※第3章 雄馬の憂鬱※  満載堂は、1年ほど前に出来た市内有数の大型書店である。ここ以外にも数店の店舗があり、本双にある店舗は、4階建てのビルのほとんどが店舗スペースという、この近辺では考えられない大きさだった。だから、アーケードのある低い建物中心の商店街通りから、少し離れたところにあるのは仕方のないことだった。  しかし、やはり並みの大きさではないゆえに結構遠くから来る人も多く、今も平日の昼間だというのにかなりの客が入っていた。そろそろ普通の会社なら就業時間が終わる頃だ。そうなれば、もっと客の数が増えるだろう。  「ひゃあ〜。相変わらず広いねえ、ここは」  そりゃ、突然半分ぐらいになっていたら、何が起こったのか詮索したくなるが……。  「雄馬は何か捜す本とかあるの?」  「そうだな、せっかく来たんだから、適当に見て回るつもりなんだが……」  別段、欲しい本があるわけではないのだが、ただ美奈の後ろをついて行くだけってのもつまらないので、俺はそう答えておく。  すると。  「だったら、私は私の行きたいところ行っているよ。それじゃあ、後でね」  そう言って、彼女は早速二階へと上がっていった。その際、階段でつまづいてこけそうになったのを、手すりを持った手が防いでいた。  (そそっかしい奴だな……)  美奈の姿かが完全に見えなくなったのを確認して、改めて店内を見回す。美奈がどこへ行ったのかはわからないが、俺が店内一周している間中、彼女が目的の物を探しているとは思えない。  (何か目的を見つけて回った方が良さそうだな)  腕を組み、何気なしに本棚に目をやる。その本棚は新刊コーナーで、その中に『良き人材はこうやって探せ』という名のビジネス書が置いてあったのが目に付いた。  (人材探しか……そういえば、人探しのための本ってあるかな)  ふと、カディズミーナのこをと思い出していた。彼女を捜しだす何かヒントになるようなことが載っている本があれば、買って読んで見ようと思ったのだが……。  早速店内を見回る。しかし、その10分後には、俺は挫折していた。  (恋人探しの本ならあるんだがな……)  それは俺の探している本とは趣旨が離れている。今現在存在しない彼女を探しているのではなくて、存在している彼女を探しているのだから、そんな本は意味がなかった。  よくよく考えれば、俺が探しているような本の需要はとても低い。買うような奴がいないような本を、書く奴がいる訳がなかった。  (……大体、俺は本気で彼女を捜すつもりなのか?)  ふと、そう思う。  俺の側には美奈がいる。少し変わっているとは思うが、とてもいい子だと思う。顔も美人ではなくて可愛い系だが、良いか悪いかを問われれば9割の男が良いと答えるだろう。昔こそ虐められっ子だったが、今ならもし俺がいなければ、他の男子生徒が奪い合いをしていても別段おかしくも何ともないだろう。 そんな彼女がいてくれるのに、彼女を置いて見付かる可能性の非常に薄い昔の彼女を捜す旅に出ることなど、無意味なことに思えた。  しかし、そう考える意識と別のところにある意識が、それを強く否定しようとする。何不自由ない生活を捨てて、俺と一緒に旅に出た少女。あの時別れた少女は、俺と再会するために時の旅という道を選んだ。その彼女を見捨てることは、容易に出来ることではない……。  ふと気が付くと、少し隣で立ち読みをしていた大学生ぐらいの男が、不思議そうにこっちを見ていることに気がついた。どうやら、考え事をしていている間固まっていたのが変に見えたらしい。俺は知らず入っていた身体の力を抜くと、店内を見回す。  隣の男は、普通に戻った俺に興味を失ったようで、視線を手に持った本に戻していた。  「雄馬ぁー」  ちょうど俺の視線の後ろから、美奈の特徴のある声が聞こえてきた。俺だけでなく、さっきの男までがそちらを振り向く。  彼女は、雑誌を胸に抱えた、こちらへ『走って』来ていた。  (げっ! 美奈の場合走ると……)  その思考が終わらないうちに、早速美奈は何かにつまづいたかのようにバランスを崩した。その拍子に、抱えていた雑誌が宙に飛び散る。  その数、なんと3。  だが、まだ買ってもいない本を痛める訳には行かない。俺はこちらへ向かって飛んできた2冊を、本に皺を入れないように片手ずつ繰り出し、その背中を掴む。  問題は残る一冊だった。その本だけは、こちらではなく、さっきの男の向こう側に落ちかけていた。  (やむを得ん!)  俺はその時、人間外の速度で動いた。よろける美奈や男の横を素早いステップで抜け、右手に持った雑誌を脇に挟むと、既に膝元あたりにまで落ちていたそれを掬い上げた。もちろん、本が傷まないように背中を掴んでいる。  最後は美奈!  (あ……)  さすがに遅かったらしく、彼女は床とじゃれ合っていた。  「私の優先順位は、一番後ろぉ?」  恨めしそうな声をあげながら、彼女は起ち上がった。  「すまん。さすがに同時に3つまでが限度だ」  「うー」  不満そうな顔をこちら向ける。しかし、よく考えれば、非があるのはどう考えても彼女の方だった。  「店の中で走るなよな。だいたい、お前の場合、走るとすぐにこけるんだから、他の客に迷惑が掛かるだろう?」  「そうだね。ごめん、雄馬」  (まったく、何をそんなに慌ててくることがあるのやら……)  心の中で呟いたが、彼女がすぐさま素直に謝ったので、それ以上は言わないでおいた。ばらばらに持っていた3冊の雑誌を一纏めにし、美奈に返そうとした時、一番上に来ていた雑誌のタイトルが目に入る。  (ん、月刊チャンピオンサイド?)  ボクシング雑誌だった。もしやと思い、下に重ねた2冊のタイトルを確認すると、両方とも……3冊全てがボクシング雑誌だった。  「あっ、そうそう! 雄馬これ見て。この本に雄馬の事載っているよ!」  嬉々とした声を上げながら、3冊丸ごと俺の手からひったくる。あらかじめページを覚えいていたのだろう。