第7章 戦慄の最終決戦

 母さんは市外へと俺たちを誘導する。この北区は発展途上の町で、住宅地を離れれば自然が豊富になり、民家の数も減ってくる。母さんは、それよりも更に町の中心から離れて行こうとした。
 「なあ、母さん。どこへ行こうとしているんだよ」
 あれ以来初めて俺は声を出す。この近辺は、俺はまったく知らないところだ。どこへ行こうとしているのか、見当もつかなかった。
 「行けば判るわよ。もう少しで着くわ」
 その表情にいたずら心を少し見せ、母さんは再び黙った。
 (どこにいくつもりなんだろう?)
 広い空き地に行こうとしているのは見当つくのだが、母さんが今進もうとしている方向には、林が広がっている。
 やはり、母さんはそこに入って行こうとした。
 「おいおい、この中に入るのか?」
 「そうよ。この奥が目的地だから」
 平然とした様子で母さんは答える。
 「とても戦いに向いてそうな場所に思えんが?」
 今度は、グリードが口を開いた。
 「その点は大丈夫よ。もう少しだけ黙ってついてくれば、すぐに着くから」
 そう言うと、母さんはグリードの横を抜け前を歩き始めた。
 「おい、お前の母親はどこに行こうとしているんだ?」
 「俺にもわからねえよ」
 今は横を歩くグリードの問いに、俺はそう返す。
 母さんは、道なき道をどんどん進んでいった。途中、「確かこっちだったはず」と呟いていたのが聞こえる。本当に戦えるような場所があるのか、不安になってきた。
 「ん?」
 何か、木々の向こうに光るものが見えてきた。
 「着いたわよ」
 母さんがそう言った瞬間、いきなりその姿が掻き消えた。俺とグリードは母さんが消えた地点まで歩を進める。
 すると……、
 「ほお」
 声を上げたのはグリードのほうだ。
 そこは湖だった。人工の池などではなく、間違いなく自然のもの。その広さもなかなかのもので、夏場で水位が減ったのか、手前5メートル程が砂地になっている。
 そこに母さんはいた。林と砂地の間に少し段差があり、そこに飛び降りたために掻き消えたように見えたらしかった。
 「近場にこんな綺麗なところがあったなんてな。知らなかったよ」
 段差を飛び降り、母さんに近づく。夕日はもうすぐといった時間の日の光が、湖面に反射して美しく輝く。しかし、ここは静かだった。人気もなければ、鳥の声すら聞こえない。悪く言えば寂しいところだった。
 「確かに綺麗だな。しかし、ここが戦いに向いているとは思えないぞ。邪魔は入らないかもしれないが、足場は広くない上、砂地で動きにくいしな」
 俺に続き砂地に飛び降りたグリードが、俺たちに近づいてきた。
 確かにグリードの言う通りだと思うが……。
 「心配無用よ」
 母さんは水際へと歩み寄る。そしてしゃがみこみ水面へ手をかざすと、何か呪文を唱えた。すると、微妙に打っていた波が、時間が止まったかのように停止する。
 母さんはその止まった水面へ足を踏み入れる。その足は、沈むことなく水面でしっかり立っていた。
 「凍らせたのか」
 母さんは首を横に振った。
 「固めただけよ。凍らせたら、滑って戦いどころじゃないからね。ちょうど、『固めるテ○プル』で固めた状態っていったほうがいいかしら?」
 いいながら、滑らないとでもいいたげに湖面を2度ほど蹴る。
 俺とグリードも水面に足を踏み入れてみる。それは、ちょうどアスファルトのようなしっかりとした足場だった。
 さっき母さんが何故、「思い出した」ではなく「思いついた」と言ったのか、ようやく理解していた。
 「どう、グリード? 満足したかしら」
 足場を良く確かめていたグリードに母さんが問い掛ける。
 しかし、グリードは眉を顰めた。
 「足場はいいが……。『固めるテ○プル』ってなんだ?」
 「気にするな」
 グリードの質問を俺は一蹴した。
 「ここなら邪魔する者もいないしね。存分やれるわよ」
 その言葉に、グリードは久々ににやりと笑う。
 「そうだな。散々お預け喰らっているんだ。その上、お前らなら加減はいらなさそうだしな。久しぶりに暴れさしてもらうぞ」
 嬉しそうにグリードは牙を見せると、思い切り伸びをしたが、
 「……と思ったけど、作戦タイム」
 そう言って母さんは俺の腕を引っ張る。
 グリードはそのまま仰向けに倒れていた。
 「作戦って、何かあるのかよ。母さん?」
 「それを雄馬に聞こうと思ったんじゃないの。私が素人だってこと知ってるんでしょ?」
 耳打ちする俺に、やはり耳打ちで返す。なんとも頼り甲斐のある答えだ。
 「まったく母さんは……。余裕のある態度しているから、なにか用意しているのかと思っていたよ」
 「しょうがないわね。取り合えず、今ある手の内を整理しておきましょうか……」
 しょうがないのはどっちだと思いながらも、俺も自分の手の内を掘り返してみた。
 とはいえ、剣士の手の内は剣を振う以外にない。生半可なフェイントなどは通用しないのは先程実証済みだ。となると、母さん……カディズミーナの魔法が頼りになる。
 しかし、彼女の魔力も落ちている今、正面から行って勝てるとは思えない。初めから、前の戦いのように封印することを狙うのが妥当か?
