第4章 金色を纏った少女

 ピーンポーン! ピーンポーン!
 (……ん?)
 玄関の方から聞こえる、チャイムの音で俺は目が醒めた。俺はベッドから跳ね起きると、そのまま玄関の方へ歩いて行く。当然、寝巻き姿なのだが、来訪者が着替える時間を待ってくれる訳がない。目をこすりながら、ドアノブに手を掛け、回し押す。
 が……。
 「あれ?」
 誰の姿もなかった。悪戯ではなく、ただ単に俺が出るのが遅かったようだ。多分、俺が起きる前から鳴らしていたのだろう。そのチャイムの主は痺れを切らせて帰ったらしかった。
 まあ、どうせ新聞の集金か何かだろう。本当に用事があるのならば、また来るに違いない。
 (問題は……)
 振り返り台所を覗き込む。玄関から見える水屋の中には、そこから見て時間がわかるように、大きい文字のデジタル式時計が入っている。
 時間を確認すると、午前10時43分。
 「うわぁああ! 後1時間は寝れるやんけっ!」
 昨日の土山の影響か、なぜか俺は関西弁で悲鳴をあげていた。俺は、一旦起きてしまうと二度寝が出来ないタイプなのである。人を起こすだけ起こしておいて、後少しを待たなかった来訪者に呪いの念を送りつつ、玄関から繋がっている台所へと戻る。
 ……土曜日の朝。車通りはおろか、人通りすら少ないこの近辺は、非常に静かだった。その上、家の中も静かである。母さんの姿は、やはり会社に行ったようで見当たらない。
 帰ってこなかったなんてことはないと思うのだが……。
 とりあえず、何か変わった事はないかと思い部屋中に目を軽く走らせる。すると、台所のテーブルに、昨日俺が寝る前に書いておいたメモが残っているのが目に入った。
 いや、よく見ると違う。確かに、俺の使ったメモ用紙だが、文面は母さんの筆跡だ。どうやら、昨日のメモを裏返して、そのまま使ったようだった。
 目を通すと、こんな事が書いてあった。
 『雄馬、ごめんね。今日も会社に行ってきます。深夜にはならないと思うけど、念のため夕飯は自分で用意してね。炊飯器ですが、昨日あまり大きな額を下ろしていないので、今日もう一度銀行に行ってきます。明日買いに行くから、今日は我慢してちょうだいね。だから、食事は外食か弁当でお願いします。』
 その『す。』の後ろにサイン替わりの、30秒で描いたと思われる母さん自身の似顔絵が、妙に可愛らしく描かれていた。手抜きしている割にはやたらと似ている。その辺は、さすがにプロとしか言いようがない。
 (おっ)
 よく見ると、小さい字でイラストの下に何か書かれていた。読んでみると、『P.S.……水飯器ってなにかな〜。ちゃんと勉強してる?』とある。
 瞬間意味がわからなかったが、思い当たる節がありメモを裏返えすと……
 「うわっ」
 そこには、確かに俺の字で『水飯器』と書かれていた。どうやら、昨日の水が張ったままの米のインパクトが強かったらしい。
 昼までの時間は、昨日の授業の復習に使う事にした……。



 1時5分前、開いていたノートを閉じる。勉強は一区切りついたので、そこで打ち切る事にした。テレビの電源を入れ、台所へ向かうと早速昼飯の準備に取り掛かる。とはいえ、炊飯器は水飯器(しつこい)と変貌しているので、炊く事は出来ない。余りものの冷凍米もないし、ガスコンロで炊くなんて器用な事は、炊飯器に慣れきった俺には無理な話だ。
 ただ、コンビニに足を運ぶのは面倒なので、何かないかそのあたりの引き出しを開けまくった。パンならあるのだが、朝はともかく、後で腹が減るので昼はなるべく避けたいところだ。
 (お、良いものがあった)
 俺が見つけた戦利品は、パスタとレトルトのスパゲティーソースだった。母さんの買い置きだろう。この組み合わせは非常に保存が利くので、非常食には持って来いなのだ。
 俺はそれを頂戴することにして、早速鍋に水を入れコンロにかけた。沸騰するのを待つ間、ふと思い出して玄関に足を運ぶ。
 良く考えると、新聞がなかったのだ。母さんは読まずに出て行ったらしい。俺は待つ時間を新聞を読むのに使うことにして、早速それをテーブルに広げた。
 (大した記事はないな……)
 1面は興味のない政治関連、3面は昨日あった高速道路の大型玉突き事故の記事が大きく扱われている。スポーツ欄は大詰めとなってきたプロ野球の結果がその8割を締めているが、どれも俺の興味をそそるものではない。
 最後にテレビ欄に目を通したが、土曜の昼間と言えば、くだらないドラマの再放送ばかりで、面白そうなものなどなかった。念の為に台所から見える自室のテレビチャンネルをリモコンで切り替えるが、結果は案の定であった。
 ちょうど水が沸騰してきたようなので、椅子から立ち上がり、新聞を元の二つ折りにして、無造作にテーブルの上に放り投げる。
 その時、ふと新聞の小さな広告記事が目に入った。探偵事務所の広告で、『浮気相談、家出人・思い出の人の探索承ります。』と宣伝されていた。
 (思い出の人探しますか……。もし、探偵にカディズミーナを探して貰うとしたら、一体どれだけの費用が掛かるんだろうな)
 そう思い、パスタを湯の中に入れかき混ぜながら、今現在のカディズミーナの特徴をまとめてみた。
 まず、俺同様にカディズミーナの記憶と転生している相手の記憶を同時に持っている事。本人同士が喋れば、間違いなく判るが、元の記憶を持っているので、傍目には別人格が入り込んだという事は判りづらい。
 これ以降は想像なのだが、俺同様にカディズミーナの力を持っている……つまり、魔法が使えるということ。これは、かなり重要なポイントになる。不思議な力を持った女性を捜せば、彼女を見つける確率は確実に上がる。
 それと、俺が『雄馬』という名前のように、これまでの歴代の『ユーマリオン』は、名前のどこかに愛称の『ユーマ』が入っていた。だから、カディズミーナの転生先の相手も、彼女の愛称がどこかに含まれているはずだった。
 だが……。
 (あれ? あいつの愛称ってなんだったっけ?)
