。だが、それを言い切る前に、その目前に横薙ぎの爪が迫る。
 しかし、その動きは軌道上に割り込んだ俺の剣によって止められた。グリードのその凶行を予測していた俺は、奴が動き始めると同時に走っていたのである。
 だが、その警官の命を救うことは結局叶わなかった。グリードが何か呟くと、何もない空間に突如発生した刃渡り2メートルはありそうな巨大な剣が、男の背中を貫いたのだ。前のめりに倒れようとするその身体を、アスファルトに突き刺さった切っ先が支える。
 「きゃああぁぁ!!」
 先程の6人組の中から悲鳴が上がった。グリードが魔法で呼び出した剣はどうやら氷で出来ているらしく、その向こうに透けて見える茶服の女性が、へたりこんでいるのが伺える。
 「やかましいんだよっ!!」
 グリードが吼えると、6人組が爆音と共に発生した炎に包まれた。
 いや、よく見るとその手前を炎の壁が遮っているだけだ。だが、それだけで充分だった。
 「化け物だぁ!! 逃げろぉ!!」
 誰かが叫んだその言葉を皮切りに、遠巻きに覗いていた者たちは一斉にこの場から逃げ去って行った。一番最後に残った茶服の女性が震える足を必死に動かしながら消え去ったのを最後に、この場には俺たちのほかに誰もいなくなる。
 ちなみに、警官たちは彼女や殺された仲間を見捨ててさっさと逃げていた。
 「ちっ、大した食料にもならねえ癖に、でしゃばって俺の前に出てくるからだ」
 凶悪な牙を剥き出しにして、警官たちが逃げていった方向を眺めながら、奴は憎憎しげに毒づいた。
 「……喰ったのか?」
 まあ、うすうす予感はしていたのだが。
 例の工事現場の大量殺人事件がこいつの仕業ならば、恐らくそれは食料目的だろう。でなければ、何か奴の機嫌を損なうようなことを土木作業員たちがしたかだ。見た目が貧弱なこの世界の人間をむやみやたらと殺すようなことは、この魔族はしないのである。
 「腹へってたから、喰うには喰ったんだが……。まずい」
 横を向いたまま苦虫を潰したような表情で呟く。というか、苦虫よりもまずかったと言いたげだ。
 「栄養価が偏っているというかなんというか……。それに、運動不足がありありとわかる。お前らの言うところの、養殖鶏肉と地鶏との違いってところか……。いや、そんなもんじゃないな。とにかくまずい」
 (そこまでいうか)
 多くの学者たちが長年かけて研究してきた結果と同じ答えを、こいつは『喰う』と言う行為で導き出した。当たっているところに、なんともいえない恐ろしさがある。
 「まったく困った話だぜ。これからあんなもんばかり喰わなきゃならんとは……って、そんな話はどうでもいいんだ」
 話が本筋から脱線したことに気付いたらしい。こちらに向き直ると、胸の前に腕を構えた。
 「邪魔者はいなくなったんだ。さっさとはじめようぜ。でないと日が暮れちまうよ」
 (ちっ、できればそのまま元の世界に帰って欲しかったんだがな)
 奴なら元の世界に帰れるはずだ。この世界の人間は食料としては不適合らしいので、多分すぐにでも元の世界に帰るだろう。
 だが、それは俺を倒してからになりそうだった。でないと、絶対に満足して帰ったりしないのは判っていた。
 「止むを得んな」
 俺は再び剣を正眼に構えた。今度は、邪魔をする者はいない。本気の勝負を遮るものは、なにも無かった。
 距離は既にお互いの射程距離。奴は構えを崩さないままこちらを伺い、俺の周りを右へとゆっくり回る。俺はそれに合わせ身体の向きを換えていた。
 4分の3周ほどしたところで、足元で何か小さく硬いものが転がる音がした。そちらに目を向けるや、早速小石が俺の靴に当たって別方向へと転がる。
 そこへ、グリードが右手を振り下ろしてきた。小石は、奴が俺の視線を別方向へ逸らせるために蹴ったものだったのだ。
 静から動へ、一旦動き始めるとそこからは早かった。俺は身を引いて縦薙ぎの一撃をかわす。腕を振り切り俯いた体を起こそうとしているグリードの首筋に、バスタード・ソードを叩きつける。
 しかし、それをサイドステップでグリードはかわす。避けながら俺との距離を詰め、今度は左手を下から振り上げてきた。
 「くっ!」
 (速い!)