一番上にあった分を開いて素早くページをめくり、目的のページを見つけ出すと俺の方へ向けて差し出した。アマチュアボクシングの記事で、そこには確かにヘッドギアとグローブを着けた俺の写真が。そしてその上には、『ミドル級の強豪を文字通り「粉砕」した西口雄馬、謎の引退』という見出し文字が躍っていた。  普通、ボクシング雑誌はプロが中心で、アマチュアは載っていても結果程度なのだが、俺の記事は大きく1面を使って特集されていた。  「ほらっ、ここにも載ってる」  次に美奈が開いた雑誌には、『インターハイ、ミドル級西口雄馬。真のパーフェクトレコードでリングを去る』。その次の分には、『怪物パンチャーの敵は人間ではない!? ミドル級の西口、すべてを破壊しそのまま消える』と書いてあった。  最後の見出しのノリはほとんどスポーツ新聞のそれだが、あながち外れていないような気がした。  実は、俺……西口雄馬にユーマリオンの意識が入り込んできた時、一緒に入り込んできたものがあった。それは、ユーマリオンの『力』。この世界の人間のものとは明らかに違う力を、俺は扱えるようになっていたのだ。その力を活かせるのは、俺……西口雄馬の身体的能力の限界までという制限付きだが、ユーマリオンのいた世界の人間は肉体の持っている能力を最大限に引き出す事に長けており、なおかつ元々俺自身が喧嘩で負け知らずという屈強な体躯の持ち主であったゆえに、無敵の存在と化していたのだ。  先ほど本を掴むときに使った動きも、その一環だった。  初め、ユーマリオンと意識を共にした時、この力を試したくなった俺は、通っている高校のボクシングに入部したのだ。当時2年生だった俺は、もとより裏番とか言われていたせいでタチの悪い部の先輩につかまり、入部当日にいきなりスパーリングをさせられたのだが、その時まだ加減をわかっていなかった俺は、その先輩の顎の骨を粉砕してしまったのである。もちろん、練習時の事故という事で処理されたが、それ以降俺が練習に出なくても誰も文句を言わなかった。  その時点で俺はここでの力試しが意味のない事とわかってしまったので、部を辞めてもよかったのだが、部員に怪我を負わせるだけ負わして、さっさと辞めてしまうのもなんだったので、そのまま部に在籍していたのだ。しかし、顧問に「それだけ強いのだったら、最後の大会ぐらい出てみたらどうだ」と言われ、それを聞いた美奈が強烈に後押しをしたので、止む無しに出たのである。  結果の方は雑誌に載っているとおりだった。やる気がなくても、簡単に大会を制することができるのだ。真のパーフェクトレコードは誇張ではなく、全ての試合を勝ったのはもちろんの事、軽いパンチでもポイントを稼げるアマチュアボクシングで、全ての試合で相手に一つのポイントも与えなかったのだ。それどころか、加減してもブロックした相手がリング中央からロープまで吹き飛ぶものだから、顔面を狙ってなど打てなかったぐらいなのである。だから、ブロックの上を狙ってひたすら打って、そのうち相手が棄権……または、レフェリーが試合を止めるのを待つしかなかった。  最後まで、そればかりだった。  もっとも最後までといっても、準決勝までだが……。  というのは、準決勝の相手というのが去年の大会を制覇し、連覇を狙う強豪だったのだが、何度吹っ飛ばされてもしつこく突っ込んでくるので、少しばかり余計に力を込めて肩口を打ったら、肩の骨が砕けてしまったのだ。その上リングの外にまで転げ落ちたそいつを見て、決勝のリングに上がるはずの相手が試合をする事を拒否したのである。だから、俺が試合をしたのは準決勝までたっだ。  しかし、その方が良かった。後で、他の選手も二人ほど、ブロックしていた腕にヒビが入っていたと聞いた。あのまま続けていたら、怪我程度では済まないようなことが起こっていたも知れない。それに、相手がグリードとは言わないまでも、そのかけらの実力の無いような連中ばかりとそれ以上戦ってもつまらないだけだった。たとえ、相手がプロ級……世界チャンピオンだったとしても、それは変わらなかっただろう。だから、大会が終わった後、周りが「オリンピックの金メダリストだ。いや、世界統一チャンピオンだ」と騒ぐ中、俺は取り囲んだ記者たちに、「もうボクシングはしない」と告げたのだ。  はっきり言うと、あんなことは何の自慢にもならなかった。子供を苛めて喜ぶ大人……俺はそんな人間ではないのだ。  ただ、美奈は喜んでいたが……。  そう言えば、美奈はなぜこれを持ってきたのだろうか? まさか……。  「凄いね、雄馬。こんだけいっぱい書いてあるよ。有名人じゃない」  もう一度開けたページに目を通す美奈。しばらく真剣に眺めていたが、それを閉じて纏めると、財布から五千円札を取り出し、それを雑誌の上に乗せる。  ……。  「はいっ」  そのまま笑顔で彼女はそれを差し出す。思わず受け取ろうとして、その手が止まった。  「……お前、これ全部買うつもりなのか?」  「うん! これを買いに来たんだよ」  「元に戻して来い」  そっけなく言い放った。  「えー、なんでー?」  「無駄遣いなんだよっ。別にこんなものに金使わなくても、他に欲しいものはあるだろう。それこそ服でも買ったほうが良いんじゃないのか?」  俺は呆れていた。やっと俺は、彼女が何を買うのかを隠していた理由が解ったのだ。美奈は俺があの大会の事にあまり触れて欲しくないことを知っている。もし、これを買いに行くって聞いていたら、俺は美奈については行かなかった。  「これ買うもん」  雑誌を差し出したまま、口を膨らます。まったく言うことを聞くそぶりがない。俺は小さく嘆息した。  俺の記事が載っているというだけで、普段読まないような雑誌を買おうとしてくれること自体は悪い気はしないのだが……。  「どうしても買うというのは解ったよ。それは解ったとして、その五千円札はなんだ?」  雑誌の上に乗ったそれだけは、理解できなかった。  