※第8章 ふたりのふたり(前編)※  夕焼けというにはまだ早いか、しかし、日はだいぶ西へと傾いている。そんな太陽の光が、湖面に美しい輝きを作っていた。  戦いが終わって改めて見てみると、本当に静かなところだった。綺麗だが、静かで寂しいところだ。  「雄馬、さっき治療いい加減に終わらせたでしょう? ちゃんとするから、動かないでくれる?」  母さんはそう言って、一度止めた足を再び動かしこちらへ歩んできた。  (動かないでといわれる前に、動けないんだけどな)  血こそ止まっているものの、何もかもが回復している訳ではない。というか、生命維持ができる程度にしか治療してくれなかったのだ。多分、変に動いて欲しくなかったのだろう。  本当に最後の賭けだった。  「あらら、この服ももう駄目ね〜」  そう言いながら俺の脇腹に手を当てた。その触られた部分……怪我をしたあたり一帯が血で染まっている。シャツは完全に裂け、ズボンは片面のほとんどが変色していて、母さんの言うとおりもはや使いものにならないのは明白だった。  当てた手が淡く発光する。その光り方が、いつもに比べて弱く感じる。恐らく母さんも疲弊しているのだろう。その光に比例するように、回復に掛かる時間も遅い。その間、母さんは集中しているらしく一言も話さなかった。  (母さん……か)  とりあえずそう呼んでいる。彼女が俺の母親、それは間違いない事実だ。しかし、彼女は自分がもう一人の俺……ユーマリオンがずっと探していた恋人、カディズミーナだという。そして、彼女しか知らない記憶を持ち、彼女しか使えない魔法を操る。  彼女がカディズミーナ、これも間違いない事実だろう。  しかし、その二つの事実が持つ意味が、まったくわからないほど俺は馬鹿ではなかった。  「これで動けるかしら? 出血が多かったから、ある程度補っておいたけど……。ごめんね、母さんも疲れているのよ〜」  自分の不出来を小さく笑う事で誤魔化そうとする。だが、彼女が誤魔化さなくてはいけない程に回復していない訳ではなかった。  「充分だよ。ちょっとだるいけど、動くには問題ない」  「そう、よかったわ〜。頑丈に出来ているのね。わが息子ながら感心するわ〜」  言いながら、穏やかな笑みと目を見せる。口調もいつもの語尾の延びたのほほんとしたものに戻って、すっかりいつもの母さんだ。グリードと戦っている時の、真剣な母さんはどこへやら。  しかし、なにか『いつも過ぎる』ような気がした。  「立てるんだったら、岸まで歩いてくれる〜。この湖、元に戻さなきゃ怒られるからね〜」  笑顔で下を指差す。  「誰に怒られるんだよ?」  「さあね〜」  既に後ろ向きになっていた母さんが、俺の突っ込みをさらりとかわす。  (やれやれ……)  カディズミーナは俺の言う事を素直に聞く子だったが、俺は母さんにまったく敵っていなかった。  母さんは俺が岸に上がるったのを確認すると、しゃがみこんで湖面に右手を当てる。すると、瞬時に止まっていた時間が動き出した。 それと同時に、湖面の輝きがいっそうと増す。  (本当に綺麗なところだな)  カメラがあれば、今すぐ撮って収めたい気分だった。しかし、時が動き出しても、その寂しさは変わらない。  なにか、不思議なところだった。  「雄馬はここ、気に入った?」  俺の呟きに母さんは反応する。見れば、眩しそうに目を細めながら、湖のずっと奥のほうを眺めていた。湖面に反射した光が母さんの美貌を照らし、それをよりいっそう映えさせている。自分の母親が美人だというのは前から認めてはいたが、本心から綺麗だと思ったのは今日が初めてだった。  「綺麗だと思うよ。だけど、なんか寂しいところだな」  素直に先ほどから思っていた感想を口にする。すると、母さんは真顔で首をこちらへと回した。そして、暫く俺の瞳を見つめると、小さく嘆息しこう言う。  「驚いたわ。まさか、一字一句違わずに同じこと言うなんて……。さすがに、親子よね〜」  「え?」  一瞬、何を言ったのか判らなかった。俺にとって、父親はまったく知らない存在。だから、瞬間親子の『親』が、いったい誰を指しているのかが理解できなかったのだ。  「和馬さんをここに初めて連れてきた時、あの人、雄馬とまったく同じこと言ったわ。ふふ……、懐かしいわねえ〜」  小さく微笑むと、また湖面の向こうをじっと眺め始めた。  「ここは、思い出の地なのよ」  じっと前を見つめたまま、ぽつりと呟く。何の思い出なのかは言わないが、親父と母さんの思い出だということぐらい判る。  「ごめん、雄馬。少しの間だけ、待っていてくれるかな〜」  「あ? ああ……」  俺が返した生返事を聞いていたのかどうか、母さんは前を見つめたまま微動だにしない。動いているのは、林から抜けてくる風に撫でられた髪だけだ。  いったい、母さんは何を思いだしているのだろうか。  そんなこと判る訳もなく、ただ静かな時が過ぎた。俺は母さんが振り向くのを待つ。  聞かなれけばならない事があった。とても重要な事があった。  それを、避けて通る事は出来なかった。  「ごめんね、雄馬」  3分ほどは経っただろうか、母さんは笑顔と共にゆっくりとこちらに向き直る。  しかし、その笑顔が忽然と消えた。いや、俺が消させたのだ。  「なあ、母さん」  母さんを見つめる俺の瞳は、その奥底までを見つめていた。  「これから……。いったいどうするんだ?」  「……」  表情が強張る。俺の言った言葉の意味を、彼女はわかっているはずだった。  しかし、次に浮かべた表情は、何故か笑顔。  