※第2章 いつも近くにいる存在※  「暑い……」  9月も半ばだと言うのに、西に傾いた太陽は容赦なく照りつづけていた。ズボンのポケットからハンカチを取り出すと、それで額の汗を拭う。しかし、その数秒後には新たな汗が額を濡らしはじめる。  金曜の放課後。夕日が見られるのはまだもう少し先の時刻か。  俺はどこにも寄らないまま、自宅への路次を歩んでいた。  俺の名前は西口雄馬(にしぐち・ゆうま)。家から歩いて15分の高校に通う3年生だ。外見的な特徴は俺的にはこれといってない。あえて言うならば、身長が182センチと他人に比べて高めなのと、普段頭に巻いているバンダナ。もっともこれは校則で禁止されているので、今は着けていない。クラスメイトの女の子に言わせると「目つきがちょっと悪いけど格好いい」らしいが、同時に「とっつきにくそうな雰囲気を持っている」そうだ。なので、男女に関わらず友達は少なかった。  外見的なことに関しては普通だとは思う。だが、内面的なことに関しては人と大きく違うところがあった。  以前はごく普通の人間だった。まあ、目つきが悪いのと喧嘩が強いのが災いしてガラの悪い連中によく絡まれ、その都度その連中を全員倒してしまうので、校内で裏の番長などと呼ばれているのが普通かどうかは別として、それは明らかに普通と違うものだった。  今、俺の意識は、別の意思を持った意識と『共生』しているのだ。  その別の意識……ユーマリオンという名の意識だけの存在と俺が一緒になったのは、1年半ぐらい前、ちょうど俺が高校2年になって間無しのことである。  始めは夢。その夢の中で彼は旅の剣士だった。彼のいたところはこの地球上ではなく、この世界中の誰もがまだ見つけていない異世界。剣士として凄腕だった彼は、この世界では空想上のものでしかない、魔法を使いこなす恋人の少女と共に旅をしていた。だが、一体の人間外の力を有する一体の魔族を追ってこの世界に来た際に、魔族の力によって恋人と離れ離れになってしまう。恋人……カディズミーナを探している間に病に倒れたユーマリオンは、カディズミーナが作った出来そこないの転生の薬を服んだ。恐らく同じ薬を飲んだであろう彼女と転生した姿で再会することを願って……。  始めはただの夢だと思っていた。しかし、夢では見ていない記憶が徐々に蘇る。ユーマリオン自身の記憶、転生を繰り返してきた際の記憶……。転生後の記憶は、薬の効果が不完全だったのか、断片的にしか覚えていない。しかし、ユーマリオンの記憶はほとんど完全に思い出している。今では、俺……西口雄馬とユーマリオンの意識が同居しているのではなく、適度に意識が融合しているような感じになっていた。少し難しいが、西口雄馬+ユーマリオン=新しい人格とでも言うべきか。多重人格になったわけではなく、あくまでも一つの人格になっていた。まあ、もとより俺とユーマリオンの性格が比較的似ていたこともあって、生活上たいした支障はないのだが、やはり困ったことはあった。  それは、ユーマリオンの目的のことだった。  ユーマリオンの目的……。元々この世界の住民ですらない彼。その彼が魂だけの存在となってまでしてこの世界に永く留まり続け、果たそうとした目的は一つしかない。それは、先程述べた通り離れ離れになり、同じく魂だけの存在となっているはずの恋人カディズミーナを探し出すこと。  しかし、彼女を捜しだす旅に出ることに対し、俺は悩み続け悪戯に時を過ごしていた。  俺の悩みの種。それは……  「雄馬ぁー」  後ろから駆けてくる音と同時に聞こえる声。この、一度聞いたらまず忘れることの出来ない、アニメ番組から聞こえてきそうな声は、俺の良く知っている彼女のものだった。  だんだんと駆ける音が近づいてくる。その音が俺の真横にくるぐらいのところで、  ずしゃあっ!  彼女は『いつものように』まともに転んだ。派手な音がしたが、一秒ほど地面に突っ伏した後、何事もなかったかのようにすっと起ち上がる。音の割にはどういうわけかほつれの一つもない制服の埃を素早く払い、同じく顔面から地面に突っ込んだ割にはかすり傷一つない笑顔をこちらへ向けた。  日本人特有の黒髪。