 どうにも思い出せなかった。あったのは間違いないのだが、俺はずっとフルネームで呼んでいたし、なんか馴染めなかったことだけは覚えていた。
 (カディ……ではなかったな。確か、『デ』の発音が嫌いだとか言ってたし……)
 やはり思い出せない。重要な手がかりなので、絶対に思い出す必要がある。だが、今いくら考えても、出てきそうな気配はなかった。
 仕方がないので、それはおいて探偵の話に戻す。前に列記した特徴を元に、探偵事務所に駆け込んだとして、俺が探偵だったらいくらでその仕事を受けるか。ちなみに、世界中のどこにいるのか、どんな年恰好なのかはさっぱり見当つかない。
 (まず、蹴っ飛ばして追い出した後に、玄関に塩撒くな)
 ……と、いう事だ。やはり自分で捜すしかなかった。
 早茹でのパスタを皿に盛り、レトルトのソースを温めそれを上に掛けると、遅めの昼飯が出来上がる。
 テーブルにそれを乗せ、早速手をつけようとした時に、突然テレビから『ツーツッツツーツー』という、聞きなれた音が番組内容を無視して流れてきた。やけに特徴のあるこのニュース速報の音、実はモールス信号で「ニュース」という意味だという事を知っている人は意外と多くない。
 どうせ、そんなものいちいち流すな程度の代物だと思いつつも、一応首を自室へ向けテレビに目を走らせた。
 (なになに、『田沢市北区の工事現場で、土木作業員10人が殺されているのを発見』事故じゃないのか?)
 続きのテロップには、犯人が近所にいるかもしれないため注意を促す内容の事が書かれていた。その割には、細かい場所の記述がない。俺の住む田沢市北区はそんなに大きくない、どちらかといえば小さい部類の区であるとはいえ、一応そう呼べるなりの広さはあるのだ。なんともナンセンスな速報である。
 しかし、内容は俺の興味を充分にそそるものであった。
 (爆薬か? いや、それだったらそれっぽい表記があるな。だったら、何か強力な武器を使ったとしか考えられない。銃か? いや、銃なら10人も撃ち殺せない。それだけの被害が出る前に逃げ出せるはずだ。ならば、銃は銃でもマシンガン……?)
 だが、この日本でマシンガンを使って土木作業員を銃殺する理由は、俺の御世辞にも豊かとはいえない想像力では考えつかなかった。
 (なんにせよ、日本も物騒になったものだ)
 これが、ユーマリオンがいた世界なら、日常茶飯事とは言わないまでも、あってもおかしくはない話だ。だが、ここは世界でも有数の治安の良さを誇る日本である。その日本で、これだけの大量殺人はあからさまに異常だった。
 (同じ地区か。美奈や母さんがその犯人に出くわさなければいいのだが……)
 スパゲティーを口一杯に放り込みながらそう思う。俺がいたなら、どんな武器を持った相手でも守り抜く自信はある。だが、俺のいない時にそんな凶悪犯と出くわしたなら、俺にはどうする事も出来ないのだ。
 (そういや、あいつ今日はどうしているんだろうな?)