そして、  「そうね〜。ワーエーマートにでもよって買い物して帰りましょうか? ほら、あそこなら電化製品も売ってるし、炊飯器買えるじゃないの」  頬に手を当てながら言った台詞は、俺の求めていた答えとはかけ離れているものだった。  「あ? え? 買い物って……」  リアクションに困って慌てていると、ふとある事を思い出した。  「そう言えば、母さんは仕事中じゃなかったのか?」  そうだ。確か、母さんは会社にいるはずだったのだ。なのに、何故母さんはあんな場所に居合わせたんだろうか? まだ、就業時間のはずだが……。  「仕事? ……終わったわよ。今日は自主出勤だから、退社時間は自由なのよ。終わらせて帰ろうとしたら、魔の力を感じて……。行ってみれば、グリードと雄馬が戦っていたからびっくりしたわ〜」  「帰ろうとして?」  それはおかしかった。いつも目に付くあの豹柄鞄、それが彼女の片手にない。思い起こせば、初めから持っていなかったはずだ。  「あ、鞄の事かしら? 会社に忘れてきたのよ〜」  俺の考えている事を読んだらしく、そう言ってから笑いを上げた。  「大丈夫よ。どうせ大した物入ってないし、財布はポケットの中に入っているからね〜。今日はたまたまそっちに入れていたのよ」  ポケットの中から財布を取り出すと、こちらに見えるように差し出す。「ちゃんと炊飯器代卸しておいたからね〜」と、母さんは台詞を付け加えた。  確かに筋は通っている。しかし、どうも腑に落ちなかった。一見のほほんとしているが、惚けているのはその態度だけだ。そんな母さんが忘れ物を、それもよりによってあの鞄を忘れるなどとは思えない。  どうもそれが引っかかった。  「行きましょ? 今日は私が晩御飯作るからね。そこで材料買って帰りましょう」  「え? ちょっと待て、この格好で行くのか?」  慌てて俺は自分を指差した。自分の今の格好といえば血まみれ。こんな格好で買い物すれば、注目浴びてそれどころではないのは明白だ。  「やあねぇ、何とかするわよ〜」  頬に当てていた手をパタパタと振り、宙を指差すと、呪文を唱える。すると、唐突に母さんの目の前に折り畳まれた服が出てくる。  「呼び寄せたから、これに着替えなさい」  重力に従い落ちかけたそれを掴むと、早速俺に差し出した。  「こういうとき魔法が使えるって言うのは便利だな……って、あれ?」  一言入れながら受けとろうとしたその手が止まった。  ズボンはいい。俺がいつも穿いているジーパンだ。しかし、この水色に白い水玉のTシャツは?  「母さん、これって……」  母さんが買ってきて、俺が着るのを拒否した奴だ。この、もろに子供向けのデザインを忘れたりはしない。  首筋を伝う汗を感じながら、上目遣いで母さんを見ると、俺から視線を僅かに外し、小さく舌を出していた。  「わざとかい! 冗談やってないで、俺がいつも着ている奴出してくれよ!」  「だって〜、母さん、雄馬が買ってきた服のデザイン覚えてないしね〜。呼び出したくても呼べないのよ〜」  そう言い返す母さんはとても楽しそうだ。  「だいたい、こういう機会がないと私が買ってきた服着てくれないしね〜」  「母さんが子供っぽい服ばかり買ってくるからだろう?」  「いいじゃないの? かわいいしね」  そう。母さんが買ってくる服は、いつも妙に子供っぽい。あまりにも着る側のことを考えないので、中学校に通うころには、俺は自分で自分の服を買いに行くようになっていたのだ。しかし、たまに母さんが勝手に服を選んでくると、そのセンスは相変わらずだった。  何故か、美奈はそれを見ると「かわいいっ!」と本心から言ってくれるのだが、嬉しくとも何ともない。  「男がかわいくていいのは小学校までだ!! まったく……」  力いっぱい言い返しながらも、ひったくるようにしてそれを受け取る。どうせ、どうあがいたところで母さんがこれ以外の服を呼び出してくれないのは目に見えていた。  「ふふふ……」  悪戯心丸出しで小さく笑うと、母さんはくるりと後ろを向く。俺は早速血だらけの服を脱ぎ捨て、例の服に着替えた。着替えてみて、ふっと自分を見ると、やはりかわいらしすぎる。いま、鏡だけは見たくなかった。  「あら、かわいいわね〜」  頬に手を当てそう言う。ただ、母さんの美的センスだけは当てにならない。そのセンスで、イラストレーターやっているのが信じがたかった。  まあ、よく考えれば母さんはかわいい絵を描くので、それはそれでいいのかもしれないが……。  「……さて。その服処分するから、貸してくれない。どうせもう着ないでしょ。ほら、消すからいるものポケットから出してね〜」  「ああ」  ちょっとむくれっつらをしながらも、素直に言われたとおり左のポケットから財布を出すと、右のポケットに何もないのを確認してから、既に差し出されていた母さんの右手にそれを置いた。  「その剣も処分するわ。どうせ、もう不必要でしょう?」  「ああ、そうだな」  着替える際に横においてあった剣を拾い、それも母さんに手渡した。  「えいっ」  短く呪文を唱えると、掛け声一言、早速それは掻き消える。近所の子供に見せると喜びそうだったが、別段種がある訳ではなく、本当に消えてしまったなどこの世界の何人の人間が信用するのだろうか?  (ゴミの日覚えなくてもよさそうだな)  新しいズボンのポケットに財布をしまいながらそう思っていると……。  右のポケットに入れるはずのものがなかった。  「しまった! そう言えば家の鍵、財布の下に入っていたんだった! 