長く伸ばしたその髪を後ろでまとめて括り、馬の尻尾のようにたらした、いわゆるポニーテールのこの少女の名は、南波美奈(みなみなみ・みな)という。この、ひらがな表記にすれば、全てが「み」と「な」だけで構成されているのがよく判るふざけた名前の彼女は、俺と同じ高校に通う3年生で、昔から知った仲……幼なじみという奴だった。小学3年生の時に初めて会ったので、もう10年来の付き合いになる。彼女の方が半年ほど『年上』なのだが、彼女は言行と外見が幼っぽいので、傍目に見ればどう見ても俺の方が年上だった。  彼女との関係は、友達か恋人かと問われたならば、恋人と答えるのが正しいだろうか。お互いそれを確認したことはないが、少なくとも俺は彼女をただの友達と認識してはいなかった。彼女はいつも行動が俺優先になっている。もし俺のことをただの友達と思っているのならば、女友達をおいて常に俺のそばにはいないだろう。  彼女が、今の俺……西口雄馬=ユーマリオンの悩みの種だった。適度に融合しているはずの意識が食い違ったまま残っていた部分、それは、最も重要な部分と言えた。  これが、俺がカディズミーナを捜す旅に出れずにいた理由だった。  (まったく、不都合な薬だな。融合する相手を選べるように作れなったのか?)  瞬間そう考えたが、それよりも、普通の「転生の秘薬」を作るほうが簡単そうに思えた。元より、副産物の未完成品だということを解って服んだのだから、文句を言うこと自体が間違いだろう。  「うー、雄馬。真横でこけられたら、普通もうちょっとなんかリアクションしない? 心配して声を掛けるとか」  何も言わずにただ相手の顔を見つめていたので、焦れてしまったらしい。先に美奈が話し掛けてきた。  「見飽きた」  「にべもないよ〜」  ぶーたれる美奈。しかし、見飽きたというのは本当の話。彼女は昔から、駆け足になるとなぜかよく転んだ。始めは転ぶ度に泣いていたのだが、最近はこけ慣れているようだ。ついさっきの出来事を見ていなければ、今彼女がこけたと言う事に気付くものはいないだろう。  (まあ、高3にもなってこけたぐらいで横で泣かれでもしたら困りものだが)  これで、運動会とかで走るとほぼ一着になるのだから、よく判らない。陸上部から何度か誘いがあったようだが「私ドジだから、大会でこけるちゃうかもしれない」といって、その都度断っていた。ただ、彼女が何か運動している時にこけるのは見たことがない。では、なぜ日常生活で見飽きるほどにこけるのか……。  やはり、よく判らなかった。  「そういえば、委員会はどうした。今日はそれで遅くなるんじゃなかったのか?」  彼女の入っている委員会というのは美化委員会で、週に2回、放課後に校内の掃除……主に普段生徒がする個所以外のところを掃除すると言うものだった。掃除好きの彼女は、自ら進んで高校三年間、ずっとこの委員会に入っている。今日は彼女の担当日だったはずだ。  「うん、3組の谷崎さんがこの間休んでいた時に代わりに出ていたんだけど。谷崎さん、その埋め合わせで今日掃除するからって。それで急になくなっちゃったの」  そういえば数日前、放課後彼女がいなかったことがあった。恐らくその時のことだろう。もとより別段常に一緒に帰る約束をしているわけではない。クラスが違うので放課後軽く彼女を捜して、見つからなければ一人で帰っていた。だから、その時いなかった訳を聞いてはいなかった。  「雄馬、帰った後だったみたいだから、一人で帰ろうとしたら、雄馬の姿が見えたから、走ってきたんだよ」  学校から俺たちの自宅へは、かなりの距離の直線が続く。遠目に先に下校していた俺の姿が見えてもおかしくはなかった。ましてや俺は180を超える長身。見分けのつきにくい制服姿とはいえ、付き合いの長い彼女ならかなりの距離があっても俺とわかるだろうが……。  「別にこのくそ暑い中、わざわざ走ってこなくてもいいんじゃないか?」  さすがに陸上部にスカウトされるだけはある。どのぐらいの距離を走ったのかは判らないが、息は上がっていないようだ。だが、歩いているだけでも噴き出す汗は、やはり俺の倍は出ている。  俺はポケットから財布を出すと、ちょうど横手にあった自動販売機に小銭を入れた。  「ほら、好きなもの買えよ」  「え? ありがとー」  少しの間迷っていたらしいが、しばらくして彼女は自動販売機のボタンを押す。  (何故めろんお〜れ……)  彼女の選んだジュースは、名前からして甘ったるそうな、とても汗をかいた後に飲むような物ではなかった。  「これ、案外美味しいんだよ」  「そうか……」  彼女は手に取ったジュース缶を頬に当てて、その冷たさを楽しむ。そして缶の蓋をあけると、それに口を当てそのまま歩き出した。  「あのね、追いかけてきたのは、ちょっと一緒に行きたいところがあったから。それで追いかけてきたの」  先程の質問に、彼女は答えだした。  「無理に追いかけてこなくても、電話すればいいじゃないか」  「家にいるとは限らないでしょ」  「……それもそうだな」  一理あった。いまどき高校生でも携帯電話を持っているのが常識だが、俺と美奈はなぜか持っていなかった。だから、家にいないとお互いの連絡方法は学校以外にはない。恐らくその学校で言いそびれたか、今さっき思いついたかのどちらかだった。  「で、どこに行くんだよ」  「本屋。本双の満載堂だよ」  「満載堂? 駅前の本屋じゃあ駄目なのか」  本双というのは隣の駅名。満載堂はその駅前商店街にある大型書店の名だ。俺たちの住んでいる町も本屋ぐらいはある。しかし、そこでは用が足せないらしい。  「何の本探しているんだよ」  「ないしょー」  「はあ? 内緒にするような買い物に付き合えっていうのか?」  「うん。いいでしょ」  屈託のない笑みをこちらへ向ける。俺自身欲しい本はないし、はっきり言って美奈が何を考えているのかよく判らなかったのだが、こちらも家に帰ったところで暇なので付き合うことにした。  「別にいいが」  「やった♪」  すぐさま明るい声が返ってきた。手に持ったジュース缶は、既に資源ごみへと変貌しているらしく、喜び様手を大きく振っても中身がこぼれなかった。  そんなことを喋っている間に、ちょうど分かれ道に来た。このトの字路を正面に行けば、俺の住むアパートへ、右に曲がれば美奈の家だ。必然的に、彼女と別れることになる。  「それじゃあ雄馬、後でね」  「ああ、しばらくしてからお前の家に行くから」  最寄の駅である大野道駅は美奈の家の方向と同じこの右手にある。だから、二人で電車に乗るときは、俺が彼女の家に迎えに行くことが暗黙の了解となっていた。  「わかったよ」  そういうと、自分の家に向かって駆け出した。暑い中元気な奴である。  (だが……)  俺は心の中で呟く。次の瞬間、彼女は盛大にこけていた。  (あのこけ癖だけは、なんとかならんのか)  ため息をつくのも馬鹿らしかった。  俺は古いアパートの階段を上る。もう20年近く昇降していた階段だ。段数がいくらあるかぐらい、とうの昔に覚えていた。  階段を上りきる。俺の住む部屋は、階段から4つ目にある。その扉には、当然鍵が掛かっていた。何故当然かというと、この時間に母さんが帰っていることはまずないからだ。  鍵を外し中に入るが、やはり人気はなかった。朝、俺が登校する前の状態そのままで残っている。  俺は鞄を自分の部屋まで持っていき、それをベッドの脇に置いた。制服から私服へと着替え、お気に入りの紺のバンダナをつける。そして、自分の部屋を出ると今度は台所へと向かった。  「ん?」  台所の脇にある電話機を見ると、留守録機能が働いているらしく、それを知らせるランプが点滅している。  再生ボタンを押すと、すぐにテープに入った母さんの声が聞こえてきた。  『雄馬〜。母さん、今日も遅くなるから、ご飯は一人で用意してね〜。私は食べて帰ってくるから。お願いね〜』  相変わらず、妙にのんびりした声である。そして内容も、相変わらずのものだった。  (また残業かよ……)  俺は軽く嘆息した。  俺は母親との二人暮しの、いわゆる母子家庭で育った。父親は、俺が生まれる少し前に事故死したらしい。当時二十歳だった母さんは、俺を育てパートで生活費を稼ぎながら、元々趣味で書いていたイラストの本格的な勉強を始め、それを各所で売り込んだ。デザイン系の学校に行っていたことがあるとはいえ、それを中退して結婚した母さんは、その中途半端な学歴が邪魔してかなり苦労していたようだ。