 ふと、美奈のことが気になった。昨日、彼女とは後味の悪い別れ方をしている。午後の時間も暇な事だし、少し様子を伺っておいた方が良さそうだった。
 俺は、彼女を外へ引っ張り出す事にした。
 とはいえ、俺には美奈を連れ出すネタがない。普段は昨日のように彼女が話を持ってくるので、俺はそれについていくだけなのである。俺から美奈を誘った事など、片手で数えるほどしかなかった。
 (何が良いかな? 単純なところで、映画あたりがベタか)
 映画館なら近場の本双にある。それも、3年前に出来たばかりの、5つのスクリーンを持つ大型の映画館があるのだ。
 俺は先程畳んだ新聞を再び広げ、映画情報を見る。すると、公開前から自分が目を付けていた映画がのタイトルがあった。ユーマリオンが元いた世界でやっていた事がある傭兵を題材にした洋画で、その世界観にあの世界と通じるものがあったので、あまり映画を見ないにも関わらずチェックしていたのだが、知らない間に公開されていたらしかった。
 後の映画には興味はない。美奈が気にいるかどうかは判らないが、とりあえずそれをネタに誘ってみる事にした。新聞に目を通しながら食べていたスパゲティがちょうどなくなったので、電話機に手を伸ばし、素早く短縮のボタンを押す。
 3回目のコールが終わろうかというときに、ぷつりと電話が繋がる音が聞こえた。
 『はい、南波です』
 すぐさま、受話器を通しても特徴のある美奈の声が耳に入る。
 だが、このテレビアニメから聴こえてくるような声に騙されてはいけないのだ。俺は冷静にその声に対処する。
 「西口ですけど、美奈さんいらっしゃいますか?」
 『ああ、雄馬君ね。こんにちは』
 「あ、こんにちは」
 挨拶されたのでこちらも返した。やはり声の主は美奈の母親だったようだ。美奈のあの声は裏声でもなんでもなく、母親から遺伝したものなのだ。美奈と彼女の母親の声が区別出来る人間はいない。聞くところによると、彼女の父親でも無理なのだそうだ。もしつくとすれば、それは声ではなくて喋り方だろう。
 だが逆に、彼女たちの声とそれ以外の声を聞き間違えることもまずないことを補足しておく。
 『美奈ね。2階にいると思うけど……ちょっと待ってね』
 美奈の母親はそう一言いうと、保留のボタンを押したらしく、すぐにどこかで聴いたことのある軽快な音楽が流れ始めた。
 ……と思ったら、1秒も経たないうちに保留が解除される。
 『……雄馬君。美奈のことはいちいち『さん』づけしないで、呼び捨てでいいのよ』
 再び、保留モードになった。
 (……)
 『はい、お電話代わりました。……ってあれ? 雄馬? もしもしー、どうしたのー』
 「いや、なんでもない」
 美奈の母親とうちの母さんとのキャラクターは、仲がいいというだけあってよく似ていた。
 『……変なの。で、なんなの? 雄馬が電話掛けてくるなんて、珍しいじゃない』
 声のトーンに変なところはない。昨日の事は、とりあえず気にしていないように思えた。
 「ああ。せっかくの休みだから、どこか遊びに行こうかなと思ってね。どうせ、お前も暇なんだろう?」
 『うん、暇だよ。暇だから、今から寝ようかなって思っていたんだよ』
 ……年寄りみたいな奴だな。
 『で、どこに行くの?』
 「映画なんかどうかなと思うんだが」
 実のところ、映画にこだわっているわけではない。彼女が楽しめるところなら、どこでも良いのだ。
 『映画……というと、シネマプラネッツ本双? ちょっと待ってね』
 これは、映画館の名前である。
 しばらくの間、彼女の声の代わりに、キーボードを叩く音が聞こえてくる。どうやら、パソコンを使って上映している映画を確認しているらしい。インターネットは彼女の趣味で、昼間からパソコンの電源を入れていたらしかった。
 『うーんとね……『バトラVSギガドン』!』
 「怪獣映画じゃないか……」
 嬉々とした声を上げる彼女に対し、思わず椅子からずり落ちた身体を元に戻しながら、疲れた声で呟く。
 『バトラ、面白いんだよ』
 彼女は、俺の声の変調に気付かなかったようだった。やはり、彼女の思考&嗜好は普通の女の子とは違うらしい。
 (まあ、普通と違うから、いつも俺のそばにいるんだろうな)
 そう勝手に結論を出した。
 「まあ、それで良いよ」
 何か違うような気がしたのだが、とりあえず俺の見たかった映画はまた一人で見に行くことにして、今回は彼女の好きなものに妥協するようにした。元々、彼女の機嫌取りなのである。美奈のいいようにするのが筋だろう。
 『やった! やっぱり、ああいうのって一人で見に行くのはちょっと恥ずかしくって……。嬉しいよ』
 彼女は素直に喜んでいるようだった。



 外は今日も暑かった。天気予報によると残暑は今日までで、明日の雨を皮切りにだんだんと寒くなっていくらしい。俺としては暑いのは苦手なので、大歓迎といったところである。
 額から流れる汗を、昨日とは違う迷彩色のバンダナが受け止める。この流れる汗の感触も、後少しで忘れられると思うと心が踊りだしそうになった。
 『南波』と書かれた表札のある家の前に来ると、そのすぐ横にあるインターホンのチャイムを押す。
 ちなみに、彼女の家のチャイムは『ビー』や、『ピンポン』などと言った無粋な音ではなく、軽快なメロディーになっていた。聴きなれたチャイムの音が、家の中に響き渡る。
 「雄馬ー、ちょっと待ってね」
 開いた2階の窓から、美奈の声だけが聞こえてきた。その窓がどこからともなく伸びてきた細い腕によってぴしゃりと閉じられる。別段必要ないのに、彼女はいつものように『慌てて』いるらしい。
 俺は勝手に門を開け、玄関まで歩いていった。昨日は、この僅かな距離でこけたので、今日はそんなことがないようにとのさりげない配慮である。いくらこけなれているとはいえ、変に怪我されると困るのだ。
 が……。
 ドンッドンッドンッゴンッガゴンッ……メキッ
 階段を優に5段は転げ落ちる音が中から響いてくる。
 もはや、俺にはどうすることも出来ない領域に彼女は存在しているらしい。
 「美奈……。24回目よ」
 「23回目だよ。数え間違えないで……」
 母子の呑気な会話が聞こえてくるが、俺はその間、真剣に彼女が死んだ際には線香を上げに来ることを考えていた。
 音が凄かった割には、復活は早く早速ガラスの向こうに美奈の姿が写る。美奈の母親の「気をつけてね」という一言が、妙に虚しく聞こえるのは気のせいだろうか?