 「初めに言っておくけど、封印する手は使えないと思っておいていいわ」
 「え?」
 言う前にそれを否定される。
 「優秀な魔法使いは、一度喰らった魔法を何度も喰らいはしないわ。特に、封印の魔法みたいに、当たってから効果がでるのにタイムラグのある魔法はなおさら防ぎやすいのよ。だから、それは期待しないで」
 「そうか……」
 そう言えば、奴は封印の魔法を喰らっている間に、俺に魔法を掛けて遠くに飛ばしたのだ。魔法にあがらうことに専念すれば、今のカディズミーナの魔力を弾き返すことぐらい、容易なことに思える。
 「それに、例え封印できても、またいずれ復活するわ。その時私たちがいなければ、止める者がいないかもしれない。今、私たちがなんとかして倒しておくべきだと思うわ」
 それは、俺も思っていた。この悲しき魔族に終わりを与える。そう思っているのは、母さんも同じだろう。
 「だったら、他に手は」
 「特にないわ。私もこの世界に来てから、戦うことなんかなかったからね」
 困ってその綺麗な顔を歪める。
 「……実力行使しかないか」
 ただでさえ不利としか思えないのに、俺たちに有利になるものは見つからなかった。
 「ところで、その剣はどうしたの?」
 母さんは俺の右手にあるバスタード・ソードに目をつけた。ここに来るまで、すれ違う人全ての注目を浴びていた物だ。まさか、本物だとは思われていないだろうが、普通の人間ならイミテーションでも持ち歩いてないだろう。隠したかったのだが、この刃渡りでは隠しようがなかったので、そのまま持ち歩いていたのだ。
 「グリードが呼び出したんだよ。武器を持った俺とじゃないと、フェアな戦いじゃないってな」
 「本物は本物だよ」と付け加えた俺に答えずに、暫く母さんは考え込む。
 「とりあえず、その剣を強化するわ。それと、防御効果のある魔法を使う。後は真っ向勝負よ」
 「結局それか」
 やれやれと言った感じで、俺はグリードの方へ振り返る。つられて振り返った母さんと俺が見たものは……。
 野球中継を見ている親父のように、耳の裏に手を当てて、寝そべりながらこちらを見ているグリードだった。
 「……終わったか?」
 あくびをしながら言っている。よっぽど、面白くない試合内容らしかった。
 「一応ね」
 それを聞いてグリードはすっと立ちあがると、その場で2度ほどステップを踏む。そして、右腕を勢い良く振り降ろすと、うつむけた顔を上げ、その輝いた瞳を俺達に向けた。
 「では、そろそろ始めるとしようか」
 嬉しくて、しょうがないといった様子だった。
 「それじゃあ」
 母さんはどこからともかく100円硬貨を取りだす。
 「放り投げたこれが、地面に落ちた時が開始よ。良いわね」
 「オーケーだ」
 そのグリードの返事を聞くや否や、早速母さんは真上にそれを放る。太陽の光を可能な限り反射し、煌めくそれは重力に反することなく落ちてこようとする。
 今にもそれが接地しようとしたその瞬間、俺とグリードはお互いに向かって飛び出した。
 が。
 「!」
 「……つっ」
 二人は声にならない声を上げ、その場に停止する。
 硬貨が、重力に反して宙に止まっていた。しかし、そう思った瞬間、それはちゃりんと音を立てて湖面を転がる。
 だが、二人とも次の行動に移るのが一瞬遅れた。そして、それを狙っていたのは、硬貨を止めた張本人。
 「うわっ!!」
 慌てて伏せるグリードの背中を、直径50センチほどの光輪の端が切り裂いて行った。
 背中を丸めたまま、鋭いステップの連続で俺たちとの距離を取るグリード。その動きを記すかのように、湖面に血が撒かれていった。
 「せこい真似するじゃないか、カミコさんよ……」
 文句を言っているが、それを咎めるような口調ではない。
 「悪いとは思わないわよ。あいにくと、こっちに正々堂々やっている余裕なんてないからね。しかし、避けるとは思わなかったわ」
 そういう母さんの表情に、もはや笑みはない。真剣そのものである。
 冗談の通じない戦いが始まっているのだ。
 「まあいいぜ。俺も力ばかりで芸のない相手とやりたいなんて思っていないからな。願ったり叶ったりだよ。こんなもん、怪我のうちにも入らんしな」
 「その芸無しが何言っているんだ」
 俺はグリードを挑発する。この挑発には、奴の意識をこちらへ向ける意味があった。母さんにカディズミーナの力が宿っているとはいえ、カディズミーナ自身にそんなに優れた体術があった訳ではない。もとより、良家のお嬢さまなのだ。なるべく母さんに直接攻撃が行かないようにしなくてはならない。
 そう言っている間に、俺の体が何かの力に包まれるのを感じた。母さんが先程言っていた、防御系の魔法らしい。俺が喋っている間に、抜け目なく呪文を唱えたらしかった。
 「人間風情とこの俺のどっちが芸無しか、見せてやるよ!」
 そう言うと、腕をクロスさせ、両手のひらをこちらへ向けた状態で突っ込んでくるグリード。腕の縮こまっているこの状態では、超接近して爪を薙ぐ以外に攻撃する手はない。右の爪、左の爪どちらを振われても出所がほぼ同じなので、見切るのは簡単だ。
 俺は、カウンターで足元を狙うことを考えていた。
 だが……。
 「雄馬、魔法よっ!」
 いつのまにか俺の後ろへ移動していた母さんの鋭い声が、切り返しに頭の行っていた俺の思考を防御へ戻す。
 戻した瞬間、グリードの両腕が消えた。
 (なにっ!)
 慌ててもう一度グリードの全体を見直す。すると、奴は大型の猛禽類が羽ばたくかのように両腕を広げていたのだ。
 その両腕が、俺めがけてクロスした。
 「うわっ!」
 慌ててバックステップで身を引くが、間にあわない。両腕でブロックする体制に入るが、そんなものはまったく役には立たないはずだ。
 しかし、グリードの鉤爪は、俺の腕を軽く引き裂いただけだった。
 「ちぃ! 防御の魔法かっ」
 言いながら、体制を崩している俺を追撃しようとグリードが迫る。しかし、そうはさせじと横から母さんが気弾で攻撃を始めた。それによって、グリードの前進が止まる。
 しかし。
 「甘いわぁっ!!」
 グリードが母さんに向けて何度も手を突き出す。阿修羅のように、腕が何本もあるように見えると言われてもおかしいとは思えないような速さでだ。すると、空中で何かが炸裂する音がとめどなく聞こえ出す。
 (気弾を気弾で打ち落としているのか!?)
 次の瞬間、母さんの髪の一部が強風に煽られ跳ね上がった。
 「きゃあっ!」
 慌てて魔法障壁を正面に張った母さんに向け、無数の気弾が炸裂した。グリードが放った気弾は、母さんのそれを打ち落とすだけでは済まなかったらしい。幸い、気弾の威力自体は魔法障壁を破れるようなものではなかったらしいが、力で押されたことに母さんの目が見開かれていた。
 「どうだ? あまり使わないんだが、俺の魔法も結構いけているだろ?」
 「結構どころじゃないわよ……。ここまでとは思わなかったわ。天才って言われていた昔の私以上ね、恐らく……」
 (カディズミーナにそこまで言わせるか)
 背中を冷たいものが駆ける。魔法を使い始めたら、まったく隙がなくなってきた。てっきり、魔法は使い慣れていないと思っていたのだが、考え違いだったらしい。
 ひょっとすると、初めから奴が魔法を使っていたら、封印なんて出来なかったのかもしれないとまで思えてきた。
 「雄馬、まだ始まったばかりよ」
 母さんがそうたしなめる。一緒の時間が少ないとはいえ、さすがにその辺は母親らしい。あっさりと、俺の心の中を読む。
 (そうだな……。しかし、いくら外見が母さんとはいえ、カディズミーナにたしなめられるとはな)
 心中苦笑いのまま、剣を握る力を再び入れ直した。その剣に、オレンジ色の光が宿る。それと同時に、柄を握る手に熱を感じた。前の戦いで見せた、カディズミーナの剣を強化する魔法だ。これさえあれば、奴の体を切り裂くことは容易だ。
 「まだこれからだぞ、グリード!」
 俺に注意を向けるべく、叫びながらグリードに突っ込んだ。間合いに入ると、連続で奴に向け剣を振う。グリードはそれを、器用なウェービングでかわしつづける。
 しかし、俺の剣の動きが、唐突にとまった。いや、止められた。
 「ぐあっ!」
 そう思った時には、俺の身体は5メートル程吹っ飛んでいた。
 「雄馬!」
 吹き飛んだ先にちょうど母さんがいて、早速怪我の治療に取り掛かる。今度は防御の魔法も役に立ち切れなかったようで、左の脇腹からは血が溢れるだけでは留まらず、あばらまでやられているようだった。
 (なんださっきのは……)
 止められた際の感触には覚えがある。あの、剣をアームブロックで止められた時と同じものだ。しかし、今俺の手にある剣は、カディズミーナの魔法によって強化されているのだ。まともに当たれば、グリードの腕といえども切り飛ばす威力があったはずだ。
 しかし。
 「あれか……」
 グリードを振り返った俺は、何が起こったのかを瞬時に把握していた。見れば、奴の両腕がオレンジ色に輝いている。俺の剣に掛かっている魔法と、同じ光り方だった。
 「まあ、同じ魔法同士がぶつかったなら、その威力は相殺されるというわけだ」
 わざわざグリードが説明を入れる。魔法の威力がなければ、アームブロックで止められるのは先程実証済みだし、魔法の防御で防ぎきれなかったのも納得がいった。
 「あの魔法って、腕にも掛かるのね。知らなかったわ」
 「感心している場合かよ……」
 幸いグリードは攻めてこない。今連続攻撃をされればこちらの窮地は免れなかったと思うのだが、何故か奴はそうしなかった。一撃で倒しきらないと、つまらないとでも言うのだろうか?
