※エピローグ 一人になって……※  (これでよし……と)  俺は、かなり長い間持ちつづけていたペンを置く。気がつけば、午後4時を回ろうかという時間になっていた。  ……あれから、二日の時が流れていた。  母さんが消えたあと、この家は非常に静かだった。元々、母さんは帰りが遅かったので、俺は家にいる大概の時間を一人で過ごしてきた。だから、静かな事には慣れている。そのはずなのに、今はこの静寂が辛かった。  それは、帰ってくる者がいる事といない事の差なのだろう。今ここは、もの凄く寂しい空間だった。  歴史は変わっていた。もとより、いくら膨大な魔力を要したとはいえ、人ひとりが使った魔法。大きく変わった訳ではない。しかし、グリードと母さんが消えたという事実は、確実に歴史に影響を及ぼしていた。  まずグリードの影響。土木作業員の大量虐殺が事故に変わっていたのは既に確認していたが、路上で俺と遭遇した際に奴が起こした殺人もうまい具合に変わっていた。ニュースで確認したのだが、暴走した赤のオープンカーが、巡回中の警官二人と民間人を撥ね、そのまま塀に突っ込み爆発・炎上したという事故に変わっていたのだ。  どれもこれも、死んだという事実に変わりが無かったのは残念だが、怪物に殺されたという理不尽な事実よりは、まだ遺族も納得しやすいんじゃないかと思う。暴走の理由も機械的欠陥の可能性が高いとかで、一方的に運転手の責任になるような事も無いらしい。まあ、最終的にはどこかに責任が行くのだろうが、それは今の俺の興味をそそるものではない。  そして母さん。まず、表札から名前が消えうせていた。表札には母さんと俺の名前が併記されていたのだが、今書かれているのは俺の名前だけ。外から母さんのいた会社に電話を入れてみたが、「その様な者は在籍していない」という冷たい答えが聞けただけ。  で、電話の横にある写真立て。母さんが、幼い俺を抱く姿が写った写真が入っているはずのそれには別の写真、幼き日の俺が一人、芝生の上で遊んでいる写真に摩り替わっていた。  (判っていた事だけど、これぐらいは残って欲しかったな……)  もう何回見ただろうか。しかし何度見ても、それが元あったはずの写真に戻っている事はない。今のこの世界に、元あった写真など存在しないのだから。  ……米が炊けたブザーが鳴る。あの、黄色い炊飯器からだ。歴史が変わっても、それは我が家にあった。多分俺が買ってきた事になっているのだろう。というか、母さんが探しまわって買ったというテーブルもその他の何もかもが残っていた。無くなったといえば、先程の写真ぐらいだ。全部、何かしらの理由をつけてこの場に留まっているようだった。  残っているといえば、母さんが稼いだはずのお金も全て残っていた。調べてみて驚いたのはその金額。瞬間目を見張ったその残金は、母さんと俺が何不自由なく暮らすためのものだった。いつ自分の為に、そして俺の為に必要なお金ができたとしても対処できるだけのもの。それが、手元に残っていた。しかし、それは母さんが稼いだものではなく、何らかの形で自分が手に入れたものとなっているらしい。  実は、その辺りがまったく判らないのだ。母さんが存在していたという事実を覚えていた代わりに、変わってしまった歴史の事は何一つ知らないのである。判っているのは、この家には母さんも、ましてやそれに変わる誰もいないという事。父も母もいない俺が、これまでどうやって生活してきたかなど、まったくと言っていいほど判らなかった。  しかし、それも俺の興味対象外だった。これから旅に……カディズミーナを探す旅に出る俺に、過去なんていらなかった。必要なのは推進力だけ。彼女を捜すという俺の意思と、旅に必要な財力だけだった。残金にしても、必要だから調べただけであって、別にそれ自体に興味があった訳ではない。  