しかし、その努力は徐々に認められ、俺が小学校高学年になる頃には、結構業界で名前が知られるようになっていた。  しかし、母さんが頑張れば頑張るほど、親子の時間は失われていった。俺は、生まれてこの方、ろくに母さんと同じ時を過ごした事がない。クラスメートが、「昨日遊園地に行った」とか言っているのを、横で寂しく聞いていたのが俺の幼少時代だった。無論、運動会にも、授業参観にもその姿を現した事はなかった。  ふと、電話機の横に立ててある写真立てを見やる。その写真立てには、幼い俺を抱きかかえる母の写真が入っていた。俺と母が一緒に写っている写真は、実はこれだけだった。  しかし、それを恨んだ事は一度たりともない。幼いながらにも家の事情を理解していたし、何より、俺には母の代わりに、いつも隣にいてくれる美奈の存在があったからだ。だから、俺は自分の境遇を苦にしていなかった。  いま母さんは、その実績を認めたとある印刷会社が、専属のイラストレーターとして招聘したのを受け、その会社に勤務している。招聘しただけあって、かなりの高額で雇い入れてくれているそうだが、その代わり帰ってくるのはいつも遅かった。  (身体を壊さなければいいんだけどな)  俺はそこで写真から視線を外す。流し台の方へ歩み寄ると、その横にある米びつから米を取り出し、おもむろに洗い始めた。洗い終えると、それを器ごと炊飯器に入れ、タイマーを6時に炊き上がるようにセットする。それを終えると、俺は再び玄関の扉を開け、今度は外へ出た。  あれから大した時間は経っていない。よって、外はまだまだ暑いままだ。  鍵を閉めると、ところどころ錆の浮かんだ鉄製の階段を下りる。ここから美奈の家は3分程度である。すぐさま彼女の家に到着した。  彼女の家は2階建ての一軒家。門から玄関まで約3メートル程の距離があり、そこまでは庭スペースとなっている。その庭には石が敷き詰められていて、玄関から門までの間だけコンクリで固められて歩きやすくなっていた。  俺はインターホンのチャイムを鳴らす。  「あ、雄馬」  声が聞こえたのはインターホンからではなく、2階からだった。見れば、2階にある彼女の部屋の窓が開いていて、そこから美奈が顔を覗かせている。  「ちょっと待ってね、すぐに下りるから」  ひょいと窓から顔が消えると、すぐさま窓が閉められる。中から、階段を駆け下りる音が聞こえてきた。  (階段を転げ落ちたりしないだろうな)  心配したが、それはなかったらしい。玄関引戸の半透明なガラスの向こうに、美奈の姿とおぼしきものが映る。恐らく靴を履いていたのだろう。程なく扉が開いた。  涼しそうな夏の格好に着替えた彼女は、  ずてっ  門に向かう途中で、見事にこけた。  (そこでこけたか……)  肌の露出部分が比較的多い上に、薄手の服のを身に纏っている割には、起き上がった彼女のどこを見ても擦り傷一つなかった。  「よくそれだけこけて怪我しないものだな」  今日で既に3回目だ。これだけこけているのに、身体中のどこを見ても彼女に怪我をした個所は見うけられない。あからさまに不自然だった。  「うん。あまりにもよくこけるから、こけても怪我しないように努力したんだよ」  「最近は、服も傷めないようにしているんだよ」と彼女は付け加えた。  (絶対何か、根本的なことを間違えているぞ……)  呆れた顔で見つめる俺に対し、彼女の笑顔は「私は正しい」と言わんばかりだった。  俺と美奈は大野道駅に向かって歩き出していた。駅までは10分少々。その間、世間話で盛り上がる。盛り上がると言っても、喋っているのは大体が彼女だった。俺と彼女はクラスが違う。だから、自分のクラスであった出来事が会話の中心だった。  彼女は外見上、同級生の子と比べて多少幼く見える。さらに、妙にかわいらしい声。そのためか、あまり成績優秀そうには見られないらしい。だが、それは大きな間違いで、俺は彼女のテストの成績が二ケタ台に落ちたのを見たことがなかった。俺も結構頭は良くて、常に50番程度の位置にはいるのだが、彼女にはまったく敵わない。  もし、敵うことがあるとすれば、それは英語ぐらいだろう。ユーマリオンが転生(?)を続けていた際の記憶は、薬が未完成だった影響でほとんどが失われている。