 「しかし、さっきから私のまねばっかりしているわね」
 (あ、馬鹿!)
 俺の治療を終わらせた母さんが、わざわざグリードの神経を逆なでするようなことを口にした。こっちが押されているのに、挑発してどうすつもりなんだろうか?
 「だったら、オリジナル魔法を披露してやるよ」
 案の定、奴は何か呪文を唱え始めた。腕を左右に広げると、その両腕が炎に包まれる。
 「GO!」
 その炎が、そのまま腕が差す方向へ打ち出された。竜の頭部のような形を模したその炎は、大きく弧を描き……。
 「わっ」
 俺に手を引かれた母さんの前を、2匹の竜が交錯した。その竜は共に10メートル程向こうに行ったところで再び弧を描き、こちらへ向かってくる。
 再び身を引いて、二人ともそれをかわした。しかしまた、それは弧を描く。
 「コントロール型の炎かよっ」
 「みたいね」
 三度迫った竜をかわしながら、二人は喋る。幸い、炎の竜は小回りが利かないようで、かわすのは母さんでも難しくない。
 だが、そうとも行かなかった。
 「違うな」
 グリードが俺に向かって突進してきていた。
 「なんだあ!?」
 グリードは炎の竜をコントロールして動けないものだとばかり思っていたのだが、実際のところ、奴は別段何不自由なしに動いている。今度は奴の攻撃の軌道上に剣を割り込ませなんとか防いだものの、そのパワーを流すことは出来ずに、俺は再び無様に吹き飛ばされた。
 「……っ!」
 湖面の上を転がる。
 (えいっ!)
 俺はその湖面を思い切り右手で突いた。そうすることによって、転がっていた身体が浮く。浮いている最中に体勢を整え、両足で着地した。
 しかし、その目の前に竜の首が。
 「ぐっ」
 このうめき声は、炎の竜の直撃を食らったからではない。左から俺を追ってきていた母さんがタックルしたからだった。なんと、母さんは勢い良く転がる俺を走って追いかけてきていたのだ。
 母さんの背中の後ろを、竜が駈けて行くのが見える。
 俺たち二人はそのまま倒れこむ思いきや、そのまま中へと舞い上がった。飛行の魔法を使った母さんが、俺を抱きかかえ持ち上げたのだ。
 「重……」
 母さんはそう呟き歯を食いしばった。そりゃそうだろう。長身で筋肉質の俺の体重は70キロ以上あるのだ。しかし、母さんは俺を落とさないように必死で抱きかかえ、そのまま上昇する。
そんな二人を、2匹の竜が追いかけてきていた。
 「追いかけて来ているぞ」
 「判っているわよ」
 そういうや否や、急に横へスライドする。すると、ちょうど追いつきかけていた火竜が横を通り過ぎる。
 「下りるわよ」
 言うと早速、母さんは下降を始めた。湖面すれすれまで高速で下りてくると、母さんは俺を開放し、すぐさまダッシュでその場を離れる。
 俺もその時には、いい加減母さんが何をしたかったのかに気付いていた。上を見るまでもなく、既に迫っているであろう火竜をサイドステップで避けると、
 ドゴオォォン
 ものすごい爆音と共に、2匹の火竜が湖面に激突、爆砕した。
 (うわっ)
 爆風を受け、吹き飛ばされそうになるのをなんとか堪えていた。凄まじい威力に俺は慄く。母さんが何故魔法障壁で受け止めなかったのか、ようやく理解していた。
 (母さんは!?)
 爆風に巻き込まれたのかと思い、慌てて煙の向こうを覗く。
 その向こうで、母さんはグリードを見据えていた。どうやら無事だったらしい。
 グリードは俺の右手でにやついている。10メートルぐらいの距離だ。それは、俺と母さんと距離と同じぐらいだ。そして、グリードと母さんの距離もそのぐらい離れている。上から見れば、俺たち3人を線で結べば正三角形が描けるだろう。今現在はそのような位置関係になっていた。
 「なかなかやるな。自動追尾では、目標にぶつかるのか障害物にぶつかるのかまでは判断できないからな」
 「誉めても何も出てこないわよ」
 そう言いながら母さんは額の汗を手首で拭っていた。
 グリードも感心しているが、俺も母さんの戦闘能力に舌を巻いていた。カディズミーナもそこそこのセンスがあったが、魔力は落ちたものの母さんの動き・判断は当時のカディズミーナを上回っている。ユーマリオンの力を扱いきれない俺に対し、母さんはカディズミーナの力を上手く利用していた。
 正直、母さんが何か格闘技、いやそれ以前にスポーツをやっていたということは聞いたことはなかったのだが……。
 「母さんって、何か部活に入っていたのか?」
 「何って、漫画研究会だけど?」
 近寄りながら聞いた質問の答えに、思わずよろめきかける。やはり、過大な期待は寄せないほうがいいらしい。
 「でも、これでも運動会の女王って言われてたぐらい運動神経は良かったんだからね。スポーツやってて、女の子相手に負けたことないんだから」
 「……なるほどな」
 やはり、俺の母親らしかった。普段ののほほんとした雰囲気の彼女では説得力のない言葉だが、今の母さんの言葉なら納得できる。
 しかし、その言葉に訳のわからない反応をした奴が一人。
 「女王って、あんたそんなに高貴な人間だったのか?」
 「……違うわよ」
 言いながらグリードを見つめる母さんの目はジト目。
 「あ? 違うのか? でも今、ウンドウカイの女王って言ったぞ」
 「ああ」
 同じ言葉を返されて、こちら側……正確には母さんに非があることに気が付く。
 俺達は今までずっとあの世界の言葉で会話をしていたのだが、『運動会』という単語だけ、日本語になっていたのだ。そもそも向こうの世界では『運動会』と言うもの自体が存在しないので、とっさにそれに該当する言葉が出てこなかったのだろう。しかし、グリード側からすればその単語を国名と捕らえて当然だ。
 しかし。
 「運動会っていうのはな……」
 訂正しようとして言葉に詰まった。
 (そう言えば、運動会の存在意義って何なんなんだ? すっかり慣例化しているが、いつ頃どういう意味で始められたのだろうか? 運動なんか、体育の授業だけで充分だろう?)