だが、母さんが残した貯金は、これからいつ終わるか判らない旅に出る俺にとって非常にありがたいものだった。カディズミーナを探す旅の費用にするのなら、母さんも本望だろう。  (しかし、母さんももしもの為に溜め込んでいた金が、こんな形で使われるとは思ってもみなかっただろうな……)  そう思いながら、すでに昼食なのか夕食なのか判らない食事を取るために、炊飯器の蓋を開ける。おかずは、買い置きの缶詰。ここ2日間はずっと缶詰の消費だった。外に出るのも煩わしかったし、どうせもうすぐ旅立つのに、缶詰群を残しておくのも勿体無かったからだ。  茶碗によそったご飯。前のものより、見た目はうまそうに炊けている。しかし、それを美味しいと感じることはなかった。  (そろそろ、旅の用意を始めるか)  箸を動かしながらそう思う。旅の前にやっておきたかったことは大方終わっていた。あと一つを残して、この場に留まっている理由はなくなっている。  とりあえずは、アメリカに渡るつもりだ。先日美奈と相談した際に聞いた方法……有名になって、テレビなどのメディアでカディズミーナを呼びかける……が、一番効率が良さそうだからだ。中程度の学力の自分では頭脳で有名にはなれないが、スポーツなら何でも世界一になる自信はある。とりあえずボクシングという手持ちはあるが、有名になれるのならば別に何でもいい。  世界的著名人になるのに、日本という国は狭すぎる。だから、アメリカに渡る必要があった。幸い、俺自身向こうで生活するのには何の苦もない。多少時間はかかるかもしれないが、世界各国をむやみやたらと旅するよりかは、間違いなく効率がいいだろう。  その時間をいかに短くするかは、俺の努力次第だった。  だがその前に、「あと一つ」を済ましておかなくてはならない。それを置いて旅に出る事は、許されないことなのだ。  (ん?)  常人の耳では聞こえないだろう。事実、俺自身ユーマリオンと一緒になるまでは聞こえなかった音……誰かが階段を上がる音だ。駆け足で鉄製の階段を上がる音が、ガコンという大きな音と共に止まる。  しかし、1秒と経たないうちに、再びその音が軽快なリズムを刻みだした。階段を上りきったのだろう、それがコンクリを打つものへと変わり、だんだんこちらへと近づいてくる。  音が、この部屋の前で止まった。  その音の主は我が家に用があるのだろう。しかし、呼びかけるかどうかを迷っているのか、ドアの前で止まったままだ。  『彼女』にしては、扉の前で逡巡するなど珍しい事。いつもならチャイムがあるにも関わらずすぐに扉をノックし、返事が遅れると新聞受けから目を覗かせて中の様子を伺うのに、今日は何故かチャイムを鳴らす。  何やら彼女の様子がおかしかった。  「あいているぞ」  扉に向かってそう言う。大して大きな声ではなかったのだが、それでも外にまで聞こえたらしい。彼女は遠慮気味に扉を開けると、顔だけをこちらへ覗かせた。  ……南波美奈。やはり、彼女だった。  特に調べたわけではなかったが、彼女が変わらず俺の側にいる事はなんとなしに感じていた。少し様子がおかしいが、今尋ねてきたのは間違いなく、俺の知っている美奈本人だ。家に帰る前にここにきたのだろう、彼女は制服姿のままだった。  (いっそのこと、歴史が変わった拍子にいなくなってくれれば、楽だったのにな……)  心の中で呟く。本当は彼女の存在を喜ぶべきなのに、そう呟かなくてはいけない現状を恨む。  しかし、もう決めたのだ。俺はカディズミーナを捜す旅に出る。その旅に、美奈は不要だった。だから、彼女を説得しなくてはいけない。間違っても、俺を追いかけて来ないように。違う幸せを見つけて貰うよう、彼女に説かなくてはいけないのだ。  それが、俺が旅に出る前に済ませておかなくてはいけない最後に残った事。必ず美奈を説得する……それは、母さんとの約束だった。  「雄馬、いたんだ。