 俺は、どういう表情で美奈を迎えようか思案していた。だが、それはまったくの無駄に終わる。
 「あたた……。階段落ちちゃったよ」
 お尻を擦りながら出てきた美奈の姿に、俺の表情は固まってしまった。
 「雄馬、どうしたの? どこか痣できているの」
 慌てて腕やら足やら、挙句の果てには胸元まで覗き込んで確認する。しかし、俺はそんなところは見ていない。というか、服の中まで見えるわけがない。
 俺が見ていたのは、彼女の見慣れた顔だった。
 「カ……」
 「え? 蚊?」
 こんどは、きょろきょろと周りに視線を巡らせる。だが、そんな彼女の奇怪な行動を気に留める余裕がないぐらい、俺は彼女の顔に驚いていた。
 「いないじゃない……って、ああ」
 彼女はようやく、俺の視線がどこに注がれているのか判ったらしかった。自分の顔……正確には、髪を指差す。
 彼女は、ポニーテール用に伸ばしていた髪を、肩ぐらいまでに短くしていたのだ。
 「えへへー、思い切って切ってみたんだよ。括るのも洗うのも、いい加減面倒くさかったからね」
 「悪くないでしょ?」と一言、彼女はその場でくるりと一回転する。だが、俺はそんな彼女の唐突な変化や、その『良し悪し』に驚いていた訳ではなかった。
 (カディズミーナ……じゃ、ないよな)
 そう、彼女はカディズミーナにそっくりだったのだ。髪の色こそ美奈の黒にカディズミーナの栗色と、多少の違いがあるのだが、丸い好奇心に満ちた目をポイントにしたその顔の作りは、観察すればするほどよく似ている。彼女は出会った頃から長い髪を何らかの形で括っていたし、俺……雄馬とユーマが一緒になったときには、既に『彼女は彼女』だったので、それをカディズミーナとダブらせる考えを持たなかったのだ。
 (まさか、こいつはカディズミーナなんじゃないだろうな?)
 真剣にそんなことを考える。共通点は他にもあるのだ。彼女の『美奈』という名前と、『カディズミーナ』という名前にはかぶる部分が存在する。あながち的外れな考えとは言えない筈だ。
 だが、俺はすぐにその考えを否定した。
 あまりにも似ていたので思わず忘れていたが、転生先の相手の外見は関係ないのである。それに、名前の件はともかく、美奈が二人の意識を共有しているという事実を、俺にずっと黙っているとは思えなかった。
 だいたい、世界の総人口が50億人を超えるこの地球上。女性の比率がその半分と考えても25億人、これまでの傾向から考えて転生先の相手が20代から40代だったことを考慮してそれに限定しても、単純に見積もって少なくとも5億人以上の女性が該当する。その上で、いま目の前にいる彼女がカディズミーナである確立をパーセンテージに直すと……。
 既に暗算では不可能だった。というか、8桁表示の安物計算機では、5億という数字が入らないのだ。
 俺の計算は、カディズミーナを捜しだすことの難しさという答えを弾き出しただけに過ぎなかった。
 「雄馬ー。見とれるのもいいけど、さっさと行こうよ。歩かなきゃ、映画見れないよ」
 じっと見つめられたままの彼女は、恥ずかしくなったのかついに焦れてしまった。俺の思考は、彼女にとっては構いのないことだったらしい。
 「あ、ああ……」
 俺たちは、昨日のように駅に向かって歩き始めた。
 やっと正気に戻った俺は、改めて美奈を観察する。髪形こそ変わったが、その表情はいつもと変わった形跡はない。昨日の件は、俺の取り越し苦労で済んでいるらしかった。
 (しかし、似てるな……)
 油断していると、カディズミーナが横を歩いている錯覚に囚われそうにもなる。
 ふとそこで、美奈にカディズミーナのことを聞いてみようと思いたった。一人で彼女を探しきることは不可能に近い。美奈に本当のことを言う訳には行かないが、それとなしに方法を聞くことは可能だろう。おとぼけの美奈にまともな答えはあまり期待できないが、人付き合いの少ない俺にとって、彼女は貴重な『戦力』だった。
 「なあ、美奈。世界中のどこにいるのかも、どんな姿かも判らない人を捜すとしたら、お前だったらどうする?」
 瞬間、何を言われたのか解らなかったらしい。眉をひそめるが、いつもと同じ笑みを消し、口元を引き締め腕を組んだ。
 「なにそれ。それって、お互いが会えば判るの?」
 彼女は真剣に応答してくれるようだった。
 「会っただけでは判らないが、お互いのことは知っているんだ」
 「うーん、なぞなぞみたいだよ。難しいね」
 片眉を吊り上げ、困ったような表情を作る。やはりこれだけの情報では無理らしい。
 だが、彼女は質問を増やす。
 「相手の事を知っているってことは、名前はわかるんだ」
 「ん? ああ……」
 確かに名前は判る。だが、それは裏の名前でしかない。一般的に通用している表の名前では、俺は彼女を……カディズミーナを捜しだすことは出来ないのだ。
 しかし、美奈は捜すのとは違う、まったく別の方法を口にした。
 「だったら有名になるよ。世界中の誰もが知っているぐらいの有名人になって、テレビの前で言うの。『こういう人を捜している』って。そしたら、それを聞いたその人が、向こうからやってくるんじゃないかな?」
 「そっか、その手があったか」
 ぽんと左の手のひらを打った。
 確かに、闇雲に世界中を歩き回るよりかは、確立ははるかに高そうだ。もし、テレビとかのメディアがないような辺境にいるのなら逆に駄目なのだが、人を動かすような名声と富を得れば、そこまでに捜索の手を伸ばすことも可能だろう。
 美奈の考えた手は、最も効率的な方法に思えた。
 「その手があったかって……、本当に誰か探しているの?」
 (しまった)
 「いや、とある雑誌でそういう問題があったんだ」
 取り繕ったのを悟られないように、何食わない表情を作る。少し反応が大げさすぎたらしかった。
 「ふーん。……あとね、すぐにでもって言うんだったら、インターネットを使うって手もあるよ。尋ね人を載せるための掲示板とかあるから、それを利用したら運がよければ見つかるかもしれないわね」
 「あまり確率は高くないけど」と彼女は付け加える。聞いてみるのものだった。彼女はまだ他の手を隠し持っていたのだ。俺なら英語もわかるので、海外のそういうページを探せば、確率も多少なりと上がるだろう。
 だが、俺はパソコンを持っていない。
 (バイトして買おうかな……)
 普段調べものとがある時は、美奈の家で探させてもらっているのだが、さすがにこの件はそういうわけには行かなかった。
 「ねえ、雄馬だったら有名になるのは簡単だよね。ボクシングで世界チャンピオンになれば良いんだからね。雄馬、何でボクシング辞めちゃったの?」
 彼女は俺の思考を無視して話を続ける。俺も適当にそれに応答し続けた。
 ……もし、美奈が本当の事を知れば、彼女は一体どうするだろう。彼女は、例え俺を失う事になっても、その優しさを貫くのだろうか?