「買うの恥ずかしいから、雄馬買ってきて」  片手をかざし、『ごめん』のポーズをとる。その拍子に、雑誌の上の新渡戸稲造が落ちそうになった。  「おい、ひょっとすると、それだけのために俺を連れてきたのか?」  「うん。だって、どう考えても女の子がまとめて買うような雑誌じゃないんだもん。雄馬は、女の子のファッション雑誌纏め買いなんてしないでしょ?」  あっさりと彼女は認めた。  (やれやれ……)  どうりで、一人で買いに行かないはずだ。満載堂ぐらいなら、彼女はよく一人で行くのである。わざわざ暑い中追いかけてきてまで、俺を連れて行くわけだ。  しかし、その割には立ち読みして中身を確認する事は恥ずかしくないようだ。その辺は、やはり美奈だった。  「わかったよ」  俺はお札と雑誌を受け取った。ここで拒否したところで、彼女は俺がOKするまで「買ってきて」と言い続けるのがわかっていたからだ。彼女の諦めの悪さは、カディズミーナのそれといい勝負だった。  「だがな美奈、これだけは言っておく」  真剣な表情で言う俺に反応して、彼女も可愛らしい笑顔を神妙なものへと切り替えた。  俺は階段の方を指差して言った。  「ここは、本が置いてある階で会計を済ませるんだよ」  「あ」  小さく美奈が声を上げる。俺の指差す階段……正確には、上階に上がる階段の2段目には、わかりやすい大きな字で『本は各階にあるレジで会計を済ませて下さい』と書かれている。  ……俺たちは雑誌コーナーのある3階へと上がって行った。  俺たちが去ろうとした時、後ろからさっきの男の呟く声が聞こえてくる。  「なんなんだ、今のは……。瞬間移動か?」  男には、俺の動きが見えなかったらしかった。それほど、俺の動きは人間離れしていた。  横で美奈が上機嫌な笑みを浮かべていた。本棚に顔を付けた、妙に可愛らしいイラストの描かれた満載堂の袋を胸に抱いて歩いている。今にも、鼻歌でも歌いだしそうな感じだった。  俺たちは本双から自分たちの住む野道町へと戻ってきていた。時刻は午後6時30分。あたりはだいぶ暗くなっていた。  俺は右手にスーパーの袋をぶら下げている。先程、晩飯のおかずを買うために寄っていたのだ。俺がスーパーに寄ると言った時、美奈が「私が作ろうか?」と申し出たのだが、断っていた。彼女には昨日作ってもらっている。彼女は気にしないだろうが、さすがに連日頼むのはこちらの気が引けた。まあ、米は出際に仕掛けておいたので家にある。この時間から何か作るのは面倒なので、おかずは既成のものを数点にしておいた。メインは美奈お勧めの『クリームコロッケ』である。5時に揚がったと書いてあったそれは、まだ温かかった。  「そんなにそれがうれしいか?」  それとは先程美奈が(俺が)買ったボクシング雑誌の事である。美奈はあれからずっと笑顔を崩さないでいた。  「うん。やっぱり、雄馬が活躍しているところが載っているんだもん。うれしいよ」  「そんなもんかなあ……」  「そんなもんだよ」  俺にとっては何の価値もないものだった。だから、そう言われても俺自身は全然美奈の気持ちがわからなかった。  いや、解ろうとしていないだけかも知れない。そう思い、逆パターンを想像してみる。彼女がスポーツ……例えば、陸上の短距離でインターハイに出場して、優勝したと言う記事が載っていたとしよう。それで、俺はその雑誌を買うかどうか?  (……買うかもな)  自分の知り合い。彼女と呼んでもおかしくない子が活躍したのだから、記念に買っておくのが普通だろう。この場合、インターハイを制するという偉業を達成しておきながら、その事実をどうでもいい事のように扱う俺の方がおかしかった。  だから、この話はこれ以上しない事にして、彼女の喜ぶ様だけを見ていた。  「香美子さん、本当に終電なのかなあ?」  笑みを消して、心配そうな顔に変わる。彼女は、商店街で母さんとあった時の言葉を思い出していた。  「週明け二日は10時に帰ってきていたけど、ここ二日は深夜だったみたいだな。寝ていたから何時だったかは知らないけど……。あの調子だと、今日も俺が起きている時間には帰ってきそうにないな」  母さんは少し無理している。母さんの給料がいいおかげで、別段うちの家の家計は苦しくなどない。それどころか、裕福な部類だった。だが、母さんはいつも帰りが遅い。生活がどうのこうのというより、頼まれたら断れない性格なのだろう。母さんには、昔からそういう不器用なところがあった。ただ、自分でもそれはよく解っているみたいだったし、そんな自分を嫌いではないようだ。だから、母さんが残業の事で文句を言っているのを聞いた事がなかった。  「身体大丈夫なのかなあ……。心配だよ」  母さんの信者である美奈は、うちの母さんの事を本気で心配してくれているようだった。  「……私、香美子さんの描くイラスト好きだよ。これなんか、可愛いじゃない」  胸に抱いた紙袋に描かれたイラストを、見やすいように腕の位置を下げこちらに向けた。  「あ? これ、母さんがデザインしたのか」  「知らなかったの?」  美奈は少し呆れているようだった。イラストなどそこらへんに溢れるほどにあるので、まったく気にしていなかったのだ。改めてよく見れば、間違いなく母さんの描く絵のタッチだった。  「確かにそうみたいだな。でも、よく知っていたな」  「うん。私のクラスメイトに満載堂で働いているお兄さんがいる子がいてね。前に気になったから、調べてもらっていたの」  なるほど、まめな奴だ。  「私も、香美子さんみたいに上手く絵が描けたらなあ……」  彼女は全く絵が描けない訳ではない。どちらかと言えば上手い方だと思うが、所詮素人の域。それで生活費を稼ぐ母さんとは根本が違った。  だが。  「教えてやろうか」  「えええーっ!? 雄馬、イラスト描けるのぉ!?」  俺が呟くと、美奈がドライアイスを水に放り込むような激しい反応をした。  