母さん、それ元に戻してくれっ」  いつもは右のポケットに入れているのだが、今日は何故か左のポケットに入れていたのだ。その上に財布を押し込んだので、すっかりその下に物がまだ入っているのを忘れていたのだが、時既に遅し。  「雄馬〜。これが手品でもなんでもないってことは、雄馬が一番知っているでしょう? ゴミ箱に入っているんじゃないのよ」  あっさりと言われてしまった。  「参ったな、合鍵作らなきゃなんないな」  「とりあえず、これ持っておきなさい」  後ろ頭を掻いていた俺に差し出されたのは、家の鍵……母さんの鍵だった。帽子を被った小人のキーホルダーが揺れている。  だが、渡される意味がわからない。  「なんで? 一緒に帰るんだから、別に母さんが持っていればいいじゃないか」  そう言ったが、母さんは強引に俺の手を取ると、その平に鍵を押し付けた。  「かさばってしょうがないのよ〜。ただでさえ普段入ってない財布が入っていて、ポケットが重たいんだから〜」  「それは自業自得だろ? まったく……」  何か腑に落ちなかったが、その鍵を右のポケットに突っ込んでおいた。  「それじゃあ、ワーエーマートに行きますか〜」  目を細め少し伸びをしながら、母さんはそういう。  「そうだな……って、違う!」  うまくはぐらされかけたが、肝心な事を聞かなくてはいけないのだ。  「母さ……」  (えっ!?)  止められた。睨まれた訳ではない、手で制された訳でもない。ただ、母さんは俺をじっと見ていただけ。しかし、その気が『何も言わないで』と言っているように思える。  いや、間違いなくそう言っていた。  「行きましょう。日が暮れてしまうわ」  呆然とする俺を尻目に、母さんは林の中に入っていこうとする。それを、俺は慌てて追いかけた。  (明らかに、カディズミーナのことに触れるのを嫌がっているな)  どういう事だろうか? まだ、西口香美子でいたいとでも言うのだろうか。  しかし、嫌がったところで、避けようとしたところで、この事実から逃れられないということぐらい、母さんも判っているはずなのに……。  俺は、母さんが……カディズミーナが何を考えているのか判らなかった。  林を抜け、暫く歩くとアスファルトで舗装された道に出る。目的地のワーエーマートはここからそう離れていない。土曜日の昼間ということもあってか、先程から恐らくそこへ向かうのだろうと思える車がひっきりなしに俺達の横を走り抜けて行っていた。  俺たちは先程から無言だった。面向かえばいつも優しそうな笑顔を向けてくれる母さんだが、基本的に顔を合わせる機会が少ない。別段ずっと家にいない訳ではないのだが、昔から一人でずっといたせいか、母さんが家にいても無理して喋ろうとはしなかった。そのツケが回ってきたのだろうか、いざ喋ろうと思ったところで、何を喋っていいのか判らない。カディズミーナ関連の話なら簡単なのだが、さっきから母さんはそれを敬遠している。  (弱ったな)  何か話すべきなのだが、さっきからどうもネタが浮かばない。だいたい、母さんに何を言ったら乗ってくるのか判らなかった。  「ふふ……。何困り果てた顔しているのかしら?」  顔に出ていたらしい。そんな俺に、母さんは微笑む。俺はその微笑に、いつもと違う何かを感じていた。本来ならその視線は、近所の子供たちと遊ぶ息子を見守る母親のものなのだろう。しかし、その角度は下へではなく、上に向けだ。俺のほうが10センチ以上背が高いからだった。  しかし、今までそんな視線を向けられた事はなかった。上だろうが下だろうがだ。なぜなら、母さんはいつも俺のそばにはいなかったからだ。  だから、こそばかった。  「雄馬、そろそろ進路を決めなきゃならないんじゃないの? 母さんノータッチだったけど、大学か就職か決めているの?」  照れ隠しに前を向いた俺に、唐突に話題を振ってきた。  「進路か……」  昨日、美奈にも振られた質問だ。もちろん、その答えも一緒だった。  「就職しようかなと思っているんだ。俺が働くようになったら、母さん楽だろう? 無理して毎日遅くまで働かなくても良くなるから……」  「あら」  それを聞いた母さんは、とても意外そうだった。  「てっきり大学って言うと思っていたんだけどね〜。母さんの事心配してくれているんだ。ありがと」  俺と同じく前に向けていた顔をこちらに向け、心底嬉しそうにしている。が、次の言葉は俺の考えを否定するものだった。  「でもやっぱり、雄馬は大学目指しなさい。母さん、今まで馬鹿みたいに働いていたから、雄馬を4年間余分に勉強させれるぐらいは溜め込んでいるから」  ゆっくりとしたしゃべり方だったが、言い聞かせるような口調だ。いつもの間延びが抜けている。  目の前の交差点の信号が、赤になった。  「大学に行ったら、何かやりたい事が見つかるかもしれないわ。それがなくても、4年間の特殊な生活環境は雄馬にとってプラスになるはずよ。……私は大学には行かなかったから、後々苦労したわ。雄馬に、そんな苦労して欲しくないからね」  「母さん……」  その俺の声を無視したのか、単純に聞いていなかったのか、母さんは向こうを向いた。どうやら、反対側の青信号が黄色に変わるのを見ているらしい。  (俺に大学に行って欲しいがために、今でずっと働いていたのかよ)  その横顔を俺はじっと眺めていた。  そう言えば、母さんって言うのはそういう人間だった。いつもいない、何も言わない。だけど、俺が何かをねだった時は、必ず買ってくれた。まるで、それしか出来ないとでも言っているみたいに。  