 避けるスピードも、繰り出される豪腕の速度も並外れている。やはり、西口雄馬の身体では本当のグリードの速度を上回ることが出来ないらしい。ただでさえ、力ではまったく及ばないのに、スピードで負けるといささか勝算は薄い。
 その振り上げてきた爪をなんとかスウェーでかわす。基本的にグリードは大ぶりなので、攻撃した後は隙ができるのだが、今度はそれを狙う間もなく、右腕がまっすぐ突き出されてくる。俺の後ろは民家のブロック塀。これ以上後ろに避けるわけには行かない。
 (つっ!)
 俺は横へ移動し、その一撃を避けるが、親指の爪が肩を引っ掛けていった。大した怪我ではないが、すぐさま袖の下に血が滲んでくる。
 ボゴォ
 耳元で大きな鈍い音が響く。見れば、グリードの豪腕が勢い余ってコンクリブロックに突き刺さっていた。グリードが目を見開く。どうやら、抜けないらしい。
 (チャンス!)
 ここぞとばかりに、横向きになったグリードの首筋に、剣を叩き込んだ。
 しかし。
 「なにぃ!」
 俺の剣は、奴の右腕に遮られていた。いや、正確には、それが発泡スチロールだったかのように強引にちぎられたコンクリブロックにだ。それは、ちょうど盾みたいな形になっている。スマートにさえしなければ、奴の怪力ならいつでも引っこ抜けたのだ。
 これを抜いたと言うのかどうか怪しいが。
 奴は腕を縦に振り、腕にくっついたコンクリブロックをアスファルトに叩きつける。すると、それはうまいこと真っ二つに割れ、左右に分かれた。それが地に転がった時に立てた音が、その重さを物語っている。
 グリードが顔を上げる。その表情は、楽しそうににやついていた。
 「反応が鈍いぞ。平和ボケで身体がなまったのか?」
 実力差を早速見抜かれてしまった。肩から流れる血が、2滴、3滴とアスファルトの色を変える。
 「あいにくと、この身体ではこれが限度なんだ。一応借り物なんでね」
 今の台詞は、あくまでもユーマリオン側から見た場合の話。西口雄馬の側から見れば、自分の身体には違いないのだが、そんなことグリードに説明したところで意味のないこと。だから、説明は省いておいた。
 「……そうか。それは少し残念だな。だが、そのテクニックは衰えていないように見える。最後まで、俺を楽しましてくれよ!」
 そう言いながら突っ込んできたグリードは、ものすごく嬉しそうだった。奴は、今の俺が相手でも充分満足しているらしい。俺がそれだけ健闘していると言うことだろうか?
 しかし、健闘しただけでは意味がないのだ。奴を倒して生き残らなければ、どれだけ頑張ろうと無駄なのだ。
 奴は豪腕を右から左からと振り回す。どれも必殺の一撃で、防具をつけていない俺がまともに受ければ、先程の警官のように身体に赤い筋をつけられる事になる。そうなれば、例え生きていても、反撃する力など残らないはずだ。
 だが、こちらの攻撃は一発当たったところで、どれだけの傷を負わせられるかは甚だ疑問なのだが……。
 奴の左腕が俺の鼻先を掠める。先程から大ぶりを狙っているのだが、強靭な足腰を利用してすぐに上体を戻してくるので、なかなか隙が見当たらない。カウンターを狙うにしても、スピードが上の相手からカウンターを取るのは、初めから狙っていないと至難の技だ。
 先程から、防戦一方だった。自分の距離すら、取らせて貰えないでいる。このまま行けば、やられるのは時間の問題だった。
 「おっ!?」
 その時、グリードが左を振うと同時にバランスを崩した。実は、今グリードがいる位置の少し左に、先程グリードが殺した警官が倒れており、その警官から流れ出た血に足を取られたらしかった。
 日本警察の意地か!? いや、そんなもんではないだろうが、とにかく狙いどころだ。
 俺は大きく振りかぶり、奴めがけ剣を右上から左下へと袈裟懸けに振り下ろした。だが、グリードは崩れた体勢をあえて戻そうとせず、そのままうつむけに倒れこむ。俺の剣は、奴の長い髪を切り裂いたに過ぎなかった。勢い余って、俺の身体は半回転して後ろ向きになる。今度は、グリードのチャンスとなった。
 しかし、実はそれは初めから計算済みのこと。素早く起き上がり、こちらへ左手を突き出そうとした奴の身体を、勢いをつけ一回転した俺の剣が捉える。実は、初めからこれを狙っての大ぶりだったのだ。
 肉を捉える手ごたえが伝わってきた。
 ……だが、硬い肉だ。
 「くそっ、マジかよ」
 思わず声に出していた。剣が捉えたのは、俺に向けて繰り出されていたはずの左腕。奴は、アームブロックで俺の剣を受け止めていたのだ。これは、グリードが呼び出した剣が本物ではなかったという訳ではない。現在の俺の力では、力を込め筋肉の鎧と化した奴の身体に、血を滲ませることすらできないというだけのことだった。
 動揺した俺に、奴の右腕が迫る。それをぎりぎりで避けると、返しの左腕に警戒した。
 だが……。
 (しまった!)
