快腕ストッパー・田村勤を思い返す
2002年10月12日
そのうち、これを書く日が来るんだろうなと思いつつも、あまり書きたくないというのが心情でした。
「オリックス・田村投手引退……」2002年10月2日のスポーツ新聞2面目に、こういう見だしが踊っていた。それに伴い、筆を取る事にする。
田村勤……10年前の92年、阪神が優勝を惜しくも逃した年の前半、最終チーム防御率2.90の基盤となる大車輪の活躍をした変則左腕のストッパーだ。あれから10年、阪神には色々なピッチャーが入団してきたが、私は未だ、彼を超える投手は出てきていないと思っている……。
91年のドラフト4位。翌年チーム2位の原動力となった彼は、ひっそりとプロの舞台に上がっていた。社会人上がりのピッチャーということで、即戦力として期待されていたらしい。彼はその期待に応え、1年目にも関わらず60近い投球回数を投げた。
ちなみに、私が最初に「田村勤」を知ったのは、その年のある日、散髪屋でテレビ中継を「聴いていた」時のことだった。当時まだあまりプロ野球に興味が無かった私の記憶に、ノーアウト満塁で登場し、三者三振に切ってチームを勝利に導いたその名前がしっかりと刻み込まれる。それ以来、ずっと彼に注目していた。
そして翌年、彼はシーズン当初から「ストッパー」に抜擢された。
この年、私はプータローをやって(?)いて、6時から始まる野球中継が、そんな私の楽しみのひとつだった。この年ほど、野球を真剣に見た年はない。だからこそ、この時大活躍した彼のことが忘れられないのだろう。
冒頭にも書いたが、田村の投球フォームは左の変則サイドスロー。映像資料が手元にないので記憶だけで言っているが、大体サイドスローとアンダースローの中間……真横より少し下から投げていたと思う。左のサイド及びアンダースローの選手はプロでは稀有な存在なので、それだけでもかなり個性的といえるだろう。
ちなみにこの投げ方、球がめっぽう速く見える。ちょっと考えてもらえればわかると思うが、プロ野球中継は普通、ピッチャーが左、ホームベースが右に映るような角度から撮られている。その場合、左ピッチャーの方が画面上、右ピッチャーより大きく球が移動するので速く見えるのだが、サイドスローの場合腕の位置がさらに左に行くので、より一層速く見えるのだ。
だが、田村がただ単に「見た目」速いだけのピッチャーじゃなかったのは一目瞭然だった。球速自体はMAX141km。変則とはいえ、サイドスローのピッチャーとしてはずば抜けて速いとは言えないだろう。しかし、その球威は尋常でなかった。普通、サイドやアンダーのピッチャーのストレートは、ホームベースの手前で少し沈んで見える。しかし、田村の球はほとんど沈まなかったのだ。初速と終速の差が余程少なかったのだと思う。だから、打者の膝元より少し下ぐらいのボールに、主審の手が上がったのだ。例えそれを振ったところで、面白いように皆空振りする。普通、左投手は右打者に弱いのだが、内角に食い込むクロスファイヤーと、外角高目の釣り球で面白いように三振の山を築いたのだ。(彼はマウンド上でほとんど真横を向いている状態から投げ込んで来たため、右打者からは球の出所が見にくかったのも一因と思われる)
それと、カーブ。鋭く曲がっているようには見えなかったが、完全に打者のタイミングを外していた。意外とコントロールもよく、「えっ?」と言いたげに固まったままボールを見送るバッターの小馬鹿にするように、コーナーにそれは決まった。
当時の彼の持ち球は残りはスライダーのみ。落ちる球を持たずに、投球回数を軽く上回る三振の数を奪ったのだ。9回1イニングを三者三振に切って落とすのは彼の得意技。しかし、自分でピンチを作って盛り上げて(?)おいて、三振で終わらせるのもなぜか得意技だった。
ちなみに、私は今まで、彼以外に本当に「ストレート」で狙って三振を取れるピッチャーというのを見たことがない。
そんな彼の投球で、今でも忘れられないのが、8回2死満塁で登板した田村が、当時新人だった元木(巨人)を三球三振に「軽く」切って落としたシーンである。誰がどう見ても判る力負け。というか、完全に遊ばれた元木が悔しがってバットを投げ捨てたのを見て「ザマーミロ」と思ったのは決して私だけではないはずだ。
あと、もうひとつ忘れられないのが、田村が打者を追い込んだときに始まる、球場全体を包む観客の「うーーーーっ」という声。私の地元の少年ソフトボールの試合などで見られる光景で、投球と同時に「三振!!」と皆が叫ぶのだ。それも、十数人程度のチームメイトが言うのではない。甲子園だと、収容人数5万人の半分である2万5千人に、1塁側に入れなかった阪神ファンまでもが言うのだ。見るまでもなく異様な盛り上がりが想像できるだろう。そして実際に田村が打者を三振で切って落とすとさらに大きな歓声が沸き起こるのだ。これは、狙って三振を取れるピッチャーがマウンドにいないと作れない光景である。私の家は甲子園から多少遠いので実際にあの場にいたことはなかったのだが、今思えばあの中でいっしょに「うーーーーっ」と言えれば最高の気分だと思う。まあ、そうでなくともまたあの興奮をお茶の間に届けられる投手が出て来ればいいのだが……。