 とか色々考えていると……。
 ポカッ
 「あてっ! 何すんだよ、母さんっ」
 俺の後頭部に、母さんの右手がこきみのいい音を立ててヒットした。
 「何まじめに答えようとしているのよ。答えたところで無駄でしょう?」
 (まあ、そりゃあそうなんだが……)
 今から倒す相手に、そんなこと説明しても確かに無駄なのだが……。
 そう思いながら、グリードの方に向き直ると……。
 拗ねていた。
 明らかに、拗ねていた。
 どのぐらい拗ねているかと言うと、後ろ向きに背中を丸めてしゃがみ込むぐらいに拗ねていた。というか、実際そうしていた。
 「……今のうちに作戦立てておこうか?」
 グリードの後姿を、ばつが悪そうな顔で眺めながら、母さんはぼそりという。
 「そうだな」
 復活にはもう少し時間が掛かりそうだった。
 しかし、作戦も何もさっきから一方的に押されている。防御をするのが精一杯という感じだ。
 本当に何か打開策を考えないと、真剣にまずいだろう。
 「一太刀浴びせることが出来たら、その剣なら一発で勝負がつけれるんだけど……」
 「……ふっふっふ」
 それを聞いてぴくりと反応したのはグリードだった。なにか、怪獣のようなゆったりとした動作で起き上がると、悪戯っ子の笑みで振り返る。
 どうやら、復活したらしかった。
 「一太刀浴びせることができるかな? 俺にはまだこんな魔法があるからな」
 どうやら、作戦を立てる暇を与えてくれないらしかった。少し怒っているようにも見うけられる。
 「まじめに答えが方がよかったんじゃないか?」
 「そうね……」
 小声で言う俺に、やはり小声で母さんは返す。はっきり言うと、今更言っても遅い。
 ぱちんとグリードが器用に指を鳴らすと、爪が邪魔にならないのかとか考えている間もなく、空を指した人差し指の爪の先に、直径20センチほどの光球が生まれる。
 それが、奴の周りを旋回し始めた。
 「なんだあれは?」
 「私も見たことない魔法よ」
 そんなこと言っているうちに、グリードは2個目、3個目と光球を生み出す。最終的には、5つの光球がグリードに纏わりついた。全てが円を描くように奴の周りを周っているが、各々回転する方向や角度、速度が違っている。これがどういう物体なのかはわからないが、打ち込むタイミングが非常に取りにくい。
 「さてと、戦闘再開といこうか」
 奴が光球を引き連れてこちらにゆっくり歩いてきた。
 (やるしかないか……)
 垂らしていた剣を正眼に構えようとしたとき、母さんがそれを右手で制する。
 「まずはこれを試すわ!」
 その右手を、大きく振った。まるで、野球で全力投球をするかのような振りだ。母さんが放ったそれは形こそ見えないが、その風切音が超大型の気弾が飛ぶ様を想像させる。
 「!?」
 突然、一定の動きをしていた光球が、意思を持つ物体のようにグリードの前に集まった。 
 言葉では表現できないようなもの凄い轟音が、先程抜けてきた林の木々を揺らす。風圧が、母さんの髪を靡かせた。
 にも関わらず、グリードは何事もなかったかのようにその場に立っている。光球はとりあえずの役目を終わらせたらしく、再び先程と同じようにグリードの周りを衛星のように回っていた。
 「意思を持った盾かよ……」
 厄介な魔法を使ってくれたもんだ。ただでさえ、一発当てるのに苦労しているというのに。
 そう思っていたら、グリードが俺の呟きを否定した。
 「盾じゃねえよ!」
 そう叫び、背中を丸めて突っ込んできた。突然攻撃意思を強めたグリードに、俺と母さんは素早く臨戦体制に入る。
 例の光球は、しっかり奴についてきていた。各々の規則は守ったままである。
 ……と思いきや、そのうちの一個が軌道を外れた。それは、突然自らが描く円を大きくして、
 「きゃっ!」
 慌ててしゃがんだ母さんの頭上を通り過ぎた。と思ったら、今度は二個の光球が小さくカーブして左右から俺に迫る。
 (攻防一体の魔法かよ!)
 右にステップしてかわした後、振り返ってその動きを確認した。光球は先程の炎の竜同様大きな弧を描いて戻ってくると思いきや、10メートル程行ったとこで急停止し、人魂が踊るような意味不明の動きをしながらこちらへ戻ってきた。
 (なんだ?)
 その動きが、ただ単にこちらの注意を逸らすためのものだったことに気付くのが、僅かに遅かった。
 「雄馬、後ろっ!!」
 母さんの声が聞こえるよりも早く、湖面に映ったその影に反応して振り返ると、黒い物体が宙を舞っ舞う姿が目に飛び込んでくる。
 (しまった!)
 避けるには遅すぎた。
 黒い中で唯一光った部分……奴の爪が、垂直に振り下ろされようとした瞬間、俺はぎりぎりで剣を水平に構える。その豪腕に負けないよう、全身に力を込め受け止める体勢をどうにか作ったが、グリードはその腕を振り下ろさなかった。そのまま着地すると、その衝撃を吸収するため少し膝を折る。そしてそれを戻す力を利用し、
 俺のがら空きだった腹に、左の拳を叩き込んだ。
 「……っ!」
 声にならない呻き声。まともに入ったボディーアッパーに、俺の身体は5メートル程跳ね上げられる。
 そこに、先程の光球があった。身体中に人体に影響を及ぼす強烈なエネルギーが駆けるのを感じる。その衝撃に、もはやうめき声すら上がらなかった。
 (……くっ)
 うつ伏せに落ちた体を起こそうとするが、その動きは緩慢だ。全身が痺れている上、右の脇腹は激痛を起こしている。また、あばらをやられているようだった。それでも顔を上げた俺の目に、光球が迫ってくるのが見えた。今の俺に、それを避けるすべはない。
 殺られると思った瞬間、母さんが走りこんできて、俺の手から離れていた剣を拾った。
 (振れるのか!?)