どうしたの? 学校休んで……」  言いながら、美奈は中に入り扉を閉める。俺の表情を伺うその顔は、とても心配そうなものだった。  「病気しているって感じじゃないよね? 心配だったんだよ……。土曜日はウィーネさんの所に行くって言って走り去ったと思ったら、ホテルに姿がないし、電話掛けても全然繋がらないし、今日学校に行ったら、雄馬来ていない上に連絡も無いって聞いたし……」  そりゃそうだろう。電話は母さんが壊してしまったのだ。まあ、実際のところは俺が落として壊したぐらいになっているのだろう。だが、そんな事はどうでもいい。  どうせすぐに旅にでるのに、わざわざ電話機を買いなおす必要などまったくなかった。  「学校はさぼった」  とりあえず適当な答えを返す。今日は本来登校日なのだが、今更学校に行く気など毛頭なかったので、当然のようにさぼっていたのだ。もう、あそこに行く事などない。  しかし、事情を知らない美奈はあたりまえだが怒った。  「雄馬ぁ! 就職するんでしょー。この大事な時に、学校さぼってどうするのよー?」  本当なら詰め寄るところだろう。しかし、上がれともなんとも言われていない彼女は、玄関先で頬を膨らます事しか出来ないでいる。  その頬が急にしぼんだ。  「あれ?」  彼女の興味が、俺を説教するところから早速ずれたらしい。目移りが早いのは彼女の癖だ。  「雄馬。その絵はなに?」  美奈が目をつけたのは、水屋に飾ってあった一枚の絵だった。俺がこの2日間の間に描いていた数枚の絵……そのうちの一つ。  つい先ほど出来上がった物だった。  「そんなところから覗いてないで上がれよ」  「うん」  俺は、玄関から目を細めて必死で見ている彼女にそう促した。早速、美奈は靴を脱いでこちらに来る。やたらと遅い昼食に訝しげな表情を作りながらも、特に問わずにテーブルの横を抜け、その絵をまじまじと見つめて言う。  「へー、上手いって言うのは聞いたけど、本当に上手いんだね。雄馬の外見からは想像できないよ。こんな絵が描けるなんて……」  「やかましいよ」  余計な一言を挟む美奈を睨みつけると、その視線に気付いた彼女は少し舌を出して誤魔化そうとした。  「あれ? あんなところにもあるよ」  別のところに飾ってある俺の絵を見つけた彼女は、その時になって始めて、まだ他にも絵が飾られている事に気付いたらしかった。  「凄いよ、雄馬……。どれもこれもプロ級じゃない」  元々丸い目をさらに丸くして、それらを見て回る。しかし、その全てを見終わった彼女の表情が、感心から困惑へと変わった。  「でも、雄馬。なんで、これ同じ人ばっかりなの? これ、誰なの? 凄く綺麗な人だけど……」  美奈は最初に見た絵……水屋に飾っている絵を指差しながらそう言った。  そこに描かれているのは、首だけをこちらへ向けて微笑む母さん……西口香美子の姿。  そう、俺はこの2日間、ひたすら母さんの絵を描いていたのだ。母さんの写った写真が全て消えた今、その姿は俺の記憶に残るだけ。しかし、記憶はいつか薄らいで行くもの。どれだけ覚えていようとしても、必ずそれはおぼろげなものとなる。だから、そうなる前に絵という形にしなければならなかったのだ。なるべく、精細な形で。できるだけ多くの姿を……。  それが、これらの絵だった。  「母さんだよ、俺の……」  通じないと判っていながら、敢えてそう言う。案の定、美奈は「はぁ?」とでもいいたげにした。  「お母さんって……雄馬、お父さんもお母さんもいないって自分で言っているでしょう? それとも、黙っていただけで本当はいるの?」  (いたんだよ。みんなが、忘れただけだ)  声に出さずに心の中だけで呟いた。当然、その呟きが彼女に聞こえるはずもなく、さらに美奈は言葉を続ける。  「……あ。ひょっとすると、雄馬の『理想の母親』ってことなの? そうでしょ? 