 奴は俺同様にそのまま後ろ向きになると、左の手首を返し、回転しながら俺を見ないでそれを振って来たのだ。俺が仕掛けた右からの攻撃ではなく、左手での攻撃は半回転で済むので出るのが早い。反応の遅れた俺は左手でそれをカバーしようとする。しかし、当然グリードのようには行かず、その鋭い爪が手首と頬を引き裂いていった。
 「ぐあっ!」
 声に出して呻く。頬の傷は先程の肩の傷同様軽症だ。だが、手前にあった手首の傷からは、血が大量に流れ出ている。というか、その先が動かなくなっていた。これでは、剣を両手で握りこむことが出来ない。
 「これで終わりだぁ!!」
 怪我の状況を確認する俺の胸めがけ、右腕を突き出してきた。初めに殺した男同様、串刺しにするつもりらしい。出血に気を取られていた俺は、その攻撃に反応がするのが遅れた。
 避けきれなかった。間違いなく、致命打を受ける筈だった。
 何かが、横手からグリードの身体を突き飛ばさなければ、そうなるのは必至だった。
 「ごうおっ!?」
 グリードはその何かを受けて、美奈が逃げていった方向へと転がっていく。その転がる体へ、見えない何かが幾度となく炸裂する音が続いた。その音が聞こえる度に、まるでねずみ花火が踊るみたいに滅茶苦茶にグリードの体が跳ね回る。
 合計27の炸裂音が止んだ時には、グリードは15メートル程先でうつぶせに大の字を描いていた。
 (今のは、カディズミーナの気弾!?)
 この世界のものではないのは間違いない。少なくとも、俺の知っている限りでこんな効力をもつ武器はこの地球上には存在しない。どう考えても、今のは魔法……カディズミーナが得意としていた気弾の集中砲火だった。
 やはり、先程見たブロンドの少女はカディズミーナだったのか? この騒ぎを聞きつけ、駆けつけてくれたのか?
 ……しかし、その予想は完全に外れていたのだ。
 大はずれも、いいところだった。
 「大丈夫、雄馬?」
 (え!?)
 まったく予測していなかった声に、俺は固まってしまう。
 (嘘だろう?)
 心臓が早鐘を打ち、暑さに因らない汗がにじみ出るのを感じていた。
 ……それは日本語だった。ウィーネは日本語が理解できない。聞き取れないのに、話すなんてもってのほかだ。
 ……その声には聞き覚えがあった。もう何年と聞いてきた声だ。忘れろと言う方が無理な話だ。
 ……その人は俺の名前を知っていた。当然だろう。自分がつけた名前を、忘れる親がいるわけがない。
 (そんな、馬鹿なことが……)
 どこかにいた、その真実を認めたくない俺が、事実を確認しようとする俺に「そっちを見るな! そのまま前を見てろ!」と叱声を上げる。しかし、前を見続けたところで、この現実が変わるわけではない。
 意を決し、振り返り見たその女性。俺の側まで駆け寄っていたウェーブの掛かった髪の美人に、いつもの笑みはない。こんなに真剣な表情を見るのは、一体いつ以来だろうか? そもそも、見たことがあったのだろうか?
 そんなことはどうでも良かった。
 気弾を打ち込んだと思えるその人物に、俺はいつもと同じ呼び方で呼んでいた。
 「母さん!?」
 ……その女性は、俺の母親、西口香美子に間違いなかった。



 捜し求めていた彼女が、自分の母親。
 驚愕の事実に混乱する雄馬。しかし、考えるまもなく、グリードと戦闘になるが……。
 次章、グリードの意外な過去が明らかになります。
 タイトルは『交わる事無き者達』です。
 お楽しみに。

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