 その辺に転がっている木の枝とは訳が違う重さなのだ。案の定、構えたその切っ先が滑稽な程に揺れている。どう考えても身体にあっていない。
 「えいやぁ!」
 それでも、器用にタイミングを合わせ光球に剣を叩きつける。
 バチッ
 火花が飛び散るような大きな音とともに、剣と、母さんが俺の前まで吹き飛んできた。固まっている湖面に叩きつけられる前に、動かない体を強引に動かして受けとめる。
 当然、痛めたあばらが強烈な痛みを起こした。
 「うぐ……。母さん、大丈夫か?」
 「ちょっと腕がしびれるだけよ。それより、雄馬の方が重症みたいね。手を離して」
 言われた通り腕を離すと、俺は方膝をつく。助けているようで、支えがないと立っていられなかったのは俺のほうだったのだ。そんな俺に合わせ母さんはしゃがみ治療を始める。
 そしてグリードは……。
 じっとこちらを眺めていた。
 (何故攻めてこないんだ? チャンスだというのに……)
 俺の治療が完了していない今を狙えば、間違いなく俺たちを倒せるだろう。しかし、グリードは明らかに俺の治療が済むのを待っている。
 不思議に思いながら見上げていると、グリードはにやりと意地の悪そうな笑みを漏らした。
 「何で攻めないって顔をしているな。お前ら、まだ全てを出していないだろ? それまでに、殺しちゃあ面白みが半減するだろうが」
 「……なるほどな」
 楽しみの時間は長いほうがいいという訳か。ならば、相手がそう思っているうちは、こちらがにも逆転できる可能性が残っているといえるだろう。その余裕をつかない手はない。
 しかし、ここまで一方的にやられているのに、逆転の可能性などあるのだろうか? 初めみたいに、よほど相手の虚をつかないと、かすり傷を負わせることすら困難に思える。特に、あのグリードの周りを今も回る5つの光球が邪魔だ。
 あれを何とかしない限り、俺たちに勝利はない。そう思った矢先に、母さんが俺の脇腹に手を当てたまま、囁くように呪文を唱えた。再び彼女の手が淡く輝くが、呪文は治療の魔法のものとは違っていた。だいたい、治療は既に終わっているように思える。
 不思議に思い問いかけようとしたその時、母さんは小声でそれを静止した。
 「喋らないで。これは、ただの時間稼ぎだから」
 なるほど、さっきの呪文には意味がなかったらしい。治療が終わったことを悟られないためのカモフラージュだったのだ。
 しかし、時間稼ぎをする意味は?
 その意味はすぐにわかった。
 「雄馬、手短に言うわ。触れて判ったんだけど、あの光球は私の光輪の魔法と同じ力よ。だから、その力で相殺できるわ」
 またしもて小声で言う。彼女は、逆転への望みを掴んでいたのだ。そのための、作戦タイムを取りたかったのだ。
 「ならば、それであの光球を打ち落として、肉弾戦で俺がなんとか……」
 癖でやっているかのように、さり気なく鼻の下に右手の甲を当て、口元を隠しながら小声で言った台詞を、注意していないとわからないぐらいに小さく頭を左右に振って否定する。
 「駄目よ。光球は何個でも作れるでしょうし、相殺できると判ったら、別の手を考える筈だわ。それに、雄馬さっきから接近戦で負けてるでしょう?」
 (確かに……)
 悔しいが、事実だった。光球をどうにかしたところで、接近戦でなんとかできる可能性が100よりも0の方がはるかに近いことぐらい、喧嘩を見たこともないような子供でもわかるだろう。
 ならば、どうする?
 「光輪の魔法の力を、剣に纏わりつかせるのよ」
 「そんなことができるのか」
 それなら、確かにあの光球を打ち破りながら攻撃ができる。相手の虚をつく事も可能だ。
 「ええ、ただし。その効力があるのは5秒程度よ。何とかして私が隙を作るわ。だから、私が合図したら何も考えずに攻撃して」
 「私を信じて」 最後にそう言うときだけ、母さんは言い聞かせるような目をしていた。
 「えらく治療に時間が掛かっているな。そんなにダメージが大きかったのか?」
 ちょうど、グリードが痺れを切らした。と思ったが、奴の表情はにやついている。こちらが作戦を立てていたのは、お見通しらしい。
 (母さんを信じてやるしかないな)
 これが、最後の賭けだろう。今考えられる最高の攻撃。これをじくじれば、もう奴は遊ばないはずだ。
 失敗は許されなかった。
 「お待たせ。おかげさまで、ゆっくり治療に専念できたわ」
 足をほぐしたのか、一回屈伸した後彼女は振り返る。俺も起ち上がり、剣を拾っておいた。まだ、剣は赤く発光している。グリードの腕も同様だ。この魔法は、結構効果が持続するらしい。
 「なんか、面白い手でも考えついたのか? だったら、遠慮なしに掛かってこいよ。打ち破ってやるからな」
 自身満々にそう言いながら手招きをする。だが、母さんはそれには乗らない。
 「そっちから来たら? その自慢の爪で人間を引き裂くのが好みなんでしょ。させてあげるわよ。できるのならね」
 言いながら、母さんは中指を立てた。
 (おいおい、それ女性が使う挑発の仕方じゃねえぞ。意味判ってんのか?)
 だいたい、異世界の住民であるグリードに、それが挑発の仕草であること自体がわからないはず。
 しかし、言葉だけでも充分に伝わっていた。
 「カミコさんは、切り裂かれる方が好みなのか? 俺、女性はなるべく心臓貫くようにしているんだけど」
 (殺し方にこだわっているのか……)
 呆れる俺に、母さんの次の言葉がとどめを差す。
 「いや、出来たらそちらでお願い」
 「まじめに答えるんねえよっ!」
 思わず大声で突っ込んでいた。
 「だって、あまり醜く刻まれて死にたくないし……あたっ、母さんに何するのよ!」
 頭を小突かれたのが不服だったらしい。さっきのお返しという訳ではないが、そんな母さんにこれ以上付き合うつもりはない。
 「死に方選ぶんじゃなくて、こいつを倒すんだよ! まったく……。もういいっ」
 俺はそう言い放つと、きょとんとしているグリードを睨みつけ、切っ先を突きつけた。
 「掛かって来いっ、グリード!! これが、俺たちの最後の攻撃だっ!」
 威勢良く言い切った俺の言葉の意味を飲み込んだグリードは、幻の銘酒を目の前にした酒豪よろしく片唇を吊り上げ、牙を見せた。
 「そうか。ならば、こっちから行かせてもらうぞ。俺を楽しませてくれよ!」
 世界のトップスプリンターも真っ青の足が跳ねる。奴は、こちらの挑発に乗る形で、爪で決着をつけにきたのだ。俺は守るように母さんの前に出てその動きを待つ。
 そして母さんは、右手を湖面にかざした。だいたい、グリードが迫ろうとしているところの手前にだ。すると、その差したあたりの湖面が変質化した。ゼリー状とでも言うべきか、上手く表現できないが明らかに柔らかくなったのが見て取れた。
 「おうっ!?」