雄馬」  「まあ、そんなところだ」  説明したところで狂言とでも思われるのがオチなので、話の辻褄を合わせるべくそう返事しておく。  (理想の母親か……)  今考えれば、これ以上ない理想の母親だったと思う。不器用だったかも知れないが、俺にとっては最高の母親。  そんな母さんの『願い』を、聞かないわけには行かなかった。  (しかし、どう切り出したものか……)  美奈に未練を残さないように別れる。それは、この絵の人物が俺の母親だという事を納得させる以上に難しい事だ。しかし、成し遂げなければならない。それが、俺が美奈にしてあげられる最後の事だから。  だが、今はタイミングが掴めなかった。  「ねえ、雄馬。この人、私たち会った事ない? なんか、見覚えがあるんだけど……」  俺の思考を、美奈が口走った妙な言葉が遮った。  「他人の空似だろう」  にべもなく言う。今のこの世界に、母さんは存在しない。存在しないものに、見覚えがある訳が無いのだ。  母さんに見覚えがある、そんな人間はこの世で二人、俺とカディズミーナ……名前のどこかに『カミィ』があって、この世界の力であらざる『魔法』が使える女性だけだ。  「気のせいかぁ」  なんか、腑に落ちない様子だったが、それ以上思い出すのが無駄だと思ったらしかった。  (なあ、美奈。おまえ、ついこの間までこの人を信望していたんだぜ) まだ母さんの見ている美奈を見つめる。……一人で家計を切り盛りする母さんを、いつも尊敬の眼差しで見ていた美奈。その彼女が、母さんの事を忘れている。それは、とてつもなく悲しい事に思えた。  「なんか、凄く幸せそうね、この人」  「え?」  思いがけない言葉に、思わず疑問符が飛び出た。自分としては、特に表情とかを意識して描いたつもりは無い。ただ、普段の母さんをできるだけ精巧に再現しようとしただけだ。だが、美奈はそう言う。  「うん。幸せそうだよ。どれもこれも」  「そうか……」  美奈はその台詞に自信があるようだった。  ……本当のところはどうだったのだろうか? 大切な伴侶に早々先立たれ、残された息子を養うために毎日働き詰め。その息子は母親の気持ちを知らぬままのうのうと育ってしまい、やっとその気持ちを伝えた時には、存在そのものがこの世界から消えようとする寸前……。それが、本当に幸せな一生だったのだろうか?  しかし、今は美奈の一言を信じたかった。俺は精確に母さんを描いただけ。だから、その絵から彼女の幸せを感じ取れたという事は、本当の彼女自身が幸せを感じていたという事。  そう思いたかった。  「楽しいだろうなあ……。遊園地とか動物園とかに行くのに、こんな綺麗で優しそうなお母さんが横にいてくれたらねー」  「お前の母さんも結構綺麗じゃないか」  「そうかなー? この人には、絶対負けていると思うよ」  美奈の返事は聞いていない。言いながら、俺は別の事を考えていたのだ。  「……そうだ、美奈。今から、どこかに遊びに行かないか? どこでもいい……。俺が全額支払うから、お前が一番楽しめるところ。今からそこに行こう!」  急に名前を呼ばれて、瞬間訝しげにした彼女は、その言葉の魅力に目を輝かした。  美奈の言葉で思い出した事があった。母さんが消える間際にしたこと……俺のために、思い出を作る。それと同じ事を、美奈にしてあげようと思ったのだ。彼女が楽しいと思える事を今日一杯、俺と一緒にする。  彼女の我侭をいくらでも聞いてあげよう。後でなるべく、お互いに悔いが残らないように……。  「んとね……。カナダに行きたい! ナイアガラの滝が見たいよっ、雄馬!」  「今から行けるところだ」  いきなり彼女の我侭を却下してしまった。  「うー、だったら富良野。ラベンダー畑が見たいよー!」  「行けるかも知れんが、今から行っても真っ暗だぞ。