 それとも……?
 元々何を考えているのか判り辛い彼女の思考の深層を、読みきることなど俺には不可能だった。



 本双商店街。土曜の昼間と言うことで、昨日来た時よりも賑わっているその中を、俺たちはいつものペースで歩いていた。いつものペースと言うのは、例の変わったものを見つけると首を突っ込む美奈のペースである。おかげで、一回分遅れた上映時間に合わせるため、更に商店街を回ることになってしまった。
 もっとも、彼女の手に掛かれば2時間半を潰すことなど簡単だ。だいたい、今しがた昨日金欠で行けなかった衣料店で、1時間ほど着せ替え人形になっていたところである。欲しい服を2点ほど選ぶと、それを押さえて店を出てきた。いま買うと荷物になるからだ。
 今俺たちは、アイスを買って公園のベンチで二人、休んでいるところだった。
 「これからどうする? あと30分ぐらい余裕があるけど?」
 「もうそろそろ映画館に向かっている方がいいんじゃないか? どうせ見るんだったら、早い目に行っている方がいいチケットが取れるだろ」
 映画館自体は、ここから5分ほど歩いたところにある。だが、今日は土曜日だ。子供を連れた親の姿で怪獣映画は賑わうだろう。下手すると、入れないなんてこともあるかもしれない。早い目に行っておいて、越したことはないだろう。
 それに美奈のことだ。その道中に、また変わったものを見つけるかもしれなかった。
 「そうだねー。これ食べ終わったら行こうか。……あ!」
 彼女はキャンデーの棒を嬉しそうに……というか、嬉しいのだろう。こちらへ差し出す。
 「後で交換しに行こうね」
 その棒には『当たり』という字が焼きこまれていた。彼女はそれを大事そうに袋に戻すと、それを片手に持ったまま2個目のカップアイスに取り掛かった。
 彼女は俺と違い夏が好きである。そして、その夏にたくさんのアイスをほおばるのが彼女の楽しみだった。とうの昔に自分の分を食べ終わった俺は、黙って彼女の食べる様を見ているだけになる。
 「雄馬。あの外人さん、ずっとこっち見ているよ」
 唐突に、彼女が目でその方向を示唆した。
 木陰に、ブロンドの長い髪を前後に垂らした少女の姿があった。旅行者なのだろう、脇に大きなバッグが置かれている。別段隠れているのではない、ただ、木陰で休んでいただけのようである。が、その薄い茶色の、どことなしに寂しそうな瞳は、しっかりとこちらへ向けられていた。
イラスト提供:和泉水流さん
 歳のほどは俺たちとほぼ同じか、細面の顔には生彩がない。なにか、疲れたような感じだった。その少女は、俺が視線を向けている間も暫くこちらを見ていたが、やがて視線をそらし木にもたれかかると小さくため息をついた。
 「何か用ですか?」
 どう見ても何かいいたげな少女に声をかける。もちろん、英語でだ。その流暢な喋りに、声を掛けられた本人のみならず、横の美奈までが驚く。
 「英語……、喋れるんですか?」
 細い目を見開いて少女はやはり英語で返した。小さく、か細い声だった。
 「ああ、君と問題なく喋れる程度にはね」
 「よかった。言葉が通じない人ばかりで、困り果てていたんですよ」
 そうだろう。日本人の英語力なんて、所詮実践で使えるような代物ではない。テストの点ならいつも高得点の美奈でさえ、眉をひそめて困ったような表情をしているのだ。だが、俺にとって英語とは母国語のようなものだ。というより、母国語として使っていたことが何度かあるのだから、使いこなすことなどまったく造作のないことである。
 その金髪の少女は、日本人の目から見ても美人といえるだろうその顔に笑みを浮かべ、こちらへ歩み寄ってきた。しばらく彼女と話を続ける。美奈は必死で聞き取ろうとしているのだが、首を覗き込ましては「えっ? えっ?」とその都度首を傾げていた。
 しかし、次に首を傾げたのは俺だった。眉を寄せて美奈の方を向き、助け舟を呼ぶ。
 「なに言っているの? 彼女」
 「ホテルを探しているんだそうだ。美奈、この近所で英語が通じる宿泊施設ってないか?」
 「出来れば安いところ」と、付け加えた彼女の英語も翻訳しておいた。
 そう。日本語が判らない彼女は、泊まるところ一つにも苦労しているのだ。言葉も判らない、付き添いもない、年端も行かないそんな彼女が、なぜこんなたいして大きくもない都市のこの小さな公園にいるのか? その理由は不明だ。だが、その寂しそうなものの混じった笑みに、俺は答えてやりたかった。
 だが、彼女の要求を満たすような宿泊施設を俺は知らなかった。地元民にとって、宿泊施設というものは不要のものなのである。だから、案外その場所を知らないものなのだ。