そんなに驚くような事だろうか?  「母さんとまでは言わないけど、そこそこのレベルで描けるぞ。じっくり接する機会が少ないとはいえ、一応親子だからな。影響ぐらいは受けるよ」  産まれた時から絵を描く母さんと一緒に生活していたのだ。真似事をしようとしないわけがなかった。吸収の早い子供時代から本物の絵とよく触れ合っていたので、素人が遊びで描いているものよりは抜き出ている自信はあった。  ……そう言えば、美奈にはその事を教えた事はない。俺は自ら絵を描いて人に見せたりしないし、美奈といつも一緒にいるとはいえ、大概は彼女がネタを振って来てそれに俺が合わせるので、俺自身が何かを喋りだす事はほとんどなかったからだ。だから、俺は美奈の事を大体知っているが、美奈には俺の知らない部分がいくらか存在していた。  「へえー。だったら、雄馬に教えてもらおうかなあ? 香美子さんは忙しそうだし……。でも、雄馬って香美子さんと同じような絵を描くの?」  「いや……」  瞬間、俺が母さんの描く妙に可愛いイラストを一生懸命書いている姿を想像する。すると、汗が首筋を伝ったのを感じた。  不気味なことこの上ない……。  「もっと別だよ。コミカルなんじゃなくて、リアルに描くほうを得意にしているんだ」  それを聞いて、彼女は少しほっとした表情を作った。  「どうした?」  「いや、雄馬が机に向かってあんな絵を描いているのを想像したら、ちょっと怖いかなって……。あれ、怒らないの?」  言いながら、俺との距離を30センチ程開ける美奈。しかし、俺は意に介さなかった。  「別に」  ……俺も思ったから。  それを聞いたら、早速美奈は再び俺との距離を元に戻してきた。  「私、雄馬に教えてもらって、香美子さんの手伝いしようかな? そうしたら、香美子さん楽になると思うし……」  その言葉に、俺は片眉を吊り上げた。  「母さんの手伝いがしたかったら、専門学校に通った方がいいと思うな。あの人は半分独学とは言え、滅茶苦茶……それこそ寝る間を惜しんで勉強していたからな。きちんとしたものを描きたいんだったら、きちんとした教育を受けるべきだよ」  俺は確かにプロに匹敵するぐらいの絵が描ける。しかし、それは半分独学の母さんの技術を独学で盗んだものだ。だから、遊び程度のものならともかく、人に間違いなく基礎からきちんと教えれるかと問われれば、答えはノーなのである。  「そっか……」  彼女は少し俯き加減になって、考え込んでいるようだった。  しばらく二人は黙ったまま歩きつづける。そのうち、見慣れたT字路に差し掛かった。ここを左に曲がれば、美奈の家は一直線。俺の家はその奥にあるので、そこまでは一緒だった。  しかし、その角を曲がると、途端に異様な物が目についた。……いや、物ではなくて、者だ。それも、複数形である。  (なんだこいつら……)  スポーツウェア姿の一団。正確には、11人の男たちが、車2台がぎりぎりすれ違える程度の道を占拠していた。歳の方は全員俺たちと同じぐらい。全員が同じ姿というところから考えて、どこかの学校の運動部仲間というところだろう。  俺がたまに取り囲まれる、いわゆる不良の類とは明らかに違っているようだった。  その男たちの視線が、一様に俺たちに注がれている。俺たち以外の誰かを待っていたのではなく、間違いなく俺たちの出現を待っていた。  ……いや、訂正した方が良いだろう。俺たちではなく、ほぼ間違いなく俺だ。美奈とこの連中の接点を考えるよりかは、俺との接点を考えた方が圧倒的に早そうだった。  「待っとったで」  先頭で腕組みをしていた男が口を開いた。手櫛で終わらせているのか、あまり整っていない髪がなぜか妙に似合っている、野性味の強い顔立ちをした男だった。まだ一言しか喋っていないが、その言葉遣いやイントネーションは、間違いなく関西系のものだ。  「一応確認するが、西口雄馬……やな」  「そうだが、お前たちは一体何だ? はっきり言うと、通行の邪魔だぞ」  「おおっ、気付かんかった。お前ら、端に寄れ」  俺の台詞は無視されると思いきや、やけに素直に聞き入れる。その男は連中のリーダー格であるらしく、男の命令で全員が素早く端に寄った。  連中が道を開けたので、俺たちはその横を通り過ぎる。  「……って、ちょっと待たんかい!」  (ちっ、やはり無理か)  そのまま何ごともなかったのように通り過ぎるつもりだったのだが、その作戦は失敗に終わったらしい。  「何の用かは判らないが、用があるのは俺であって、こいつではないだろう? だったら、こいつは先に帰らせてやってくれないか?」  俺は美奈を指差しながら男に言った。この連中はそうにはあまり見えないが、性質の悪い連中だと美奈を人質に獲られたら非常にまずい。幸い、ここからだと美奈の家は近いので、彼女を先に帰すべきだった。  「なんや、お前の彼女かいな? 別に構わへんで。さっさと帰らしや」  男は組んだ腕を微妙に崩し、右手をひらひらと振り『早く行け』の仕草をした。俺も、美奈の背中を軽く押す。美奈は不安そうな表情だったが、俺が目で行くように合図すると、「解ったよ」と一言、家に向かって駆け出した。  ずてっ  (やっぱりこけたか)  走り出した瞬間こけるのではと思ったが、案の定だった。今日はいつもに増して彼女はこけている。横で目を丸くしている連中はともかく、俺の目は『日常一般的』な事と認識した。  だが……。  ごっ  あまり聞き慣れない鈍い音が耳に入った。  (……新しいパターンだな)  美奈は起き上がりながら走ろうとして、電柱に巻かれたあの、黄色と黒の目立つストライプに頭から突っ込んだのだ。前をまったく見ていなかったので、思いっきりぶつかっていた。  「うー。雄馬ぁ、痛いよぉー」  頭を押さえながらこちらへ戻ってきた。指の隙間から覗く額が赤くなっているが、その割にはこけた際の怪我は相変わらずどこにも見当たらない。