だいたい、明日も学校だろうが」  久しぶりに(と言っても、2日ぶりだが)聞く美奈節に、頭を押さえながら答える。例え世界がどう変わろうと、彼女のこの惚けぶりだけは変わらないだろう。  「……たざわYOU遊王国」  (いきなり現実的になったな)  すっかり意気消沈した美奈の口から漏れた呟きは、ここから5つほど駅が離れたところにある遊園施設の名前だった。  「よし、ちょっと待ってろ。すぐに支度するからな」  そう言って一気に飯を掻き込もうとした俺を見て、美奈は慌てた。  「わわっ、私制服のままであんなところに行かないよっ。帰って着替えるから、適当な時間に迎えに来てよ」  「判ったよ」  (早く支度を済ませてくれよ)  言葉にはしないがそう願う。今日という時間は、できるだけ長いほうが良かったから。  しかし、早速玄関に向かおうとした美奈の足が止まった。  「ねえ、雄馬……」  「ん、なんだ? 早くしないと時間が短くなるぞ」  「卒業したら、二人でカナダ旅行にいかない? 卒業旅行でっ」  (……)  「って、そんなお金ないか……。あ、でも、北海道ぐらいなら行けるよね?」  彼女の言葉に他意はない。ただ、純粋に思った事を口走っているだけだ。俺が賛同してくれる……そう思って。  「ありゃ、卒業シーズンの北海道に行っても、雪が積もっているだけかな? あはは……。10分ほどしてから迎えに来てねっ!」  元気そうな声で……事実元気なのだろう、勝手に話を完結させると、早速玄関から彼女の姿が消える。  俺は、その姿の消えた場所を暫くの間見つめていた  「すまん、美奈。おまえとは旅行に行けないんだよ……」  呟く。  まだ、この台詞を彼女に言ってはいけない。今日という日が終わるまで。彼女が精一杯楽しめるように……。  まだ、言ってはいけないのだ。  玄関のチャイムを鳴らすと、程なくして階段を駆け下りる音が聞こえてきた。  「おまたせ〜♪」  早速、昨日買ったばかりの服に着替えた美奈が姿を現した。今日は門のところで待っていたのだが、そこまでの短い距離もこけずにここまできた。  あたりまえの事なのだが……と、思った矢先に、  「あ、財布……」  と、玄関に戻ろうとした彼女が見事に転んでいた。  「おい、美奈。今日は財布持たなくていいぞ。さっきも言ったが、俺が電車代から何から何まで全額持つから」  早速起ち上がろうとしていた美奈の動きが止まる。訝しげな表情をこちらに向けたが、ぱっと電球に明かりが灯ったかのように笑顔を見せる。  「やった! 今月結構ピンチだったんだよ。雄馬太っ腹〜」  (最後だからな……)  喜ぶ彼女を尻目に、心の中で呟いた言葉は聞こえない。しかし、普段と違う俺の雰囲気を、彼女は鋭く察知してしまった。  「雄馬、どうしたの?」  小首を傾げる。すると、先日切った柔らかそうな髪がその方向に偏った。  「なんでもないよ。さあ、早く行かないと日が暮れるぞ! 今日は、開園時間いっぱいまで遊ぶからな!」  心の乱れを読まれた事に気付いた俺は、慌てて平常を装うとするが……  「雄馬、なんか空元気に見えるよ。学校も休んだし、何かあったの?」  逆効果だった。俺はやはり母さんに似て……いや、母さんよりも不器用らしい。  「なんでもないって。それより、お前。この間例のホテルまで行って、ウィーネには会ったのか?」  答えながらさっそく駅に向かって歩き出した俺は、無理やり思いついた事を利用して話題を変えようとした。言ってから、「何でウィーネさんを追っかけたの?」とか、「慌てて追いかけたのに、途中で諦めたの?」とか突っ込まれる事を危惧したのだが、彼女はウィーネの名を聞いて、「あっ」と一言、口を半開きにする。何か、大事なことを思いだしたらしかった。  「そうだそうだ雄馬ちょっと聞いてよー!!」  「なっ、なんだ!?」  