だから、俺がもし「大学に行きたい」って言った時は、その援助ができるように前もって用意していたのだろう。  ……よく出来た親だと思う。だが、悪く言えば不器用な親だった。  ひょっとすると、母さんは俺の結婚資金までも溜め込んでいるのかもしれない。美奈との結婚を薦めている母さんの事だ。充分に考えられることだった。  しかし、母さんは俺と美奈の結婚を喜んでくれるのだろうか? いや、喜ばない訳ないだろう。母さんが一番それを望んでいるのだから……。  だけど、母さんの中に住んでいるもう一つの存在は、一体どう思うのだろうか?  彼女が何を考えているのかは、まったく判らなかった。  信号が青になり、再び二人は歩き始める。  「でもねぇ、母さん思うんだけど……」  いつのまにか、母さんは腕組みをし、首を傾げていた。  「……ん?」  「例え大学に進学するにしても、雄馬行けるの〜?? 『みずめしき』の癖に」  「ぐっ」  痛い所を突かれ、思わずよろめいた。  「あら〜、貧血かしら? 帰って休んだ方がいいのかも……」  「違うわ! 母さんが余計なこというからだろっ」  体制を立て直して母さんを見れば、口元を押さえて笑いをかみ殺していた。  (やれやれ……)  これは当分言われるかもしれないなと思いつつ、再び歩き始めた。  「……あのね、雄馬」  会話が途切れたかなと思い、ふと横目で母さんの表情を確認しようと思った時、母さんが俺の名を呼ぶ。見れば、もう彼女は笑っていなかった。  「母さんね、雄馬に謝らなくちゃいけないことがあるの」  ……?  「何か俺に後ろめたいことでもしたのか」  謝られるような事をされた覚えなどない。もっとも、母さんに何かしてもらった覚えなど、あまりないのだが。  母さんは、そんな俺の目を見ないまま、ゆっくりと首を左右に振った。  「ううん、何もしてないわよ。何もしてないから、謝らなくちゃいけないのよ」  「……」  俺は、そういう母さんの横顔を見たまま歩きつづける。  「私ね、意固地になって、本質を忘れていたのよ。ただ、あの人の忘れがたみと一緒にいたいっていうことをね。雄馬に貧しい思いをしてもらいたくなかったから、必死で働いて働いて……。気がつけば、それしか出来ない親になっていたわ。本当なら、動物園でも、水族……」  「もう良いよ!」  「……雄馬?」  気がつけば、強い口調で制止していた。  「俺は母さんの事微塵も悪くなんか思ってないよ。だから、母さんのそんな言葉聞きたくない」  そう、思ってなんかいない。だから、そんなことで謝って欲しくない。そんな懺悔など、聞きたくない……。  「そっか……。ありがとう、雄馬。それ聞いて、母さんちょっと安心したわ。ただ、今言わないと二度と言えないような気がしてね……。本当にごめんね。」  視線を外し前を向く俺に、母さんはそう告げ、会話を切った。  そのまま二人は黙って歩く。気まずい雰囲気が、二人の周りに取り付いていた。何かまったく違う話題に切り替えた方がいいのは判っているのだが、いかんせん俺には母さんに振れる話題が乏しい。だが、それは向こうも同じようで、先程から何かいいたげにして思案している母さんが隣にいた。  二人揃って考え込んで、結局先に口を開いたのは母さんのほうだった。  「しっかし、グリードが復活しているなんて意外だったわね〜」  意外なのはこっちである。さっきからその手の話を避けている母さんの方から、そう話し掛けてきた。  いや、よく考えれば、自分の事ではない。しっかりと避けていた。  「そうだな、俺もびっくりしたよ。いきなり出てきたと思ったら、襲い掛かってきたからな」  「私もよ。あんな街中で、強烈な魔族の気配を感じるとは思ってなかったからね〜。行ってみれば、雄馬までいるし……。その上負けかけているんだからね〜」  「きつ……」  また痛い所を突く。この戦いで、俺はまったくいいところなしだったような気がする。母さんが健闘してなかったら、速攻終わっていただろう。グリードも、呆れてすぐさま終わらせていたはずだ。  「しっかし、危なかったわよね〜。まさか、あそこまで強いとは思ってなかったわ」  「ああ。まさか、ずっと手を抜いていただなんて思っていなかったからな」  言って、二人揃って額の汗を拭う。思いだせば、冷や汗が噴出した。  「しかし、最後の魔法、あれはなんなんだ? あんな不条理な魔法があっていいのかよ」  ふと、あの強烈な魔法の事を思い出した。人一人の存在を、ただ単に消すだけでなく、歴史からまで抹消してしまうなんて、魔法に関しては素人に毛が生えた程度の知識の俺でも、ふざけた代物という事は判っていた。  「その不条理な魔法を編み出した私に感謝しなさい」  「本当だな……」  素直に感心した。カディズミーナの天才ぶりはよく知っているつもりだったが、あんな大魔法まで覚えているとは。  「呪文自体は簡単なのよ。『こんなことできるんじゃないかな』って、いろいろやっていたら1日で出来ちゃったのよ。でもね、どう考えても魔力が足らないから、お蔵入りにしちゃったのよね〜。さっきまで、私も忘れていたから」  思い出さなければ、終わってたということか。まったく洒落になってない話だ。  「まあ、あのとおりの魔法だからね。あれだけあった魔力の結晶、全部使わないと完成しないんだから、自分でも呪文覚えていたのが不思議よ〜」  「そうだな……」  俺は、あの時の母さんを思い出していた。単なる魔力を肌で感じたというのは初めてだ。どんな大魔法が使えてもおかしいとは思えなかった。だが、歴史上から存在を消してしまう魔法など……。  