案外、こけても怪我しないようにしているのは本当らしかった。  「西口……。そいつ、ここに置いていた方が安全なんとちゃうか? このまま一人で帰したら、交通事故でも起こされそうや」  「大丈夫だよー。撥ねられそうになった事は、5回ぐらいしかないから」  「美奈、そこにいろ」  すぐさまそう言い、男の方に向き直る。美奈は少し落ち込んだようだったが、気に留めないでおく。  「話……進めてもええか?」  「済まんな」  遠慮気味に聞いてきた男に対し、美奈が話の筋を変えてしまった事を謝る。男はこちらの聞く気に安心したのか、少し肩の力を抜いた。  「聞く気になってくれたみたいやな。ここまで来るの大変やったのに、家に行ったらおらへんわ、やっと見つけた思たら無視されそうになるわ、漫才みたいなもんまで見せられるわ……。ほんまかなんで」  突然愚痴りだした。さすがは関西系、話の通じなさそうな顔立ちでも、無駄に喋るのが好きなキャラクターらしい。  「いや、そんな事はどうでもいいわ。とりあえず、これが名刺代わりや。受け取れ!」  その男は後ろにいた練習の一人から何かを受け取ると、こちらに放り投げた。  「うきゃ!?」  後ろから美奈の奇妙な声が聞こえる。振り返ると、アマチュア用のボクシンググローブが、器用に美奈の頭に乗っかっていた。  「受け取れゆうたやろっ。何で避けんねん!? お前が避けるから、そっちに当たったやんか!」  そのグローブを手にとり、男に向き直る。後ろから、「結局ここにいても危険だよ……」とぼやく声はとりあえず無視しておいた。  「いや、普通物飛んできたら避けるだろ。危険物かもしれないし……」  「名刺代わりやゆうたやろ! 危ないって判っているような物投げるかいな! ……ああもうっ、話が進まんっ。とりあえず、グローブ見てくれへんか?」  男はかなり苛立っているようだった。これ以上何かボケをやると(天然なのだが)と切れかねないので、まじめに応答する事にし、グローブを見た。  (厚山高?)  グローブにはそういう名前が書かれていた。拳に白い部分のあるアマチュア用のグローブを持っているところから、どこかの高校のボクシング部だというのは想像がついたのだが、その名前にはなんとなしに見覚えがあった。確か、インターハイの時だったような気がするのだが、いまいち思い出し切れない。  判らないと言おうとした時、後ろから俺と同じようにグローブを覗き込んでいた美奈が口を開いた。  「厚山高校……。ああ、やっぱりだよ。雄馬、この人雄馬と同じインターハイのチャンピオンだよ。確か……」  「土山や。お前、よぉ知っとうな」  男……土山が美奈の言葉を継いだ。  「試合やっているの見ていたから……。それと、土山さんって確か双子でしょ? お兄さんの方が雄馬と準決勝で当たった……」  「ああ」  ぽんと俺は手を打つ。その拍子に、左手のビニール袋が大きく揺れた。  そういや、俺に肩の骨を砕かれた奴の高校が、確か厚山高校だった。双子で大会に参加していて、弟の方が俺の一つ下の階級で優勝していたはずだ。  「やっと判ったみたいやな」  やっとの事で合点のいった俺の表情に満足したのか、正式な自己紹介を始めた。  「俺は、インターハイでお前に負けた土山悟の双子の弟で、ライトミドル級優勝の土山慶秋(つちやま・けいしゅう)や」  ……。  俺は、名刺を投げ返した。  「何の真似や?」  受け取ったグローブを胸に、奴はどう反応したらいいのかわからないといった表情で呟いた。  「腹減ったから帰る」  それだけ言うと、土山と以下の連中同様目を丸くしていた美奈の腕を引いて、帰路を再び歩き出した。  「ちょっと待たんかいっ! 何で用件最後まで聞かんと帰ろうとするんや!」  「……いや、大体言いたい事は解ったから」  どうせ、「兄貴の敵討ちや!」とか言い出すのが目に見えていたので、聞きたくなかったのだが、遠路はるばるここまでやってきた土山が、あっさりと逃してくれるわけがない。  「聞いてあげた方がいいんじゃないの? なんか、放っていたらこのまま家までついてきそうだよ」  「そや、もっと言ってやってくれ」  確かに美奈の言う通りのような気がしてきた。俺は進行方向を変え、横の空き地に入って行く。美奈もカルガモの親についていく子ガモみたいに、ちょこちょこと後ろに続く。その空き地はごみ捨て場に使われていて、今日はたまたま粗大ゴミだったらしく、いろんなものが山積みされていた。  「しょうがない。こっちで聞いてやるよ」  狭い道に大人数構えていると、通行人が怯えて後戻りしてしまうかもしれない。振り返り土山たちを手招きすると、奴らもぞろぞろとやってきた。  「やっと聞く気になってくれたんか。助かるわ。電車賃も馬鹿にならへんからな」  土山は少し嬉しそうにしていた。  「まあ、大体言いたい事はわかっとるようやが、一応言わせて貰うわ。……兄貴とお前の試合なんやけど、俺は控え室にいたから、その試合見てへんねん。こいつらはお前の事化け物扱いするし、雑誌見ても連覇した俺よりも扱いが大きい。やけどな、直接やってみな納得できへんねん!」  そんな事だと思った。この顔は、聞いた話を素直に受け入れる顔じゃなかった。  「そやのに、雑誌見たら……お前、プロに入らんどころか、もうボクシングせえへん言うたらしいな。俺は、プロのリングでお前とやって、どっちが上か証明するつもりやったんや。しかし、それができへん。だから、遠路はるばるやって来たんや。……新田、用意させぇ」  新田と呼ばれた、土山とは対照的なボクシングにまったく向いてないような、年上の女に人気のありそうな美少年系の男は、土山の命じたとおりには動かなかった。  「慶さん。やっぱり止めた方がいいんじゃないですか? こんなストリートファイトみたいな真似」  「やかましいわっ! 喧嘩にしたくないから、お前ら連れてきたんやろが! 喧嘩やったら一人で来とるわっ!」  