 「うーん、英語が通じるかどうか判らないんだけど、安いっていうんだったら……」
 美奈は日本語でそういうと、青のチェックが入ったハンドバックからメモを取り出し、すばやく地図を書き上げた。糊付けされた束からそれをはがすと、彼女に渡す。受け取ったその少女は、それを確認するとにっこりと微笑んだ。
 「ありがとう、ここに行ってみるとするわ」
 「それと、日本語がわからないっていうんだったら、これをあげるよ」
 美奈は、たどたどしい英語で少女にそういうと、鞄から何かを取り出し、それを渡した。
 それは、ポケットサイズの英和辞典だった。美奈の恐らく判り辛かっただろう英語に戸惑った様子だった彼女は、その中身を確認し、さらに困ったようだ。俺も眉をしかる。いくらポケットサイズとはいえ、それは決して安いものではない。
 「いいの? うれしいけど、私何もお礼できないわ」
 彼女が受け取るのを逡巡するのも、当然のことだった。
 だが、美奈は目を閉じゆっくりと首を横に振った。その落ち着いた笑みは、彼女が半年ほど『年上』だったことを思い出させる。
 「いらないわ。私が、あなたにこれを上げたかっただけ。私はそれであなたが喜んでくれればいいの」
 今度は日本語で言った美奈の言葉を、俺は翻訳し彼女に伝える。すると、その表情がぱっと明るくなった。
 「嬉しいわ! 日本人って、もっとドライな人ばかりだと思っていた。本当に御礼は出来ないけど、受け取っておくわね」
 彼女はそう言うと、英和辞典を大事そうにバッグへとしまった。通訳はしなかったのだが、美奈にも彼女が何を言ったのか判ったらしく、大人の笑みを浮かべ続けていた。
 「……なあ。さっき、俺たちのことじっと見ていただろう? 何か気になることでもあったのか」
 ここで、俺は疑問をぶつけた。彼女は、初めから俺が英語を喋れると思ってこちらを見ていた訳ではないはずだ。道を尋ねたかったのなら、もっと早く話し掛けてきていただろう。しかし、彼女は俺と視線が合った時にその目を逸らしている。何か、別の意図を持って俺たちを眺めていた筈だった。
 「ごめんなさい。なんか、懐かしい雰囲気だなと思って……」
 申し訳なさそうに呟いたその時の表情は、木陰から俺たちを除き見ていた時のあの、寂しげなものになっていた。
 「私は、恋人を訪ねてこの日本に来たの」
 その一言を皮切りに、彼女は自分のことを話し始めた。彼女の名前はウィーネ・フォーブスといって、アメリカ人であるらしい。いなくなった恋人を尋ねて日本に来たまでは良かったが、ろくに日本の勉強をせずにきたせいで、宿一つ泊まることすら難儀していたらしい。「このシティーにいることはだいたい判っているんだけど、細かい場所までは……」と言う彼女は、とても疲れている感じだった。
 「さてと。私、そろそろ行くわ。教えてもらったホテル、早速覗いてみたいから……。久しぶりに会話らしい会話が出来て、嬉しかった」
 その疲れた表情に僅かに生まれた元気を被せ、笑みを作って見せたウィーネは、バッグの紐を肩にかける。
 「もう行くの? だったら、これもあげるよ……あいたっ!」
 美奈が『いつもの』笑顔で差し出したそれは、先程食べていたアイスキャンデーの『当たり』棒だった。
 「馬鹿! こんなもの渡されても、彼女困るだけだろうが」
 「うー」
 後頭部を押さえて唸る美奈と俺を交互に見やり、ウィーネはくすくすと失笑した。
 「仲がいいのね。羨ましいわ」
 昨日も母さんにそんなことを言われたような気がする。どうも、俺たちのこういうやりとりは、傍目に見るとそういう風にしか見えないらしかった。
 ウィーネは美奈に近寄ると、その耳元に口を寄せ、何かを言った。意味は通じたようで、それを聞いた美奈は顔を赤らめる。
 言いたいことを言って満足したらしく、彼女は「グッバイ」と一言、手を振り俺たちの向かうところとは違う方向へと歩いていく。その背中に美奈が同じく「グッバイ」と声を掛けた。
 しばらく俺たちは、ウィーネの後姿を眺めていた。
 「私たちもそろそろ行こうか」
 いつのまに食べ終わっていたのだろうか? カップアイスの箱を丸めると、ベンチから起ち上がる。それほどの時間話し込んでいたわけではない。ゆっくり行っても、充分に間にあうだろう。
 「そうだな……」
 俺と並んで歩く時の彼女のペースなら、ちょうどいい感じかもしれなかった。
 「しかし、びっくりしたよ。前から雄馬英語凄いと思っていたけど、日本語喋っているみたいに外人さんと喋れるなんて……。どこで勉強していたの? まさか、アメリカ生まれの日本育ちだったとか」
 「そんなわけないだろう。この町で生まれ育っているよ」