ん?  「そう言えば、歴史上から消えるっていっていたよな。俺たち二人はあいつの事覚えているけど、他の人間は覚えていないってことか? だったら、あいつが起こした事件は?」  さっき魔法を使ったとき、母さんは「消え様を見た人だけは、その魔力は及ばない」と言っていた。その言葉どおり、俺は奴のことを覚えている。しかし、美奈や他の人間たちはあいつの事を覚えていないのか? 奴が殺した人間は生きているのだろうか?  「使っておきながら言うのもなんなんだけど、実は私にも具体的にどう歴史が変わるのかはわからないのよね〜。なにせ、使われた記録がないから」  首をすくめて母さんは言う。なんとも、いい加減な答えだ。  「案外、グリードが消えただけで、歴史も何も変わってなかったりしてな」  少し意地悪そうな顔でそう言えば、「そんなことは絶対無いわ」と真顔で速攻言い返された。  「グリードが消えて歴史が変わったんじゃなくて、歴史が変わったらグリードが消えたのよ。だから、歴史が変わってないって事はないわ」  真剣な顔そのもの。少し、自慢の魔法をけなされて機嫌を損ねたのか?  「ごめん、母さん」  謝られた事が意外だったのか、丸くした目を素早く向ける。その瞬間だけ、その仕草・表情がカディズミーナと重なる。しかし、ゆっくりとかぶりを振ったときには、もう母さんに戻っていた。  「いいのよ。どうせ、もう少しすれば、あの魔法の効力っていうのを否応でも知ることになるから」  やや間を空けてから、もう一度「否応にね」と言葉を付け加える。その言い方に引っかかるものを感じながらも、それが何かわらないままでいた。  「しかし、グリードの奴が余裕を見せてくれたから助かったな」  なにか、話が切れそうだったので思いついたことをふと言う。それを聞いて、母さんが左の眉を跳ね上げた。その変化に疑問符を浮かべながらも、そのまま言葉を続ける。  「いくらでも俺たちを倒せるチャンスがあったのに、最後まで遊びに徹してくれたお陰で、勝てたようなもんだよ。そうじゃないと、俺たち二人こうして並んで歩いてないと思うな」  「……遊びだったのかしら?」  「え?」  ぼそりと言う母さんの言葉を、俺はまったく予期していなかった。  「多分だけど、違うと思うのよ。なんとなしだけど、彼、死にたかったんじゃないかしら? だって、私たちを倒してしまったら、もうこの世界に彼を楽しませるような相手はいない。彼いわく、まずい食料をただ食べて生きているだけの生活に、実は絶望していたのかも知れないわ。だけど、自殺するのは魔族のプライドが許さない。だから、何度もチャンスを与えて、私たちが倒してくれるのを待っていたんじゃないかしら?」  俺は、俺たちを追い詰めた時の寂しそうなグリードの目を思い出していた。母さんの言った事が事実ならば、その目にも納得が行く。  「ひょっとすると……これはほんとにひょっとするとだけど、初めからグリードは誰かに自分を殺して欲しかったのかも……。だから、強い相手を探しては、戦いを挑んでいたって思うのは考えすぎかしら?」  「さすがにそれは考えすぎなんじゃないかな? あれは、単なる戦い好きの性質だと思うが」  「そう……」  母さんはそれを自分の深読みのし過ぎと判断したらしい。だが、俺はそう言い返しながらも、その母さんの考えを否定しきれずにいた。もし、そうだとすると悲しい……悲しすぎる話だった。  「なあ、母さん。もしな、グリードが普通の……まあ、半魔族が普通な訳ないが、人を食うことでしか生きてられない身体じゃなければ、平和の使者になっていたと思うか?」  平和の使者……あの湖に向かう最中に、グリードが自分の出生を語った時に使った言葉を思い出し、母さんにそう問いてみる。母さんは暫くの間、前を向いたまま真剣な表情を作っていたが、次に浮かべた表情は何故か笑みだった。  「あのキャラクターで『平和の使者』ねえ〜。でも、雄馬とは気が合いそうねぇ」  くすくすと小さく笑うと、母さんはそれ以上話を続けないでいた。目的地は目の前というところまで来ている。建物内に入れば、こんな変な会話は出来ないのでわざと切ったのだろう。  しかし、あの悲しき半魔族の存在を、俺も母さんも忘れなどしないだろう。俺たちしか覚えてないのならば、せめて俺たちぐらいは絶対に忘れないでおきたかった。  ……そして、ここにも悲しき存在が一人。  (まさか、こうやって避け続けて生きていくつもりか? 延々と……)  目的地が近づき、心なし早足になった母さんの背中を、俺はじっと見詰めていた。  判っていない訳がない。いくら俺の身体にユーマリオンの魂が宿っていようとも、母さんの身体にカディズミーナの魂が宿っていようとも……。  俺と母さんじゃ、結婚できない事ぐらい、判っていない訳がないのだ。  (ただ、俺のそばにいつづけるつもりなのか? それでお前は満足なのか? なあ、カディズミーナ……)  俺は、再会を果たしてからずっと、ほとんど自己主張をしない彼女に向かって、胸の内で問い掛けた。  小さな幸せを求めて旅立った少女が今、何を考えているのか俺にはまったく判らなかった。  ワーエーマート。  名前から見れば、その辺の小さなスーパーを想像するが、実際のところ食料品はおろか、電化製品・衣料品・文具・生活用品ほか、店内に本屋や飲食店、挙句の果てにはカメラ屋に眼鏡屋まで入り込んでいる、ここ以外にも十数件の店舗を持つ大型のディスカウントストアだ。少し駅から離れた郊外に位置しており、もっぱら車での来客がメインになっているが、その規模の大きさゆえに遠方から来る人も多い。