いきなり早口で捲くし立てた美奈の勢いに思わずたじろぐ。喋りながら大きく振ったので、チェックのハンドバックを彼女は落としそうになった。  「ウィーネさんの彼氏、見つかったのよ!」  「えっ?」  その内容に驚く。一体彼女に、どのぐらい彼氏の居場所に関する情報があったのかは知らない。だが、例えこの市内である事が確実なものだったとしても、日本語が判らない彼女が見つけ出す可能性というのは、とてつもなく低いものだと感じた。  「美奈、お前が探し出したのか?」  そう決め付け、確認した。だが、美奈は大きく首を左右に振ると、目を輝かしながら「奇跡だよ」と言う。  「あのね。ウィーネさんに教えたホテルにね、その彼氏が働いていたんだよ! 私が行ったら、ウィーネさん、その人に抱きついて泣いていたの。びっくりしたよー」  「……確かに、それは奇跡だな」  「でしょ」  彼女の言葉に素直に納得した。もし、俺たち二人があの公園にいなかったら。美奈が、 あのホテルを教えなかったら。まだ彼女はこの町を彷徨っていただろう。そして、ここにはいないと思い込んだが最後、永遠に会う事は無かったに違いない。  まさに奇跡……俺はその奇跡を喜び、そして嫉妬した。  「なんでもね、日本で生活することを夢見ていた彼氏と合わなくなって別れたらしいんだけど、どうしても忘れられなくて追いかけてきたんだって。ウィーネさんが雄馬の事『手放すな』って言った意味、よく判ったよ……」  (美奈……)  痛い話だった。これから別れ話を切り出さなければならない俺にとって、これほど痛い話はなかった。  「えへへー。私、天使だって言われちゃったよ。何にもしてないのにねー。……あ、そうそう。ウィーネさんがね、雄馬と一緒に来てって言っていたよ。暫くはあそこにいるから、改めてお礼が言いたいって」  言いながら、屈託のない笑顔をこちらへ向ける。今が、とてつもなく幸せだと言っているようなその笑顔を、俺は消してしまうことになるのだろう。  (こいつにも、幸せは訪れるのだろうか? そして、俺とカディズミーナには……?)  そう思う。美奈は俺を失った後どういう道を進むのだろうか? 彼女はずっと、俺のためにいつもそばにいてくれた。しかし、それは彼女自身のためであることも俺は知っている。  美奈の本当の気持ちはわからない。しかし、その1割の気持ちぐらいは判っているつもりだ。だから、痛かった。彼女を見捨てる事が、とてつもなく辛かった。  そして、俺とカディズミーナは再び巡り逢えるのだろうか? 俺は彼女を探すことを決意した。しかし、本当に彼女は転生したのだろうか? 母さんと一緒に消えてしまった……そんなことも、充分にありえるのだ。そう思うと、不安がたちまち身体中を蝕んだ。  「雄馬?」  美奈が、前に回りこんで俺の顔を覗き込もうとした。しかし、俺はそっぽを向いて彼女と目を合わさないようにする。  「どうしたの? 雄馬、今日なんか変だよ。学校休んだし、たまに妙に沈んだ顔するし……。それに今、泣いていたように見えた……。何かあったの?」  「何にもねえよ」  言うが、彼女と目は合わさない。合わせれば、涙ぐんでいるのがばれるからだ。  暫くの間心配そうに俺のほうを向いていた彼女は、何も言わないまま前を向き歩き続けた。聞かない方が言いと、彼女は判断したらしい。  (すまん、美奈……。できれば、このまま黙っていてくれ)  不器用な俺がしつこく追及されて、場が凌げるとは思えない。今日一日、彼女が深く詮索しない事を祈る。美奈にはただ、残された時間を楽しんで欲しかった。  「なんか、私の話聞いてもらう雰囲気じゃないなあ……」  (ん?)  俺に聞こえないように呟いたらしい。しかし、俺の超人的な聴覚は、それを聞き逃したりはしなかった。  「なんだ、俺に話があったのか? 