一喝されると、新田は首をすくめ、やれやれと言った感じで他の部員たちを動かし始めた。鞄の中からいろんな物を各々取り出す。特に目に付いたのが、数本のロープだった。  「まさか、ここにリングを作ろうとしているんじゃないだろうな?」  「正解や。ロープ支える奴に、レフェリー、ジャッジ、時計係、ビデオ係。これだけおったら、充分やろ? 人数揃えんのに苦労したんやで。試合は、公式戦と同じ2分3ラウンドや。グローブとヘッドギアは貸してやる」  雑そうに見えるが、やけに用意周到な奴だ。  だか、俺にはそれを受けるつもりは毛頭なかった。  「断る。こんなところで野試合をするつもりもないし、アマチュアのリングにもプロのリングにも上がるつもりはない。ボクシングはもうやらないんだよ」  つまらないからと言う言葉を繋げるのは止めておいた。俺だって得意な剣技……ユーマリオンの技を馬鹿にされると腹が立つ。別段、ボクシング自体がつまらないわけではなく、相手がいない事がつまらなかったのだ。この土山弟がどれぐらいの実力を持っているのかは判らないが、少なくともこの世界の人間に俺の相手が勤まるとは思えない。  だが、やはり土山は食い下がってきた。  「そんな事言わんといてや。お前ん家探して、ここまで来るのにも時間が掛かってんねん。それに、ここでお前に帰られたら、一緒に連れてきたこいつらと俺の立場はどうなんねん? 2ラウンドでもええからさ」  (ラウンド数負けるなよ。やれやれ……)  後ろ頭を掻いた。勝手に来ておいて、そんな事言われても困るのだが、ここで押し問答しても永遠に終わらない事だけは解った。  だから俺は、いつもと同じやり方で片をつける事にした。  「判った。ただし、条件付だ」  そう言うと、俺は粗大ごみの山へと歩いた。適当な物を見繕っていると、なぜか小型の金庫が置いてあるのが目に付く。  (これなんかいいかな?)  「美奈。これ、壊してもいいかな?」  主人になついた子犬よろしく、小走りに俺の元へ寄ってきた美奈に話し掛けた。  「捨ててある物だし、別にいいんじゃないかな? 鍵もついていないし」  よく見ると、確かに鍵がなかった。  「本当だ。中身が入っていたら、ラッキーだな……っと!」  無造作に拳を落とす。すると、叩いて壊れるはずのない金庫の上部が完全にへこむ。 その拍子に、扉が開いた。  「……やっぱり空か。入っていたら、捨てないよな」  「雄馬……。馬鹿力にも限度があるよ」  美奈が呆れた様子で呟く、後ろの連中が絶句しているのが、気配で解った。俺はその潰れた金庫を簡単に裏返すと、土山のほうに振り返り、こう言った。  「これと同じ事ができたら、勝負してやるよ」  これが、ユーマリオンの力を手に入れてからやっている、俺流の不良連中撃退法なのだ。根本から違う力の差を目の当たりにして、掛かってくる奴などいやしない。  「え? あ? おっ、おいっ、ちょっと待てや!」  そのまま美奈を連れて去ろうとする俺とその金庫を交互に見比べ、土山は焦った声を上げた。  「放っておいても良いの?」  「あいつには出来ないよ。それ以前に、やったりしないだろ」  普通の人間なら、まずそんな無謀な事をやる訳がなかった。  「でも、やろうとしているよ」  (え?)  首だけ後ろに回した美奈の言葉に、俺も思わず振り返った。  「やりゃあいいんだろやりゃあ! 西口待っとれよっ! お前よりへこまたるからな!」  言いながら拳を金庫に振り落とそうとしている土山を、新田を筆頭にした残りの連中が「慶さん、止めてください。拳潰します」とか「あれ、絶対人間業じゃないです。良い子は真似したら駄目です」と好き勝手言いながら必死で止めていた。  「……」  しばらくその光景を呆然と眺めていたが、見飽きたのでそのまま帰る事にする。しばらくして、後ろから苦悶の声が上がった。  ……結局、奴は兄同様骨折したらしかった。  (晩飯晩飯……)  家に帰るが、当然まだ母さんは帰ってきていなかった。真っ暗の家の電気を必要なだけ付けると、電話の留守番機能を確認する。別段、新しい録音は入っていないらしい。  それを確認すると、早速晩飯の用意を始めた。味噌汁は買い置きの即席をキャビネットから引き出し、お湯を注ぐ。だいぶ冷えていたコロッケを少し温めなおし、それをテーブルに並べ、後はレタスを少々ちぎって皿に盛ると、立派なおかずになった。副菜がないが、その分コロッケの量が多いのでなんとかなるだろう。  そして、茶碗にご飯を盛……。  「あれ?」  誰もいないのに、思わず声を上げてしまった。確か、家を出るときに炊飯器のタイマーを6時にセットしたはずだったのに、中はまだ水が張られた状態だった。  (?)  改めて「炊飯」ボタンを押す。しかし、作動中を示すランプはつくのだが、いくら待ったところで一向に炊き上がる様子はない。  (壊れたのか……。まあ、これもいい加減古いからな。ちぇ、初めから弁当にしておけばよかったよ)  結局外へ逆戻りして、コンビニまで買い出しに行く事になった。  ヒュン! ヒュン! ヒュン!  間断なく繰り出される俺の剣が、空気を引き裂く音を立てる。剣と言っても、俺が今持っているものは木刀だった。とはいえ、俺の剣技を持ってすれば、これで簡単に人を撲殺する事のできる『凶器』と化す……。  俺は今、家から歩いて5分ほどのところにある『立影神社』と言うところに足を運んでいた。別に唐突にここに来たわけではなく、1年半ほど前……正確には、俺とユーマリオンが一緒になった時から、雨や特別な用事がない限りいつもここに来ていた。  俺は一旦動きを止める。  (……こんなもんじゃない)  再び木刀を振いだした。  こんなものではなかった。俺……西口雄馬の体躯も日本人離れした立派なものだ。別にユーマリオンの力がなくても、ボクシングの日本タイトルぐらいなら充分取れただろう。しかし、ユーマリオンのそれとは比較にならない。