しかし、その間のほとんどが英語圏での生活だったので、英語だけは日本語を使うかのように扱えた。最近は、この知識を使って美奈を出し抜くのが、俺のちょっとした楽しみだった。  (勉強もしていないのだから反則なんだけどな。まあ、勝手に俺の思考と同居しているんだから、特典の一つや二つあっても良いだろう)  美奈の話を聞きながら、そんなことを考えていた。  ……俺たちさらに歩を進める。大野道駅はあともう少し。横では、美奈が「相手が一人の独演会」を飽きることなく続けていた。  「……そんでね、河北先生がチョークを投げたの。でも、先生コントロール悪いから、前の三島君の席でバウンドして、そのまま三島君の鼻の穴に入っちゃったのよ。それでクラス中大ウケ……って、あれ?」  その喋りが、唐突に止まった。彼女を見れば、視線が一点に注がれている。彼女が見る方向には、俺たちも昔何度か遊んだ事のある小さな公園があるのだが、その時になって初めて、小さな女の子が泣く声が俺の耳に入ってきた。  その声の主は、ブランコの近くにいる女の子だった。小学校の低学年……1年か2年ってところだろう。その周りには3人。同じような年恰好の女の子二人に、男の子が一人いた。頭にリボンをつけている女の子がビニール製のボールを持っているところから察するに、4人でボール遊びをしていたらしい。まあ、単純な推理だが、恐らくボールがもろに顔面に当たったのだろう。泣きつづける女の子の頭を、男の子がずっと撫でていた。  「優しいね、あの子」  美奈は立ち止まってその様子を眺めていた。普段の彼女なら、そちらへ駆け寄って女の子を慰めただろう。美奈とはそういう奴だった。しかし、今日はその様子を眺めているだけである。  その理由はすぐにわかった。男の子が何か2、3言いうと、次第に泣き声が治まってきた。彼女は、自分に出番がないことを瞬時に悟っていたのだ。彼女は安心したのか、完全に女の子が泣き止むのを確認する前に再び歩き出す。俺も、それについていった。  「ふふふ。昔の雄馬みたいだよ、あの子」  「俺が優しいってことか? 冗談だろう」  ご機嫌取りかと思って軽くあしらうが……、  「冗談なんかじゃないよっ!」  美奈は突然語気を強めた。駅から出てきたのだろう、別の高校の生徒とおぼしき3人の女の子グループが一斉にこちらを向く。それに気付いた美奈が、顔を赤らめて俯いた。  しばらく二人は無言で歩いていた。  「ねえ、雄馬。私と初めて会った時のこと、覚えている?」  30秒ほど間が空いただろうか? 再び美奈が口を開く。  「忘れると思ったか? あんなインパクトのある日のこと」  「だよね」  一拍あけて、彼女は最高の微笑を見せ、言葉を繋げた。  「私はね。あの時、雄馬が助けてくれなかったら、今の私はいないと思っているよ」  「助けたつもりはないぞ。『みなみなみなみな』やかましかったから、やめさせただけだ」  「素直じゃないよ……」  途端にふてくされた表情になる。しかし、それは演技で、すぐに微笑を表情に戻した。昔を思い出しているのか、その表情のまま前を向いて歩いていた。  俺も昔を思い出していた。彼女と出会ったあの日の事を。  ……美奈と俺が出会ったのは、小学校3年生の2学期が始まった日だった。転校生として先生に紹介された彼女は、その珍妙な名前でいきなりクラスの笑い者になった。中学ぐらいなら「変な名前だな」程度で済んだであろうが、小学生はこういうものを虐めの対象にするから性質が悪い。二時限終了の休み時間には2人の生徒がからかい始め、三時限終了時には3人に増え、昼休みには耳を塞ぐ美奈の周りを5人の男子生徒が囲んでひたすら『みなみなみなみな』と連呼していた。そのしつこさに見兼ねて(やかましかっただけと言うのもあるが)美奈を助けたのだが、助け方が強引過ぎた。思いっきり力で解決しようとした俺は、その際5人のうち一人を鼻血塗れに、もう一人を右腕骨折と小学生とは思えない大暴れしてしまったので、後で先生に大目玉を喰う羽目になってしまったのだ。それどころか母さんまで学校に呼び出され、放課後には怪我をさせた生徒の家全てを回り、母さんと一緒に頭を下げたのだ。  だから、忘れるわけがなかった。  (そういえば、友達がさらに寄り付かなくなったのも、これがきっかけだったな)  しかし、それを後悔した事はない。やり方がどうであれ、正しいことをしたとは今でも思っているし、友達はいなくなったが、代わりに「南波美奈」という、無くてはならない存在が手に入ったからだ。  先程彼女は『助けてくれなかったら、今の私はいない』と言った。  彼女は気付いていないだろう。俺がその言葉を、そのまま返したい気持ちに。  彼女がいなかったら、今の俺はいないだろう……と。  当時、友達もあまりおらず、家に帰っても一人が多かった俺の心は結構すさんでいた。そこに現れた彼女は、俺にとってはまさに『救世主』だったのだ。彼女はいて欲しい時に俺の横にいた。それは、中学へ進学しても、高校に入学しても変わらなかった。  後半年もすれば、高校を卒業する。しかし、卒業しても彼女は変わらないだろう。  (俺が変わりさえしなければの話だがな)  今の俺は、それを保証できなかった。俺の中にはもう一人、別の女性を大切に思う心があったからだ。  (いい加減、美奈かカディズミーナか、どちらかにするか、真剣に考えた方がいいのかも知れないな)  数千年前に別れた彼女との約束を果たすのか、十年来の付き合いになる彼女といつまでも一緒にいるのか。それは簡単に決められる問題ではない。しかし、決めなくてはいけないことだった。  ……そんなことを考えていると、駅についていた。入場券の次に安い本双駅までの切符を買い、自動改札にそれを通す。  その時、何気なしに改札の上にある時計を見た。美奈もそれに釣られる。時計の横には次の電車の行き先と到着時刻が電光掲示板に表示されており、時計が指している時刻と次発の電車の時刻はほぼ同時刻だった。  それを確認した途端、校内アナウンスが流れる。そして、速度を落とした電車の音が近づいてきた。  「わわっ、雄馬。電車来たよ!」  「ああ」  別に慌てる必要などない。今電車はホームに入ってくるところだ。少し早歩きになれば、充分間に合うはずだった。  しかし、美奈は不必要に慌てていた。  彼女の欠点……勉強は出来るしスポーツも何でもこなす。料理も上手なそんな彼女にも、欠点が3つあった。一つ目は、あわてんぼうのおっちょこちょいだということ。  彼女はいきなり俺の右手を掴むと、  「走ろ! 雄馬っ」  「お、おいっ」  驚く俺の腕を引っ張り走り出した。  「待て、お前の場合はしっ」  最後までいうことは叶わなかった。  彼女の二つ目の弱点。それは、もう再三見せているのでわかるだろう。意味不明な転倒癖だ。  「ふぎゃあっ」  案の定、彼女はホームへと上がる階段で転んだ。階段の角に顔面をぶつけることだけはなんとか避けるが、腕をつかまれていたため巻き添えを喰らいかけた俺は、彼女の長い髪を避けきれなかった。今の変な声は、髪を踏まれているのに気付かないまま、慌てて起きようとしたため起こった惨劇によるものである。  当然、彼女の自慢のポニーテールは台無しになった。  「ゆうま〜、酷いよ〜」  半分泣きそうになりながら文句をたらす。  彼女は髪を元に戻そうとしたが、鏡がないのに元に戻せるわけがなく、結局腰の辺まである長い髪を垂らしたまま彼女は諦める。  だが、ホームに上がった時には、当然ながら電車は行き去った後だった。  「……乗り遅れちゃったね」  「お前がこけるからだ」  走ればこけるのに、懲りずに走る彼女に俺は多少呆れていた。  「雄馬が髪踏むからだよ……」  崩れた髪を指で梳きながら、拗ねたような声でぼそぼそと呟く。その台詞を、俺はあえて黙殺した。  「だいたい、腕掴んで走ったら走りにくいだろうが。ただでさえお前こけやすいのに、こけますよって言いながら走っているみたいじゃないか」  「そこまで言わなくても……」  (あ、言い過ぎたか)  明らかに今の一言で、彼女の元気な気が萎えていくのがわかった。俺から視線を外し、少し顔を横に向けて俯く。さすがに悪いと思い、何かフォローを考えていると、横で美奈場ぼそぼそと呟いた。  「手を繋いだら、速く走れるかなと思ったんだよ……」  「俺らはパー○ンかっ」  思わず速攻で突っ込んでしまった。  (まったく、何考えているんだか。