 危険を察知したグリードは、そこに踏み込む前に慌てて後ろにステップする。その速度で突っ込んで来ていて、後ろに飛べるとはさすがの脚力だ。
 「ちっ」
 今度はそれを迂回しながら、こちらに向かってくる。しかし、その行き道も狙っていたらしく、再び奴の目の前が変質化する。それをまたバックステップでかわし、迂回しようとするグリード。
 さらにこっちに向かおうとする奴の行き先を、また防ごうと湖面を変質させる。しかし、さすがに3度目となると読んでいた。
 「甘いわ!」
 奴は大きく跳んだ。その変質化した部分を飛び越すだけでなく、一気に俺たちのいるところまで。そのままま俺たちを切り裂くか、貫くかするのが目的だった。
 だが、母さんはその上を読んでいた。奴が跳躍するよりも早く、俺を突き飛ばすと反対方向へ走っていた。そして、7、8メートルほど走ったところで彼女は振り向くと、俺たちがいたところに向けて手を翳しながら、叫んだ。
 「雄馬っ、ここよ!」
 グリードが変質化した湖面に着地する。すると、その身体がトランポリンに乗ったかのように大きく跳ね上がった。跳ね上がるとはまったく予期していなかったグリードは、空中で大きくバランスを崩している。
 俺は、宙を舞うそれを追いかけ、跳躍した。
 「雄馬!」
 もう一度、母さんが叫ぶ。見れば、光輪の魔法がこちらへ飛んできていた。グリードにではなくて、あくまでもこちらにである。空中でなんとか身体の向きをこちらへと変えたグリードもそれに目をやったが、自分の方向へと飛んできていないのを確認するとそれを無視し、俺を打ち落としに掛かる。
 しかし俺には判っていた。母さんが、なにをしようとしているのかを。
 グリードが放った空気の刃は、狙いが甘く俺の右肩を浅く薙いだに過ぎない。
 そして俺は、自分目掛け高速に飛んできた光輪に剣を差し出す。それがぶつかる瞬間、光輪は形を変え、幾重もの光の渦が剣に纏わりつく。
 俺はその剣を、脇を締めしっかり固定し、そのまま突っ込んでいった。グリードに纏わりつく5個の光球が、主人を守ろうとする番犬のように俺の前に集まる。
 その光球と俺の剣がぶつかったとき、ものすごい光が辺りを覆い尽くした。
 ドスッ
 腕に何かを貫く手応えを感じる。光球のエネルギーに弾かれるような感触ではない。
 その光に眩んだ目が正常に戻った時映ったのは、俺の剣をブロックしきれず、虚しく腕をクロスさせた状態で目を見開いていたグリードの顔だった。そのみぞおちのあたりに、剣が根元まで埋まっている。
 地面が迫った。剣から手を離すと、俺は足から着地する。勢い余って着地後一回転するが、すぐさま起ち上がり振り返った。
 そして見たものは、そのまま湖面に叩き付けられて、ピクリとも動かずあたりを地の海にしながら横たわるグリードの姿だった。
 「やったのかしら……」
 母さんがこちらへ迂回してくる。その視線は、まだ動かないグリードから離さないまま。
 いくらグリードといえど、串刺しにされて無事に済むとは思えない。例え動けたとしても、勝負は決しているといえよう。
 「みたいだな」
 俺がそう呟いた時、奴が身体を起こした。歯を食いしばりゆっくりと起ち上がると、血が吹きでるのをまったく構わず剣を引き抜く。暫くその傷口をボーっと眺めると、奴はようやくその怪我に気付いたかのようにゆっくりとそこに手をやり、
 何かを呟くと、その手が淡く光り、その血が溢れるのが瞬時に止まった。
 「……」
 「……え?」
 俺と母さんはそれを見て固まる。
 グリードが何をやったのかはすぐに判った。だが、二人ともそれを理解しようとするのを本能が拒否している。
 汗の噴出す速度が、急速に早まった。
 「ほお、これは便利だな」
 自分でやったことを、奴は他人がしたかのように不思議そうに傷口を見やっていた。
 「なんで……なんで治癒の魔法が使えるの?」
 心なしか、そう言う声が震えているように聞こえる。その表情に、無理矢理平静を装うとしているのがはっきりと見て取れる。
 確かに、グリードは一番初めに前の世界で戦った時に、俺に傷を負わされてこの世界へ逃げ込んでいるのだ。治癒の魔法が使えるのならば、逃げる必要などなかったはずだ。
 そう思っていた俺たちにグリードが放った言葉の攻撃は、俺達の希望をずたずたに引き裂き、叩き砕くものだった。
 「何でって……さっきからカミコさんが使っているのを真似てみただけだが?」
 (なんだって!?)
 奴の言ったことはとんでもないことだった。天才と言われたカディズミーナが、飛行の魔法を自力で使えるようになるのに2年の歳月が掛かったのだ。それほどに難解といえる魔法を、見ただけで盗むということがどれほど難しいことか、魔法の使えない俺でも充分にわかる。
 わかるだけに、その存在のずば抜けた力というのが、恐怖という形で伝わってきた。
 「そんな馬鹿なこと……」
 母さんが青ざめた顔で呟く。少しでも気を抜くと、そのまま崩れてしまいそうだ。
 「だいたい、俺魔法まともに教えて貰ったことないんだよ。母さんに基本教えてもらっただけで、後は全部盗んだ奴をアレンジしたものだしな」
 こともなげにさらっと言う。
 「なんだ、魔法ってそうやって見て学ぶもんじゃないのか?」
 はぐれ者ゆえに魔法の本質を知らない。知らないゆえに、自分の才能に気付いていない。
 無知ほど、恐ろしいものはなかった。
 「違うわよ……」
 その声にもはや力がない。絶望の淵から、叩き落される寸前だ。
 (俺がなんとかしないと……)
 差し違えでもなんでもいい。母さんを……カディズミーナを守らなくてはいけない。
 俺は再び剣を持つ手に力を込め、奴を睨みつけた。
 「そうか。てっきり、俺はそういうもんだと思っていたんだがな。……まあいい。それより、俺はお前らの最大の攻撃を乗り切ったぜ。今度は、俺の攻撃をお前らが乗り切る番だ。用意はいいか?」
 「答えを聞くまでもなく、掛かってくるんだろ?」
 そう毒づきながら、母さんを守るようにその前に歩む。
 ……俺に、彼女を守ることができるのだろうか?
 「まあ、そういうことだ。判っているなら、遠慮なしに行かせてもらうぜ!」
 叫びながら振り上げた右手に、小さな黒い炎が纏わりつく。その炎をオーバースローで投げつけると、それは俺達の手前で着弾し大きな炎が視界を遮った。その色も、黒。
 「めくらましか!」
 その黒の炎の向こうに、半魔族の影は見えない。しかし、それが駆ける気配を、剣士の能力が掴む。
 (避ける? いや、迎え撃つ!)
 その首を跳ね落とせば、いくら半魔族といえど生きてられないだろう。この黒い炎では、向こうも見えないはずだ。動きが読めれば、逆転のチャンスがあるはずだ。
 しかし、その時俺は焦っている自分に気付いていなかった。焦って、勝負を急いだのが結果、敗因となった。
 (!!)