体つき自体はあまり大差がないのだが、根本的な身体能力が違っていた。前から必死になってその力を取り戻そうとしていたのだが、この身体ではこれが限界らしい。  とはいえ、この世界でこの剣技は意味がない。まあ、俺の剣は見世物としても充分通じるだろうが、元々そんなもののために鍛えた腕ではないのだ。  だったら、何のために剣を振いつづけていいるのか? それは俺自身にも解らなかった。あえて言うなら、戦士の性とでも言うところだろう。  俺は無心で剣の舞を踊りつづけていた。  ……数分が経過しただろうか? 高台にあるこの境内への石段を駆け上がる音が聞こえてくる。半分ぐらい駆け上がったところで、その音の主はこけたようだった。しかし、すぐに復活して再び階段を駆け上がる。  今更説明するまでもないだろう。早速美奈の姿が確認できた。  「ああ。やっぱり雄馬ここだったよ」  開口一番、彼女はそう言った。  「さっき電話したのに、雄馬出なかったから、ひょっとしたらここかなと思って来てみたんだよ」  俺がいつもここに来ているのを知っているのは、彼女だけだった。半年前にたまたま俺が木刀を片手に歩いているところに彼女と出くわしたのである。以来、彼女はたまにここへ姿を現した。もっとも、「夜の神社は不気味だよ」と言って、用事でもない限り現れる事はなかったのだが、今も電話したといっていたので、何かあるのだろう。  しかし、家からここまで走って来たのだろうか? 少し荒くなった息を整えながら彼女は喋っている。俺が踏みつけた性で崩れたポニーテールは、今日は諦めたらしく、さっき別れた時と同じストレートのままだった。  ちなみに彼女を観察している間も、俺は木刀を振いつづけている。彼女は俺の後ろに回ると、神殿内部へと上がる石段に腰をかけた。  「何しに来たんだ? こんな夜中を一人出歩いていると危ないぞ」  木刀を振るいながら、美奈の方は見ずに言う。外灯と月明かりに照らされた、光沢のある刀身が闇を幾度となく切り裂く。  「歩いてないよ。走ってきたから、汗かいちゃった」  (そういう問題ではないのだが……)  瞬間彼女に目をやると、彼女は大して効果のない手団扇を扇いでいた。  しばらくの間沈黙が続く。声がないと、この空間は木刀が空気を裂く音に支配されて行く。俺が上半身のみの動きから下半身を使った、より実践的な動きに切り替えると、地を蹴る音がそれにプラスされ、ハーモニーを奏で始める。  美奈は、そんな俺をじっと眺め続けていた。  「綺麗だね。いつまで見ていても飽きないよ……」  ぽつりと呟いた。彼女は知らない。俺のこの剣が見せるためのものでも、ましてやスポーツとしてやっているのでもない事を。  ……知れば、彼女は俺を避けるだろうか?  そんな事を考えていると、リズムが狂ってしまった。直そうとするが、一旦狂った歯車は一旦止めないと戻らない。  「何か用事があって、電話したのじゃなかったのか?」  俺は動きを止め、美奈を横目で見た。唐突に剣舞を止めてしまった事に、彼女は少し驚いたようだった。  「ごめん……、邪魔したかなぁ?」  「いや、そんな事はない」  瞳に不安の色が浮かぶ。俺は取り繕うかのように、もう一度剣先を走らせ始めた。  「大した用事じゃなかったんだよ。進路の事で、雄馬、どう考えているのかなぁって……」  遠慮気味な声である。  「進路か」  動きは止めないものの、すぐさま返事を返した俺に彼女は少し安心したようだった。  季節は9月。俺たち3年生は、そろそろはっきりした進路を決めるべきなのだ。  「雄馬は、どこの大学だったっけ?」  そう問いてきた。確かに、だいぶ前に彼女に大学志望と言った記憶がある。その事を覚えていた上での発言だったのだろう。  しかし、俺はその質問自体を否定した。  「いや、大学じゃなくて……俺、就職を考えているんだ」  「え?」  まったく予期してなかったのだろう。元々丸い目が更に見開かれた。  「何で? 就職試験もう目の前だよ? 今ごろ替えても間に合わないよ」  「就職試験の開始日が目の前ってだけだ。試験自体はそれ以降でも受けつけているところはあるよ」  「でも、何で突然……」  そこで言葉を切って、彼女は俺から視線を外し、何かを考え出した。  「……ひょっとすると、香美子さんのため?」  すぐに、その答えへとたどり着いた。  「ああ……」  先程も述べたかもしれないが、別段うちの家は貧乏という訳ではない。母さんの稼ぎは、並みの同年代の男性と遜色ないかそれ以上だ。しかし、最近の母さんの仕事ぶりを見ていると、俺も働いてその負担を減らしてやろうと思うようになった。俺が働けば、母さんは無理して今の会社にいる必要はない。俺が安定した収入を得れるようになれば、母さんにはもっと楽な仕事に移ってもらうつもりだった。  もっとも、俺には別の進路もあった。美奈に言わなかったもう一つの進路……カディズミーナを捜す旅に出ると言う進路。今の俺は、その事に迷っていた。  「そっか。いい考えだと思うよ」  その一言を言う瞬間だけ、彼女はいつもの無邪気そうな笑顔ではなく、母さんのような穏やかな笑みを見せた。  「雄馬は就職組かー。だったら、私も就職組に切り替えようかな?」  「なんでだ? お前は頭が良いんだから、大学に行けよ。その方が、いろんな発見があるって」  「……雄馬がいないよ」  つまらなさそうにぼそりと言う。  「雄馬が大学行かないって言うんだったら、私も行かないよ。雄馬と同じ会社の就職試験受けて、一緒に仕事する」  それはただの我侭だった。自分の将来……それも10年以上先の自分のために決めるのが進路だ。  今彼女が言ったのは、俺には目先の幸せだけを見た台詞に聞こえた。  「よく考えろ。お前にもやりたい事の一つや二つあるだろう? それに、このご時世に同じ高校から何人も人を雇い入れるような企業が、たくさんあるとは思えないぞ」  美奈は黙ってこちらを見ている。  