その郊外の大きな敷地を利用して、1階に全ての販売スペースを設置するという荒業を展開しているが、広すぎてどこに何があるのか判らないと言うのが、奥様方の批評だった。  俺と母さんは、その店舗の一番奥手にある家電売場に来ていた。食料品は後にして、先に炊飯器を見ようと言う事になったのだが……。  さっきから、母さんは一つの炊飯器の前で止まっていた。  「なあ、母さん。それ、気に入ったのか?」  ……応答なし。  「どこのメーカーだよ」  やはり、応答がなかった。  母さんが見ているのは、かなり原色に近い黄色と妙に丸いボディが特徴的な、明らかにデザイン重視のものだった。それを、喰入るようにして見ている。  だが、それはよく見ると、1升炊きの炊飯器だ。二人暮らしのうちの家では3合炊き、何かの時のための大きく見積もっても5.5合炊きで充分だろう。メーカーも、まったく知らないような三流メーカーだ。値段もそれなりに安かった。  「母さん。ここは大型のコーナーだぜ。それに、せっかく新調するんだから、もうちょっといいもの選んだらどうなんだ?」  言うが、まったく聞いている様子なし。  (なんなんだ?)  どう反応していいのかわからずにいると、嬉しくてしょうがないと言った顔がこちらを向いた。  「雄馬〜。これ、かわいいから、これにしましょ〜」  ……。  ずるっ  「なんなの、今のワンテンポ遅れたリアクションは?」  「……いや、あまりにも異質なものを脳が受け入れてしまったから、処理するのに時間が掛かってしまったんだ」  ずれ落ちたバンダナを外し、付け直しながら言う俺を、母さんはじと目で見ていた。  「勉強してないから、脳が腐っているんじゃないの?」  「母さんが思っているよりも、勉強しているよ。だいたい、一応上位の成績なんだぜ……って、そんなことはどうでもいいんだ」  変な方向に話を持って行かれそうになったので、強引にそれを戻した。  「なあ、その『かわいい』ってなんなんだ? 炊飯器がかわいい必要なんてないだろうが」  「だって、この丸いのが……」  いとおしそうに撫で回さないで欲しい。  「丸いのだったら、他にもいっぱいあると思うんだか」  そういいながら、炊飯器コーナーを見回す。丸いのが今の流行なのか、その過半数が丸みを帯びている。  しかし。  「却下」  あっさりとそれを払いのけた。  「この丸さがいいのよ〜。雄馬、これにしましょ〜」  可能な限り目を細めて言う。その異様な雰囲気の母さんに、バンダナが汗で湿っていくのを感じる。美奈にやられるのならともかく、母さんに同じことをされるとどう応対していいのかわからないた。  「しかし、せっかくいい奴が出ているんだから、もっと美味しく炊ける事を売りにしているのとか、多機能……もういいや」  あきらめた。どうせ、多機能の物を買ったところで、母さんは使いこなせないんだから、言ったところで無駄だろう。  それを聞いた母さんは、今にも鼻歌を歌い出しそうだった。  (……ん?)  精算を済ませ、食料品売場へ向かう途中、テレビを販売している一角で俺の足が止まった。ちょうどその時間帯だったらしく、数局がニュース番組を放映している。  俺は、そのうちの一局が流していたニュースに注目していた。  『今日午前11時ごろ、田沢市北区の工事現場から有毒ガスが発生。工事をしていた土木作業員10人が死亡するという事故がありました』  (……土木作業員が10人死亡?)  この数は昼間のニュース速報で流れていた『グリードに殺された』人数と合う。土木作業員と言うところも同じだ。だが、最後までニュースを見たものの、結局のところグリードを連想させる内容はまったく出てこなかった。どうやら、そういう具合にグリードがいなくてもその辻褄だけは合うように歴史が変わったらしい。だとすると、先程グリードが起こした路上での一幕も、何か別の事件へと摩り替わっているのだろう。  (そして、本当の事を知るのは俺と母さんだけか)  母さんの言う通り、歴史が変わっている。それは、グリードの存在がただの空想上のものなってしまった証拠であった。  いれば困る。また、たくさんの犠牲が出る。なのに、いなくなった、もう会う事がないと思えば、なんとなしに寂しくなる。  不思議な奴だった。  「……あれ、母さん?」  てっきり、俺の横で一緒にニュースを見ていると思っていた母さんの姿が無かった。慌てて探せば、10メートルほど向こうで止まっている。俺が止まったのに気づかず、そのまま歩いていたらしい。  「どうした?」  慌てて母さんのもとに俺は駆け寄る。しかし、そんな俺にも母さんは気づいていないようだった。  母さんがいるのは衣料売場。そこの『秋の新作コーナー』の前で止まっていた。入っていく訳でもなく、ただ止めた足をそのままに、首だけをそちらへ向けている。どう見ても覗きたそうにしているが、そうはせずじっとそちらを見ているだけだった。  「覗いていけばいいじゃないか。まだ時間はあるしな。どうせ、明日も休みだし……」  俺に遠慮しているのだろうかと思い、そう声を掛けると、ワンテンポ置いてから我に返ったらしく、「えっ? ああ、そうね」と言いながら首の向きを逆にした。  「でも、いいわ。結局のところ、お金の無駄遣いにしかならないからね〜」  けち臭いことを言う。まあ、家計を任されている身はどうしてもそうなるのだろうが……。  「無駄遣い言うなよ。買物も遊びの一環だぞ。正しい遊びに使う金って言うのは、無駄使いとは言わないんだよ」  俺は母さんの意思を無視して、さらに覗いていくことを薦めた。