相談事があるのなら乗るぞ」  そう言えば、俺の家に来たときの彼女の様子がおかしかったのを思い出す。学校を休んだ俺が気になっただけではなかったらしい。  「……今の、聞こえたの?」  眉を跳ね上げた美奈が慌てて振り向く。聞こえているとはまったく思ってなかったらしく、化け物を見るような目つきで俺を見た。  「聞こえたぞ。話って何だよ? 今だったら聞いてやるぞ」  (明日になったら、俺は聞いてやれないからな)  続きの言葉を声に出さずに言う。もう、彼女に合うのは今日が最後と決めていた。明日にでも、あの家を出るつもりだった。だから、彼女の話を聞いてあげれれるのは、今日いっぱいまで。  「……」  だが、彼女はそれを言うことをためらっていた。歩く速度を上げて平走すると、今度は俺が彼女の顔を覗き込む。2秒ほど、俺と視線を絡めた彼女は、俯き眉を寄せ思案しているようだった。  「……やっぱりいいよ。なんか、雄馬笑いそうだし」  「なんだそりゃ?」  言えば笑われるような話をしようとしている割には、本人の表情は真剣そのものなのが気になる。  「笑わないよ。どういう内容か知らないけど、お前にとっては真面目な話なんだろ? 笑わないから、言ってみろよ」  本当に悩んでいるのが判ったから、俺も真摯な態度で応じることにする。何を言われても、笑わないつもりだった。  「本当に笑わないよね」  「ああ」  余程心配らしい。こっちが真剣な態度で応じているのに念を押してから、美奈は語りだした。  「夢を見たんだよ……」  最初の一言はそれだった。  夢のような話の……。  「昨日も今日も同じ夢。その夢の中で、私は魔法が使えてね。それで、フィアンセと共に異世界に逃げ込んだ悪魔を追いかけたところから始まるの」  どこかで聞いた事のある話だと思った。初めは、本当にそこと結びつかなかった。  「でもね、その悪魔の魔法で私はフィアンセと離れ離れになっちゃったの。魔法で話は出来たけど、どこにいるかは結局判らずじまい……。だけど、どうしてもその人の事が諦められなくて、二人で転生の秘薬を飲む事にしたの。姿が変わってもいい……。いつか、その魂だけでも巡り会えるようにって」  (えっ!?)  そこまで言われて、俺の意識がある一点へと繋がる。身体中を衝撃が駆け抜け、心臓が早鐘を打った。  (そんな馬鹿な!? そんな事がある訳ない……)  そう。カディズミーナが転生した女性は、名前のどこかに「カミィ」という読みを有しているのだ。だから、美奈が彼女の転生などという事は無い。  しかし、だったら美奈のこの夢はなんなのか? 偶然にしては、あまりにも話しが似すぎている。  真横で内心慌てまくっている俺に気付かないまま、美奈は話を続けていた。  「ここまでだったら、ただの夢で終りなんだけど、その魔法使いみたいに、本当に魔法が使えるようになっちゃったんだよ」  (なんだって!?)  頭が真っ白になって、思考が極端に鈍る。  「冗談でね、一回火の玉を飛ばしてみたら、本当に飛んでいったんだよ。そしたら、コンロに引火してビックリ。まあ、古い奴だったから故障したって、お母さんには誤魔化したんだけど……」  真顔で恐ろしい事を言われても、反応できないぐらいに俺はうろたえていた。  「美奈、お前……」  急激に渇いた喉から声を絞り出す。  しかし、続きの言葉は言えなかった。  ボゴッ!  「痛ぇっ!! 何するんだよっ」  美奈の強烈な張り手が背中に炸裂して、俺は3歩ほど前につんのめる。しかし、振り返り彼女を見れば、ものすごい膨れっ面で俺を睨みつけていた。  「聞き間違えかと思っていたら……。雄馬ぁっ! 何で幼なじみの名前を間違えるのよぉっ! 私の名前は『香美奈』でしょっ! ……それとも、略して呼んだわけ? それだったら、「ミナ」じゃなくて、「カミィ」って呼んでよっ。そっちの方が、しっくり来るから」  (……は?)  