俺は更に言葉を続けた。  「お前、さっき俺の母さんの手伝いをしたいとか言ってなかったか? だったら、さっきも言った通り専門学校の道を選ぶべきだよ。だいたい、お前には夢はないのか? もし、夢があるのだったら、それに向かって道を歩むのが筋なんじゃないか?」  「……私の夢は、昔から一つしかないよ」  やや間を置いてからぼそりと、しかしはっきり聞こえる声で彼女は言う。それを言うときに先程と同じ、普段の幼い雰囲気ではないとても大人びた表情になった。  しかし、俺はその言葉に答えないでいた。聞こえないふりをして、そのまま剣を振いつづける。だが、そのリズムが再び微妙にずれている事に、剣に関しては素人の美奈が気付くわけもない。  しばらくの間、狂った秒針が時を刻む。  その沈黙を破ったのは、やはり美奈のほうだった。  「私は、雄馬と一緒にいれたらそれで良いんだよ。雄馬が大学に行くって言うんだったら、私も同じ大学に行く。雄馬が働くって言うんだったら、私も同じ会社に行くよ。それが無理だったら……」  そこで彼女は一呼吸置く。意識していたのかそうでないナチュラルだったのかは解らない。しかし、彼女がその続きを……告白とも取れそうなその一言を言うとことを逡巡しなかったことは間違いなかった。  「他にも、雄馬と一緒にいる時間を増やす方法はあるから」  ビュン!  最後の一振りだけ、普段の流れるような剣捌きではなく、ただ単に力任せに振るった。迷いを断ち切るような振り。しかし、そんなものでそれは消えたりしない。  俺は完全に動きを止める。美奈の方を見ずに、剣先を力なく下げ俯いたまま、俺は暫くの間黙ったままでいた。  「悪いけど、俺帰るわ」  やっとのことで出てきたのは、この場からの『逃げ』を意味するものだった。  「え? あ、うん……」  いきなりそんな行動に出るとはまったく予期していなかったのだろう。あからさま唐突に会話を切り、そのまま帰ろうとした俺に彼女は慌てて寄ってきた。  「ごめん、やっぱり邪魔してたみたいだね」  横に並び俺の顔を覗き込んだその瞳は、まるでいなくなった母親を捜す迷子の子供のようで、糸が切れるとそのまま泣き出しそうな感じに見えなくもない。  しかし、俺の方にもしっかりフォローできるだけの余裕を、今現在持ち合わせていなかった。  「気にするな。元々もう少しで帰るつもりだったんだ」  「うん……」  石段を下りながら彼女に伝えたのはただそれだけ。だが、それでも美奈を少し安心させる事は出来たらしかった。  「ごめんね、雄馬。それじゃあ」  石段を下り切ったところで、美奈は改めてこちらに向き、もう一度謝ると自分の家の方へと走り去る。  去り際に彼女が見せた笑顔は、なんとなしに寂しげに見えた。俺の心境がそういう風に見せたのか、実際そういう表情を彼女がしていたのか、判別する事は出来ない。  本来なら、家まで送ってやるべきなのだが、それを言い出す事すら忘れていた。  俺は彼女が角を曲がりその姿を消すまで、じっとその後姿を見つめ、消えた事を確認すると180度向きを変え歩み始める。その歩む速度が、いつもよりも僅かながらに遅い。  (すまん、美奈……)  本人は目の前にいない。声にすら出さない。だけど、俺は彼女に謝った。  本当は嬉かったのだ。ずっと傍にいて欲しいという願いが、俺だけものではない事が言葉という形ではっきりしたのだから、嬉しくない訳がなかった。もう一人、傍にいて欲しい少女の記憶。それがなければ、こんな憂鬱な気持ちになりはしないのに……。  俺を想っている二人の少女。そんな彼女たちを想う俺の気持ちは、ずっと五分のままだ。  だが、今日のようにはぐらかし続けるわけには行かない。決めないまま時を過ごすのは、美奈にとっても、カディズミーナにとっても、何より俺にとってよくない事であった。  決めるべき時が、刻一刻と近づいているようだった。  (なあ、カディズミーナ。お前だったら、どうする? 同じような状況に陥ったら……)  俺は、どこにいるのか見当もつかないもう一人の恋人に、問わずにいられなかった。  時刻は9時過ぎ。予告どおり、まだ母さんは帰っていなかった。流した汗を風呂で流すと、テレビを付け何気なしに洋画を見る。見終わると11時を回ったが、それでも母さんが帰ってくる様子はない。  明日は休みなので、別段夜更かしをしてもよかったのだが、別に新聞を見てもこれ以上面白そうなテレビもないし、ゲームはこの前やっていた分を終わらせたばかりで、もうやりたいものも残っていない。  当然、勉強するつもりなど毛頭なかった。  (寝るか……)  暇つぶしのネタを考えた方が良さそうだなと思いつつ、余分な電気を消していった。ふと、電気類の確認をしている際に、壊れて米が炊けなくなった炊飯器が目に入った。  (金があれば、俺が買いに行くんだけどな)  母さんは明日も出勤するかもしれないと言っていた。もしそうなれば、明日の朝も顔を合わせる事はないだろう。  俺は水屋の引出しからメモ用紙を取り出すと、『水飯器が壊れています。金さえあれば買ってきます。』とだけ、ボールペンを走らせテーブルの上に置いておいた。  (今日はいろんな事があったな……)  ベッドに横になり、俺は今日という一日を思い出しながら眠りにつこうとした。  ……実際にあった過去を思い出す事は、忘れでもしない限り誰にでもできる事だ。しかし、これから起こる未来を完全に予測する事は、誰にも出来などしない。  明日は明日の風が吹くという諺がある。本来は『なるようになる』という意味のものだが、一寸先は闇と同意に捉えている人も少なからずいる。  もし、それをそう捉えるのであれば、俺の明日は船をも沈める嵐だった。  美奈の思いがけない言葉に悩む雄馬。一体、彼はどうするのだろうか?  次章、そんな彼らの前に、不思議な少女が現れます。彼女の正体はなんなのか?  タイトルは『金色を纏った少女』です。  お楽しみに。