母さんはこの方、遊びらしき遊びはしていないはずだ。だから、好きな服を買うことぐらいして欲しかった。それによって、自分の小遣いが減ろうとも構わないとまで思っていた。  だが。  「母さん見た目が若いんだから、いっぺんそれっぽい格好してみればどうなんだ? そうしたら、会社の連中驚くかも……」  「ううん、いいのよ」  母さんは大きく首を振る。その振りの大きさは思わず慄いてしまうほどだったが、その後に出てきた声は普通だった。  「どうせ、良い物買ったところで着たりしないのよ。だから、買うだけ無駄」  「?」  上等な服が似合わないとでも言うのだろうか? そんなことはない。母さんなら……いや、母さんでないと似合わないであろう服がいっぱいある。  「行くわよ、雄馬」  俺の考えが終わらぬまま、母さんは食料品売場へと歩き出した。その後を追い、俺は並んで歩く。  「覗くくらいしたら良いのに……」  もう他の物には目もくれず母さんは歩いている。何か、お金が使えない理由でもあったのだろうか? 無理に諦める理由がわからなかった。  「ありがとう、雄馬。気の利く男になったのね〜」  (気の利くだって?)  自分はあまり気の利かない人間だと自己評価していたので、そんなことを、よりによって自分の母親に言われると妙な違和感があった。そのなにかこそばい違和感に落ち着かないものを感じ、視線を泳がしていると……、  「でもねえ……」  ぱこん!  「あいたっ!」  いきなり母さんの右手が後頭部にヒットした。  「何すんだよ、母さんっ」  結構痛い。女性が殴ったとは思えなかった。  恨めしそうな目で俺は母さんを見る。しかし、その膨れっ面に逆に俺がたじろいだ。  「子供は変な気を回さなくてもいいの。らしくしてなさい」  (……なんだそりゃ?)  思わず目を剥いた。  「子供って……。17の人間捕まえて子供はないだろう、子供はっ!」  すれ違わんとしていたおばさんが、思わずこちらを向いてしまう程の声。しかし、母さんは意に介していない。  次の母さんの言葉は、前を向いたままだった。  「私から見れば、いつまでたっても子供は子供よ。私と、和馬さんの間に生まれた……ね。大人になったと思うかも知れない。私を超えたと思う日が来るかも知れない。だけど、いつまで経っても、雄馬が私の息子だと言う事実だけは変わらないのよ」  その表情は笑み。その事実が幸せといわんばかりだ。  「……」  しかし、彼女の中に入るもう一つの存在は、この現状を幸せだとは思っていないはず。そのはずなのに、それを押さえこんでいる。その存在を隠している。  いつまでそうするつもりなのか、彼女が何を考えているのか、わからないままだった。  俺達二人は食料品売場に到着していた。さすがに、この辺に来ると客層はおばさんばかりになる。時刻も夕飯前で、家電のみでなく食料品も安いここは当然ながら非常に混雑していた。  「雄馬、それ重くない?」  母さんが指差した『それ』とは、俺の右手にある炊飯器の事だ。いくら普通の女性より力があるとはいえ、母さんにそれを持ってもらうなんてもってのほか。当然ながら、ずっと俺が持っていたのだが。  「重くはないんだけど、持ちにくいんだよな」  人外の怪力である俺に掛かれば重いなどという事はまったくないのだが、一升炊きというだけあって、結構それはでかい。もちろん、それを入れる発砲スチロール入りの段ボールはもっと大きかった。さすがにパソコンのディスプレイほどではない(美奈がパソコンを買ったとき、持たされたあれには参った)が、それでも持ちにくいことこの上ない。  「ごめんね〜。なるべく早く買い物終わらせるからね〜」  母さんはそういうが、どう考えても、混雑する食料品売場をダンボール箱引っさげて回るのは無理だった。  「母さん。俺、この辺で待っておくわ。多分こんなもの持って歩いていたら邪魔なだけだし……」  母さんは俺がそう言ったことに意外そうな顔をするが、改めてダンボールに目をやると、「順序逆にした方がよかったかしら」と一言嘆息する。  「俺、あそこで待っているよ」  この食料品売場の入り口近くに軽食を頼める店舗が数店あり、店外でも食事が取れるよう、テーブルがいくつか用意されている。俺が指したのはそこだった。  「わかったわ。で、夕飯はなんにする?」  「そうだな……」  ある程度治してもらったとはいえ、かなり体力を失っていたので、スタミナのつきそうなボリュームあるものが良いか。  と思っていたら……。  「あ、シチューにしましょ。それで決定〜」  勝手に決めてしまった。  「このくそ暑いのにシチューかよ?」  「……食べたくないの?」  「いや、食べたい」  文句を言いながらも、俺は即答していた。  母さんはあまり料理が上手ではない。自分で作った飯の方が、言ってしまうとまずいので言わないが美味いことがある。だが、シチューだけは別格だ。元々それもあまり得意でなかったはずだが、何年か前に突然味が変わったのだ。見た目から味まで根本から変わったその料理を不思議に思い、母さんに問いたことがある。  その時の母さんの答えはこうだった。  『ある人に教えてもらったのよ』  今となっては「ある人」の存在が、カディズミーナだということは容易に想像できる。カディズミーナも良家のお嬢様というだけあって料理などほとんど出来なかったのだが、シチューだけは特別で異常に美味く、ユーマリオンもそれが好物だった。母さんの……カディズミーナのシチューなら、多少時間が掛かっても構わない。  (そう言えば、あの表情にはそう言う意味があったのか……)  俺はあの時、「だったら他の料理もその人に教えてもらえば」といった何気ない一言に、母さんがとても困った顔をしたのを思い出していた。  「それじゃあ、ちょっと待っててね。すぐ終わらしてくるからね〜」  母さんが踵を返そうとしたその時だった。横から声が掛かったのは。  「あら、そこにいるのは香美子と雄馬君じゃないの?」  一度聞いたら忘れない、アニメ調の美奈の声。だが、美奈が母さんの事を呼び捨てにする訳がない。  だとすると、答えは一つしか残っていなかった。  「あ、由紀子先輩? お久しぶり〜」  母さんが向いた先には、予想どうりの女性が買い物袋を両手にこちらを見ていた。  歳の程は30代前半から半ばぐらいに見える、黒髪を後ろで束ねているこの女性の名は、南波由紀子といって、一言で言うと美奈の母親だ。昼間、俺が掛けた電話を取った人といえば判りやすいか。本当の歳は、確か母さんの2つ上と聞いているから40歳のはずだ。それを考えると、母さんほどではないが結構若作りといえるだろう。  俺から見れば、すっかり馴染んだ顔だった。  「珍しい取り合わせね。香美子、今日は仕事休みなの?」  一旦俺のほうに視線を向けてから、すぐに美奈の母親は母さんの方へをそれを戻し、話し掛けた。  「さっきまで休日返上でやっていたんだけどね〜。終わったから帰ろうとしたところでこの子に偶然会ったのよ〜」  『この子』と言いながら、俺を指差す。  それを聞いた美奈の母親は、何かを思い出したようで、目を開き眉を寄せた。はっきりと目を開くと、それは美奈のものによく似ている。  (そう言えば……)  俺も大事なことを思い出していた。  「あら、雄馬君。確かうちの美奈と一緒にいたわよね。あの子は帰ったの?」  そうだった。美奈はグリードと遭遇した際に追い返したのだ。一体あの後美奈はどこに行ったのだろうか?  「途中で別れたんですよ。本双で。多分、そのまま家に帰ったんじゃないかと思うんですが」  本当の事は判らない。というか、グリードがいなくなった現在、美奈と別れた理由すら判らなくなっていた。  「そうなの? てっきり一緒に帰ってくるものだと思っていたわ」  重いのだろう。左手の持参してきたと思われる買い物袋を、手短にあったテーブルの上に置く。そして、ポケットからハンカチを取りだすと、額の汗をぬぐった。人が多すぎるのか、商品を安くするためにその辺を経費削減しているのかはわからないが、とにかくこの店舗内はあまり冷房が効いていなかった。  「美奈ちゃんは頭が良いからいいわよね〜。うちの子、おなじ大学行けるのかしら?」  同じ大学を目指すものと決めつけているらしい。しかし、俺は昨日美奈に就職する旨を伝えていた。だから、てっきり美奈の母親も知っているものだと思っていた。  だが。  「あら? 雄馬くんも成績良いって聞いているわよ。うちの美奈、英語じゃ絶対に勝てないってぼやいていたもの」  (あれ?)  美奈の母親はそのまま普通に話を続けていた。美奈から話を聞かなかったのだろうか。あのおしゃべり美奈なら、てっきり話しているものだと思っていたのだが。  「英語ねぇ〜」  俺がなぜ英語が得意なのか、その理由を知っている母さんの返答は気のないものだった。  「それだけ出来てもねぇ……。この子、『炊飯器』って字もまともに書けないしね〜」  「母さんっ、余計な事言うなよ!」  いきなり恥ずかしい事を話のネタに引っ張り出され、思わず声を荒げる。しかし、二人とも俺の声を無視して、「え? どう間違えたの?」「炊くって字がね、水になってたのよ〜」「みずめしき? お粥炊き器かしら」と、ものすごく楽しそうに会話を続けていた。  (やれやれ……)  紅潮する顔を戻そうと、手団扇を扇ぐ。母さんたちはそのまま二人の話に講じ始めたようで、そうなると俺の入るところなどなかった。おばさん同士の会話はつまらない。俺はこの歳になって、会話に夢中になって取り残された子供の気分を味わう事になる。  (しかし、母さんと買い物に来るなんて何年ぶりなんだろうな)  正確な記憶がない。美奈とならよく来るのだが、母さんと買い物に出た事など、両手の指で数えれるぐらいしかなったような気がする。まあ、あくまでも俺の記憶にある範囲内の話だが……。  だいたい、並んで歩く事自体がいつ以来なんだろうか?  (しかし……)  俺は談笑する母さんに目をやる。  母さんは買い物している間中、妙に楽しそうにしていた。いつも笑みを浮かべてはいるのだが、今日の笑みは少し違うような気がする。  何かそれは、無理矢理この買い物を楽しいものにしようとしているように感じた。  「しかしねえ……」  美奈の母親そのその声に反応してそちらを向く。彼女は、頬に手をやりながら、俺と母さんを交互に見比べていた。  「こうやって見ていると、どう考えても親子と言うより恋人同士にしか見えないわね。香美子って、本当に若作りよねえ」  (……)  「あはは。先輩変な事言わないでよ〜」  「なんか若さを保つ秘訣とかってあるの? あるんだったら、今度私にも教えてよ」  「そんなのないわよ〜。教えてあげたいのはやまやまなんだけどね〜」  何事もなかったかのように会話を進める母さんたち。しかし、俺はその美奈の母親の言葉が頭から離れなかった。  『恋人同士にしか見えないわね』  (やっぱり、親子じゃなくて恋人同士にしか見えないんだよな。俺たちって……)  だから、余計に歯がゆかった。