ところで、最終回のマウンド上で注目を浴びる彼の表情は、見事なほどに無表情だった。なんでも、アマチュア時代によれよれの投球ながらも勝った試合に大喜びして、当時の監督に怒られて以来、マウンド上で感情を出さなくなったらしい。だが、そんな彼の無表情ぶりが、当時のズームイン朝の司会だった福留さんに、「あの鉄仮面が憎たらしい」と言わさせたのを覚えている。
だが、普段の性格はマウンド上の投球から見て想像するものとはかなり違っていたようだ。チーム内での愛称は「たむじい」。確かに、ちょっと猫背気味にとぼとぼと(?)歩いている姿はおじいさんのようだ。
彼が大活躍した92年の前半、故障する寸前だったと思う。タイガース関連の番組で田村特集が組まれていたのだが、練習中の彼には笑顔が絶えていなかった。チームメイトにちょっかいを掛けたりと、お茶目ぶりも発揮。こういう意外な二面性が好きな私には、彼のこの姿が妙に気に入っていた。
あと、彼がマウンド以外で最高に笑わせてもらったのが、契約更改の時。ニュースを見ていたのだが、その前に出ていたのが新庄。スポーツカーに乗って颯爽と引き上げていく画面が切り替わった途端、田村が自転車でキコキコと、まるでおじいさんが自転車に乗るかの如く、だるそうに球団事務所にやってきたのには思わずずっこけてしまった。そんな自分を飾らないところも私は好きだった。
しかし、それだけ好きな選手だったからこそ、ぼろぼろのピッチングでマウンドを降りる姿は見たくなかった……。
田村に絶対の信頼を寄せていた当時の中村監督は、8回から彼をマウンドに送った。先発陣も、7回まで投げれば勝てると思っていたから、思い切り投げた。この年一年間、先発投手陣が大活躍した要因の一つに、田村の力があったのは間違いないだろう。
しかし、度重なる無理は、彼の肩や肘を確実に蝕んでいた。92年6月のある日、彼のコントロールが明らかに定まらない。そして、三塁に送球の際とんでもない暴投でランナーがホームベースを踏む……。
この日を境に、あの快速球を見ることはもう無かった。翌年復活した田村の球速は、何故か146Kmを掲示することもあったが、球威という点では前年に比べて劣っていたと思う。どう見ても、あの絶対無敵の投球とダブらなかったのだ。(とは言っても、前年を越える22のセーブに、2点台半ばの防御率。投球回数に比例する三振数と立派な成績だった事を補足しておく。)
そしてまた故障、復活を繰り返す。しかし、彼は投げ続けた。さすがにストッパーは出来なくなったが、代わりに左殺しのワンポイントとして地道に活躍していたようだ。
「ようだ」と言ったのは、実は私自身、後期の彼の投球をあまり覚えていないためだ。仕事が忙しくなって野球中継をしっかり見れなくなったのだ。そう、私は彼の良かった頃しか知らない。だからこそ、余計に神格化しているのだろう。
いや、ひょっとすると、単に自身が無意識のまま、その記憶を消しているのかもしれない。なぜなら、彼は故障以降も年間40〜50試合に登板しているのだから、まったく見ていない訳が無いのだ。
だけど、やはり覚えていない。故障でまったく登板出来ない時期が多すぎたからだろうか……。
だが、あれから10年が経った今まで、田村はプロのマウンドに立ち続けていた。正直、私は彼が今まで野球を続けれるとは思っていなかった。あれだけの数の故障を繰り返しながら、37才という投手としては充分すぎる年齢まで投げつづけたのだから、その精神力は凄いとしか言い様がないだろう。
本当に、お疲れ様と言いたい……。
ちなみに、今これを書いている現在、田村の今後を耳にしていない。
ふと、彼が一番活躍していた頃、テレビで野球選手を辞めたらと聞かれて、「普通にサラリーマンやっているんじゃないですか?」と言っていたのを思い出したのだが、本当にそうするのだろうか?
私個人としては、阪神に戻ってきて若手の指導をして欲しいのだが……。
追記……
たむじいの引退試合が放送されていたので、きっちり最後の雄姿をビデオキャプチャーに収めました。
その際に、「何らかの形で球界に残る」という今後の予定が聞かれました。何をするにせよ、がんばって欲しいですね。
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