 「雄馬!」
 母さんがそれを察知する前に、俺は急速に膨れ上がった奴の気を読み取る。しかし、それに気付くのが遅すぎた。
 「があぁぁっっ」
 俺は獣のような叫び声を上げ、きりもみしながら後ろにさがる。だが、すぐに立っていられなくなり、両膝をつくとうずくまった。押さえた右脇腹の傷から、とめどなく血が流れる。間違いなく致命の傷。そう思った時、胃から逆流してきたのは大量の血だった。内臓までやられている。意識を保っていられたのが不思議なぐらいだった。
 確認できたのは、直径50センチぐらいの光の輪。母さんが得意とする、光輪の魔法だった。それが、俺の脇腹を薙いだのだ。奴は黒い炎の向こうで、ダッシュでこちらに突っ込んでくると見せかけて走りながら魔法を使ったのだ。身体をよじっていなかったら、胴体を真っ二つにされていたかもしれない。
 だが、反撃できないという事実だけは、間違いないことだった。
 「雄馬っ!!」
 慌てて母さんが駆け寄る。そして、しゃがんで左手を当てようとする母さんの動きが止まっていた。その視線はどこにも向いていない。あえて言うなら、後ろだ。
 俺の瞳は、母さんが見ようとしているものをしっかり捉えていた。母さんのすぐ後ろ、その無防備の背中を見つめ仁王立ちになっているグリードの姿を、俺の目は捉えていた。
 奴は何も言わない。ただ、母さんの背中を見つめているだけ。
 その母さんが、ものすごい勢いで振り返った。しゃがんだままで、グリードを見上げる。
 後ろ向きになった母さんが今、どういう表情をしているのかはわからない。二人は、じっと見詰め合ったままだ。
 数秒の時間が過ぎた。
 「カミコさんよ。あんたのその目、俺の母さんの目を思いだすぜ。俺の母さんも、そんな目をして人間達から俺をかばっていたっけな」
 呟くような言い方だった。その表情に、感情は見うけられない。無理矢理消しているようにも見うけれられた。
 悲しいかな。俺は今、守ろうとした存在に守られていた。
 その母さんは何も喋らないでいる。そんな母さんに対しそもそも答えを期待していなかったのか、グリードは勝手に言葉を続けた。
 「全てを出し切ったよな、お前ら? だったら、俺の勝ちだな……」
 虚しそうな言い方だ。本当に奴がどう思っているのかは判らなかったが、奴の口調はそう取ることしか出来なかった。
 そして、その言葉は正解だった。奴はいつでもその右腕を振るえる状況だ。振えば、母さんの命を奪える。奪ってしまえば、俺は勝手に死ぬだろう。もう、いかなる手を使っても、逆転は不可能だった。
 だが……。
 「まだ、全てを出していないわよ」
 母さんが、呟いた。
 「なんだと?」
 グリードの眉が跳ねる。
 「私にはあなたを倒せる魔法が一つ残っているわ。勝ち誇るのは、それを耐え切ってからにしてくれるかしら?」
 それを聞いたグリードの表情が、苦虫を潰したようなものへと変わる。
 本当にそんなものがあるのだろうか。それともはったりなのか。はったりだとしても、この場で嘘をつく意味がわからない。
 グリードも母さんの言葉の意味を図りかねているらしかった。
 だが、考えるのを止めたらしい。奴は母さんから目を外し、その視線を空へ向ける
 「初めからあるんだったら使えよな。ちぇっ、しょうがねえなあ……」
 そういうと振り返り、10メートルほどの距離を開けた。絶対有利の状況を、あっさりと捨てたのだ。
 なぜかは判らなかった。
 「雄馬の応急処置だけさせてくれないかしら?」
 「好きにしろ。ただし、最後の攻撃はあんただけでだ。それが、交換条件だ」
 母さんは「魔法で倒す」と宣言しているのだ。もとより、最後の攻撃に俺が参加することはないはずだ。だから、既にこれは交換条件とは言えない。そんなこと、グリードにも判っているはずだ。
 もはや、奴が何を考えているのか理解不能だった。
 「初めからそのつもりよ」
 言うと、母さんは振り返り俺の脇腹に両手を当てた。その手が淡い輝きを放つと、血が止まりゆっくりと傷口が小さくなっていく。
 が……。
 「母さん?」
 立ち上がり、グリードの方に向き直った母さんの背中に疑問符を投げかける。
 治療は終わっていなかった。これでは、まだ動くことすらままならない。
 「応急処置よ。大丈夫、あとでちゃんと治すから。先にこっちを倒すわ。雄馬は黙って見ていなさい」
 後ろ向きのまま、返事をする。
 「……ちゃんと見ているのよ。目を逸らしちゃ駄目よ」
 その一言を付け加えた。大逆転の魔法は、本当に存在するようだ。
 俺は、母さんに賭けるしかなかった。
 「来るか? カミコさんよ」
 「まだ用意が足らないわ。すぐに終わるから安心して」
 焦れるグリードを制し、母さんは呪文を唱えると指を鳴らした。唐突に、ばらばらとかなり大きい音を立てて、母さんの1メートルほど手前の何もないところから、光に反射してキラキラと輝く物が大量に発生して湖面に転がる。
 それは、水晶だった。だいたいが拳大の、形のいびつな水晶が、山積みになって母さんの足元を占拠していた。多すぎて、その脛のあたりまで埋まってしまう。敷き詰めれば、6畳間の部屋一面ぐらいは軽く埋まると思える程の水晶が、魔法によって呼び出されていた。
 (あれは……)
 はるか昔に聞いたことがあった。優秀な魔法使いは、その魔力を水晶みたいな形に変えて、いつでも使うことができると。
 しかし、あれがそうだとすると、一体どれだけの魔力なのか想像できなかった。だいたい、その一つにどれだけの魔力が篭っているのかがわからないのだ。
 わかるのは、「尋常な量じゃない」ということだけだった。
 「なんだこりゃ?」
 即席魔法使いのグリードには、それが何かわからないらしい。
 それに答える母さんの髪が、本来湖面にさざなみを立てていただろう、温かい風に揺らされた。
 「魔力を溜めた物よ。私がこの2千年の間に溜め込んだ魔力のすべてを呼びだしたわ。今から使う魔法は、私が不老不死の研究をしている間に見つけた副産物よ。あまりにも膨大な魔力を必要とするから、非実用的としてその存在すら誰にも言わなかった幻の魔法……。あなたは、耐え切れるかしら?」
 それを聞いたグリードの表情から余裕が消える。さすがに、この山積みになった水晶が笑えない代物だということを理解したようだ。
 そして母さんは、胸のあたりで手首をクロスさせると、少し俯き集中する。すると、一個の水晶が淡く輝くと同時に消えた。その一個を皮切りに、次々と水晶玉が輝いては消える。その10秒後には、母さんの体が見えなくなるほどまばゆい光が発生し、やっと見えたと思ったら、あれだけあった水晶はどこにもなくなっていた。
 母さんの姿勢は変わっていない。だが、その身体から魔力が滲み出ているのがわかる。剣士の俺が感じ取れる程の魔力というのが、どれだけ尋常でないか。
 その魔力を、母さんは開放した。
 「広がれぇ!!」
 呪文は、意外にも短かった。勢いよく交差させていた腕を左右に広げると、この湖一帯に響くような声で叫ぶ。
 すると、光が走った。
 強いものではない。放たれたと判ったから気付いたぐらいの弱いものだ。だが、確かに光が走ったのが見えた。