 そう否定しておいてから、そういう事にしておいたら良かったと後悔した。そうでもないと、俺の英語力は説明がつかない。
 「だったらなんで、それだけ英語喋れるの?」
 やっぱり美奈は食い下がる。面倒なことになった。
 「まあ、色々と……な」
 「ふーん、いろいろあったんだ」
 それであっさり納得する美奈。面倒事は、瞬時に解決したらしい。
 (やれやれ、美奈が単純で良かったよ)
 胸の中で、ため息をついた。
 「それにしても、綺麗な人だったね」
 少し間が開き、公園を抜けたところで、そう美奈は会話を切り出してきた。
 「ああ……」
 ウィーネは、典型的な日本人の想像する美人外人といった感じだった。男の俺はともかく、女の美奈がそう評するのも当然だろう。
 「なんで、あんなところで一人でいたのかな? 東京みたいな国際都市ならともかく、こんなへんぴなところで……」
 「あ? お前、最後俺と喋っていた内容判らなかったのか?」
 「判らないよー、あんな早口の英語。名前を聞き取れたぐらいだよ。雄馬ー、何言っていたのか教えてよー」
 暑いのに俺に身体を寄せてねだる。上目遣いに覗き込むその表情は、まさにおもちゃをねだる子供のそれ。
 「あー、わかったわかった。わかったから、少し離れろ!」
 上半身を僅かに仰け反らせる俺は、その父親だった。俺はウィーネとの会話を日本語で判りやすいようにまとめ、それを美奈に伝える。
 伝えきった瞬間、彼女は怒り出した。
 「何でそれもっと早く言ってくれないの!? それが判っていたら、私彼女の手伝いするのに!」
 「手伝いって……。ウィーネの彼氏を捜すことをか?」
 その勢いに、思わずまた仰け反ったままの体勢で言葉を返す。
 「それ以外何があるんだよ。日本語がわからない彼女が、この市内のどこにいるかも判らない恋人を捜すなんて無理に決まっているよ! 私たちが手伝ってあげないと、彼女、永遠に恋人に会えないわ」
 そう言うと、早速踵を返す。
 その首根っこを、俺は捕まえた。
 「別に、泊まるところ判っているんだから後で行けばいいだろう? それより、今日は映画見に行くんじゃなかったのか? 次の上映時間より後の分はないんだぞ」
 「うーん」
 彼女は考え込んでいる時の癖……右手の人差し指を下唇に当てる例の癖を出した。彼女自身の持つ正義感と、怪獣映画の誘惑はほぼ同等であるらしい。
 「そうだよね。後で訪ねたらいいよね」
 また回れ右をして、こちらに向き直った。結局、泊まるところが大方判っているのが、バトラ……もとい、怪獣映画の勝利の要因となったようだった。
 「バ〜トラ〜♪」
 突然、怪獣映画の主題歌を口ずさみ、再び上機嫌な様子で歩き始める美奈。背中を伝う汗の感触を感じながら、俺はそれに続く。
 「そう言えば、さっきウィーネが何かお前に言っていたよな?」
 あまり大きな声ではないが、しつこく続ける美奈の恥ずかしい歌を止める意味で、わざと聞いてみた。思惑通り、彼女は鼻歌を止めて顔を赤らめる。だが、質問に対する答えは帰ってこない筈だ。
 しかし、意外にも美奈はその内容……ウィーネの内緒話をあっさりとばらす。
 「絶対に手放しちゃ駄目だって。雄馬のこと……」
 「なるほどな」
 自分の辛い体験を込めて言ったのであろう。失った恋人を追ってきたウィーネのその台詞は、友達が軽い気持ちで言うようなものではない、とても重いものだった。
 (まるで、カディズミーナみたいだな)
 彼女は、俺がずっと探していた少女のような運命を辿っているように見うけられた。
 ……。
 「……な!?」
 身体中を電気が走ったような感覚に捕われた俺は、声を上げ慌てて振り返った。振り返ったところで、彼女の姿があるわけがない。しかし、俺はその可能性を……今まで気付かなかった自分自身を呪いながら、彼女……ウィーネの向かった方向へと全速力で走り出した。
 「ちょっ……雄馬、どうしたの!?」
 慌てた美奈の声が、既に遠い位置から聞こえてきたが、それに答える余裕などない。
 ……彼女とは後で会える筈だ。美奈と映画を見た後で、彼女の泊まるホテルへ足を運ぶ予定だった。しかし、もし彼女がそのホテルへ足を運ばなかったら?
 『もし』があってはならないのだ。俺は、もう一度彼女に会わなければいけなかった。会って、彼女に問い掛けなければならないのだ。
 「お前の捜している恋人って言うのは、ユーマリオンと言う名前じゃないのか?」と……。
 先程の公園へ再び戻り、彼女の行った方向へ抜ける。まずは、彼女が向かったと思われるホテルの方へ走るべきでった。
 しかし、俺はそこで二の足を踏む。
 (どっちだ!?)