美奈が、寝惚けた事を言ったのだと思った。それが『事実』だという事を知らずに。その事実を知らないのは俺だけだという事を、俺はすぐに知る事になる。  「何を言っているんだ、お前の名前は美奈だろうが? 俺の母さんがつけた……」  俺はそこまで言ってから、その台詞の不自然さに気がついた。  (母さんが……つけた??)  その言葉を頭の中で数回反芻する。そして、それが意味するところをゆっくり、確実に汲み取ろうとした。  「雄馬、大丈夫? 雄馬のお母さんはいないんだよ? なんで、いない人が私の名前を付けるんだよ? やっぱり雄馬今日おかしいよ……。家に帰って、ゆっくり休んだ方がいいんじゃないかな?」  一転してもの凄く心配そうな顔を覗かせる。しかし、俺はまだ思考中で、その言葉のほとんどを素通りさせていた。  (母さんがつけた?)  「雄馬、どうしたの? ぼうっとして……。熱でもあるの?」  「……」  「ないんだったらいいんだけど、大丈夫なんだったら歩こうよー。日が暮れちゃうよー。」  「……」  「……雄馬。私の話だったら、気にしなくてもいいからさあ。ただのたわごとだから……」  「……くっ」  「?」  「くくっ」  「??」  俺は、ついに堪えられなくなった。  「くわぁっはっはっはっはっはーーっ!!」  「え? あれっ? なになにーっ、何で笑っているんだよー!!」  恐らく目を丸くして詰め寄っている。しかし、俺は腹がよじれるのを堪えるのに必死で、彼女の表情を確認している余裕がない。  そんな俺の急変に戸惑い、おろおろしていたらしい彼女の怒りが膨れ上がるのを感じた。  「あーっ!! 雄馬っ、笑わないって言ったのに、何で笑うんだよー!! こっちは真剣に話しているのに、酷いよー!! 雄馬の嘘つきー!!」  言いながら、俺の頭を滅茶苦茶に殴る。腹の上に頭を押さえる必要に迫られたにも関わらず、俺は爆笑を続ける。  「信じられないよー! 酷いよー! 信じてくれないんだったら、魔法浴びせるよ!」  「うわっ、それはやめてくれっ」  気弾の集中砲火を浴びせられたらさすがにたまらない。慌てて言うが、まだ俺の顔には笑みがへばりついて剥がれない。  いや、剥がすつもりなんて、なかった。  これほど、楽しい話はないのだから。  「うー」  拗ねる彼女がかわいかった。  「……まあ、いいか。雄馬、元気になったみたいだしね」  少し上を見ながら呟く。彼女の機嫌が早速戻った事を確認した俺は、大きな声で彼女に宣言した。  「さて、ここでじっとしてても仕方がないな。さっさと行って、今日は一日楽しもうぜ!」  ……もう、切ない思いに駆られる事などなかった。  「え? あ? じっとしててって……。止まっていたのは雄馬だよ……って、ちょっと待ってよー」  ……もう、旅に出る必要なんてなかった。  「遅れるなよっ!」  ……彼女は今、目の前にいるのだから。  (美奈……いや、香美奈は母さんの事、どのぐらい思い出せるのかな?)  走りながら思う。まだ、母さんはおろかカディズミーナの記憶すらほとんど戻っていない。  しかし、じっくり待てばいい。彼女は……香美奈は俺の前からいなくなったりしないのだから、慌てる必要なんてどこにもなかった。  「わきゃあっ!」  妙な悲鳴に振り向けば、香美奈が顔面からアスファルトに突っ込んでいた。  「大丈夫か?」  受身に失敗したのか、珍しくもすぐに起き上がってこない。俺はすぐさま彼女の元に寄ると、両手を突いたままこちらを見ていた香美奈に手を差し伸べた。その手を差し伸べる俺の笑みにつられ、彼女も笑う。  無邪気な笑顔……美奈の笑顔であり、カディズミーナの笑顔でもあるそれは、二人の『俺』が想像もしなかった奇跡……。  俺たちが見た、この世で最高のものだった。    ふたりのふたり END