 グリードは何が起こるのかと身構えている。俺は、母さんの背中をじっと見詰めている。そして母さんは……。
 「終わったわ」
 その両手をゆっくり下ろし、そう呟いた。
 「……え?」
 何も起こっていない。ただ、光が走っただけだ。
 呆然とする俺とグリード。母さんは、それ以上何もするつもりがないのか、そのままじっとしていた。
 「……失敗か?」
 奴はどうリアクションを取っていいのかわからないらしく、構えたままで問い掛ける。その質問にも母さんはまったく答える様子はない。雰囲気で想像するに、恐らく目を瞑っているらしかった。その態度を、グリードは失敗と取ったらしい。
 「そうか……。なら、ここまでだな」
 もはやこれ以上遊ぶつもりはないのだろう、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。その時見たグリードの目は、何故かどことなしに寂しそうだった。
 (まずい、守らなくては……)
 そう思うが体が動かない。まったく力が入らなかった。
 「カミコさんよ、俺はあんたのこと結構好きだったぜ。安心しな、痛めつけるような殺し方はしないからな……。じゃあ、あばよ!」
 その表情を瞬間的に鬼のものに変えると、残りの距離を一気に詰めてきた。
 俺はそれを見ているだけだ。どうすることも出来ないまま、その豪腕が突き出される。
 そしてそれが、母さんの胸を貫いた。
 「あ……」
 貫いただけだった。
 「なんだとぉっ!!」
 グリードが驚愕する。
 確かに、グリードの右腕は母さんを貫いていた。しかし、それだけだ。血も何も出ていない。ただ、背中からグリードの手が突き出ていた。慌てて左腕を横薙ぎにするグリード。しかし、それも母さんの身体をすり抜ける。
 その間、母さんは微動だにしなかった。
 「幻影か? それとも、実体を消し去ったのか!? それが、魔法の効果か!!」
 「違うわね」
 明らかに動揺しているグリードに、今まで聞いたこともないような冷たい声で母さんが答える。そして、ポケットから先ほど同様硬貨……10円玉を取り出すと、警戒し数歩下がっていたグリードに向けて放る。するとそれは、キャッチしようとしたグリードの手をすり抜けて、向こうに落ちチャリンと音を立てた。
 自分の手のひらと、通り抜けた硬貨を交互に見るグリード。その落ちた硬貨を拾おうとして、何度も湖面をまさぐる。しかし、何度そういうそぶりを見せても、奴はそれを拾うことが出来ない。
 「実体が消えているのは、あなたの方なのよ」
 その言葉が、グリードの動きを止めた。
 「私が掛けた魔法は、対象となった相手の存在を丸ごと消してしまうものなのよ。その姿だけじゃなくて、歴史上から消し去ってしまう究極の魔法よ。あなたに直接掛ける魔法なら、もしかすると防がれたかもしれない。だけど、世界に働きかける魔法は防げないわ。世界があなたの存在を認めなくなったら、あなたは消えるしかない。この魔法を、防ぐことは出来ないのよ」
 硬貨を拾うことを諦めて身体を起こしたグリードの目が見開かれる。見つめたその手が……その全身が薄くなって、向こうの景色が透けて見えていた。
 「勝負あったわ。私たちの勝ちよ、グリード」
 母さんがそう宣言した。
 (冗談だろ……)
 恐ろしい魔法だった。全世界に働きかける魔法などが存在していたということ自体が驚きだ。もちろん、これほど壮大な魔法が使われることなど、既に滅んでしまったあの世界の歴史上にもなかっただろう。あの水晶が全て消え去ったのも納得できた。
 「……っくっくっ」
 笑い声。呆然とその手を見つめ顔を俯けていたグリードが、突然笑い出した。
 「くわぁっはっはっはー!! こいつはびっくりしたぜ! 歴史上から存在を消してしまう魔法だって? そうかそうか、この呪われた血は存在しなかったことになるのか。はっはっはー! 最高だぜ、カミコさんよっ! あんたに免じて消えてやるよ」
 最高の笑み。可笑しくて、仕方がないという感じだ。戦いに敗れて、悔しいと言った感じは微塵もなかった。
 「悲しい人……。あなたがした事も消えてなくなる、あなたのことを覚えている人もいなくなる。だけど、私たちは覚えておいてあげるわ。消え様を見た人だけは、その魔力は及ばないから……。私は忘れないから……」
 寂しそうな後姿。本気で、母さんは奴が消えることを悲しんでいるような気がする。そんな母さんに、グリードは優しそうな笑みを見せた。半魔族に、あんな笑顔が作れるなんて、思ってもいなかった。
 「なあ、俺がいなくなったら、あの世界はどうなるんだろうな? もしかしたら、滅ばずに残っているなんて事になってないかな?」
 もう奴は、水面に映った人影のようにおぼろげな存在になっていた。
 「どうかしらね。歴史がどう変わるのかまではわからないのよ。でも安心して。私が確認してあげるから」
 それを聞いたグリードは満足げだった。
 「これが最後だな」
 自分の胸を見下ろし、限界を察したのだろう。そう言うと、母さんの目を見つめた。
 「あばよっ、カミコさんよ! 自分が人間じゃなかったこと、今ほど悔やんだことはねえよ。人間だったら、本気で惚れれたかもしれないのにな」
 (え?)
 言ったが最後、奴の身体が掻き消えた。
 その消えた場所を見つめる二人。悲しい物語は、こうして終わりを迎える。
 林から、また吹き抜けてきた風が、母さんの髪を揺らしていた。
 「……言いたい事言うだけ言って消えたわね。せめて、返事ぐらいさせて欲しかったのにね」
 言語を日本語へと戻すと、嘆息しこちらへ振り返る。
 「ごめんね、雄馬。ほっぱらかしにして」
 そう言うと、母さんはいつものように疲れた様子を隠し、優しそうな笑みを浮かべ、こちらに寄ろうとした。
 しかし、母さんが来る前に、俺は反射的に問い掛けていた。グリードがいなくなった今、真っ先に問い掛けずにはいられなかった。
 「母さん……。母さんは、本当にカディズミーナなのか?」
 それを聞いて母さんは歩みを止める。
 彼女の口からそれを示す言葉は何度も出ている。しかし、俺が問い掛けるのは初めてだ。もう、判っているはずなのに、やはり問い出そうとする。
 そして、その答えはやはり判っていたものだった。
 「そうよ。改めてお久しぶりね、ユーマリオン……。やっと、逢えた……」
 その場にとどまったまま浮かべる笑顔は母さんのもの。そのウェーブの掛かった髪も、発せられた声の質も母さんのもの。
 だが、母さんはカディズミーナしか知らない事を、俺のフルネームを口にしていた。

 そのとき俺は、また悲しい物語が始まろうとしているのを僅かながらに感じ取っていた。



 悲しき半魔族はこの世から消え、戦いが終わる。
 しかし、物語は終わらない。雄馬と香美子。ユーマリオンとカディズミーナ。この『二人』は、一体どうなってしまうのか?
 次章は最終章です。長いので8、9と前後編に分かれます。
 事実に困惑する雄馬。そして、香美子が取った行動とは?
 タイトルは小説タイトルと同じです。『ふたりのふたり』。
 期待してください。

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