 よく考えれば、俺は美奈が教えたホテルの場所を知らない。公園の出口の前には、三叉路になっていて、どの方向を見通しても彼女の目立つ金髪は見うけらなかった。
 「くそっ!」
 逸る気持ちを押さえ切れず、腹立たしさを言葉にして吐く。
 そこで、美奈が俺に追いついた。
 「はあっ! はあっ! 雄馬っ、どうしたのっ!? 何でいきなり走り出す……きゃっ!」
 急に両肩を掴まれた彼女は、思わず悲鳴を上げていた。しかし、俺はそんな彼女に構わず、その両肩を揺らす。
 「ちょっと、雄馬! 痛いよー!」
 「美奈! さっき彼女に教えたホテルはどっちだ!?」
 「雄馬……」
 その勢いと迫力に、美奈は怯えた表情を作る。それを見て、やっと俺は正気に戻った。
 「……すまん、美奈」
 俺は彼女をゆっくりと下ろした。気がつけば、俺は彼女を前後にではなく上下に揺すっていたのだ。
 やっとのことで両足を地につける事を許された美奈。だが、彼女はそのまますとんとしりもちをついてしまった。
 「びっくりしたよ〜。立てないよ〜」
 揺らされたことに驚いたのか、俺の表情が怖かったからかは判らないが、彼女は腰を抜かしてしまったらしい。
 「わりい……。いや、本当に悪かった」
 「立てるか」と一言、手を差し伸べる。それを掴んで立ち上がった彼女は、なんとか自力で立てるまで回復しているようだった。
 「美奈。ウィーネに教えたホテルの場所、教えてくれないか?」
 その様を確認するなり、早速質問を繰り返す。美奈は『なんで?』といった感じで小首を傾げ、眉を寄せる。
 「ホテルって……。後でも会えるからって言ったの、雄馬じゃない? そんなに慌てなく……」
 「今すぐ、会って確認したいことがあるんだ!」
 彼女が全てを言い終わる前に、俺はその一言を挟む。
 美奈は、それ以上余計なことを言わなかった。
 「……まっすぐだよ」
 そう言うと、彼女は今しがた指した道に向けて走り出す。すぐに、俺は彼女と併走した。
 「すまん、美奈」
 それには答えず真剣な表情で美奈は走り続ける。焦る俺の気持ちを察した全力疾走なのだろう。本気で走った時の彼女は、滅多なことでこけたりしないし、とにかく速かった。しかし、ユーマリオンの力を有する俺はそれに簡単について行く。
 俺たち二人は本双の街中を異様な速度で駆けていた。
 「次左!」
 走りながら美奈が鋭く叫ぶ。十字路を高速で曲がるために、車通りがないのを利用して右側へ寄り、一気に左へと切り込もうとした。
 その時だった。十字路の右手から、ものすごい女性の悲鳴が聞こえてきたのは。それは、周りの事お構いなしという勢いで走っていた俺たちをも停めるような大きな声だった。
 「なんだ!?」
 俺が急に止まったためにぶつかりそうになった美奈を受け止め、俺は右手を覗き込む。
 そこで、俺は信じられないものを見た。
 先程の悲鳴の主だろう、20代ぐらいの茶色を基調とした服の女性が、電柱にもたれかかり青ざめた顔で震えている。その女性の視線の先にはプロレスラーのようながたいの良い男が……。
 全身黒の男に、素手で胸を貫かれていた。
 「雄馬、何あれ……。ドラマの撮影……?」
 そう呟く美奈の横に立ち、右手で後ろに追いやる。
 背中から突き出た手首。その岩でも切り裂きそうな鋭利な爪先から、数え切れないほどの血滴が滴り落ちる。
 「ちっ、見掛け倒しだったか」
 その長い黒髪の男は、日本語でも英語でもない、正確に言うならば、この地球上のどの国のものでもない言葉で毒づくと、右腕を振り払う。すると、その大柄の男が俺たちの横を抜け、更に5メートル程行ったところで地面を転がった。転がるたびに、血がアスファルトを黒く染める。
 美奈は、そのあまりにも現実離れした光景に言葉を失っているようだ。
 しかし、今起こっている事は、異世界の者によって引き起こされた、紛れもない『現実』だった。
 「どいつもこいつも、この世界の人間は俺を喜ばしてくれねえ。……ん?」
 そう呟く男の声に、俺は視線を元へ戻す。
 男の緑の瞳が、俺を捉えていた。その口元が、笑みによって歪む。
 そこから、人間のものではない、鋭い牙が漏れた。
 「美奈、逃げろ……」
 「え?」
 男の方を見据えたまま言う俺の言葉に、当然のように彼女は戸惑う。この男の本当の危険性を理解するには、たった一人の死体が地面を転がった程度では無理な話だ。
 奴がその気になれば、今すぐにでも魔法で美奈を殺せるのだ。
 「早く逃げろ! できる限り遠くにだ! 何も考えずとりあえず逃げろ!」
 今度は振り返り、俺は叫んだ。
 相手が人間なら、例え銃を持っていても美奈を守りきる自信がある。しかし、こいつ相手だと話は別だった。
 「お前もいい身体しているな。お前は、俺を喜ばしてくれるのかっ!?」
 そう言うと、グリードはその笑みを凄みのあるものへと変えた。



 物語は急展開。ウィーネを追いかけた雄馬が見たものは、封印したはずのグリードの姿だった。
 グリードと対峙する雄馬、一体どうなるのか? そして、ウィーネはカディズミーナの転生した姿なのか?
 次章、いよいよ彼女が姿を見せます。
 タイトルはずばり『カディズミーナ』です。
 お楽しみに。

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