だいたい、あれは飛んだ場合の話だろうが……)  頭が痛くなってきた。もはや、俺たちは天然の売れない漫才コンビだった。  彼女の三つ目の欠点……欠点というか個性というかはわからないが、彼女は常人と思考回路が少し違っていた。昔から、これに振り回されることが稀にあるのだ。まともに話していると思ったら突然ボケられるので、急激に疲れるのだ。  肩を落とし呆れた表情のままでいると、彼女は突然こちらに向き直った。  「雄馬」  「なんだ?」  真剣な眼差しでこちらを覗き込む。その真剣さに、俺も肩の位置と表情を戻し、聞く態勢を作る。  暫しの間が空く。ゆっくりと深呼吸できるような時間が経った後、今から全校生徒の前で話を始める生徒会長のような顔で彼女は言った。  「30人31脚、全員パー○ンだったら何秒出るかな?」  「知るかっ!」  俺の叫びが、ホームに木霊した。  (カディズミーナを探す旅を考えた方がいいのかも……)  少しだけ、心がそっちに傾いた。  田沢市北区本双。10年前に出来た高層マンション群を中心に出来た町で、今では区役所のある兼木町よりも栄えているところである。  俺たち二人は、その本双の中で最も栄えている駅北の商店街の中にいた。目的地の本屋は商店街通りより少し向こうにあり、そこまでの距離を歩いている最中だった。  美奈は御上りさんのようにきょろきょろと視線を巡らしている。この商店街にはよく二人で来るのだが、彼女は毎回こんな感じだ。それで、何か新しいものを見つけるたびに、俺を引っ張るのだ。だから、いつも目的地になかなか着かなかった。  「あ、雄馬! あの店、夏物半額だよっ」  「ん? ああ……」  確かに、美奈が良く行く女の子向けの服を扱う店のガラス戸に、『夏物半額(日曜まで)』と大きく書かれた張り紙が貼ってあった。まだ暑いとはいえ、もうすぐに秋が来る。秋物を店頭に揃えるには、夏物の処分が必要……という訳の処分市らしかった。  「覗いていこうかな〜。今着れなくても、来年また着れるし……」  彼女は立ち止まり、下唇に右手の人差し指を当てる。行こうか行くまいか迷っているようだったが、その仕草はまるでおもちゃ屋の前で物欲しそうに店内を見つめる子供さながらだ。  「今から満載堂に行くんだろ? だったら、余計な荷物は増やさない方がいいんじゃないか。帰りでもいいだろう」  「良いのが売れちゃうよ」  「良いのなんて、もう売れているんじゃないか? 売れ残ったから、処分市をしているんだろ」  「掘り出し物が残っているかもしれないし……」  迷っているように見えたが、心は既に行きたい気持ちで一杯らしかった。ただ、俺に遠慮しているだけなのである。それに気付いた俺は多少呆れながらも、少しばかりの笑みを浮かべた。  「わかったよ。先に覗くとするか」  この店には2度ほど美奈と一緒に入ったことがある。だから、今更抵抗などなかった。  俺は5歩ほどその店へ歩みを進める。  しかし……。  「美奈、どうした?」  美奈が着いてくる気配がないのに気付いて振り返った。見れば、彼女は先程の位置から動かずにいる。相変わらず指を口に付けたままだったが、視線はこちらではなく、少し上を見ていた。  いや、正確にはどこも見てなどいなかった。何かを考えているらしく、ボーっとその場に突っ立っていた。  「そんなところに突っ立ったままだと邪魔だぞ」  その一言にやっと彼女は我に帰った。俺の目を見ると、「あはは」と乾いた笑い声をあげる。  なにか、嫌な予感がした。  「よく考えたら、私今日無駄遣いしないように、本買う以外のお金置いて来たの忘れてたよ」  ……。  すたすたすた……  コツン!  「あいたっ!」  俺は無言で彼女の元へ戻ると、何も言わないまま頭を軽く小突いた。  「早くそれを思い出せ。わざわざ気を使った俺が馬鹿みたいじゃないか」  相変わらずの美奈ぶりだった。  「うー。ごめん、雄馬……」  叩かれた部分を押さえながら、彼女は申し訳なさそうにこちら見る。ちょっと強かったのか、彼女は右目を瞑って痛みを堪えていた。  「あら?」  残った左目が、また何かを捉えたようだった。痛みも忘れるぐらいのものだったらしく、右目を開けそちらをじっと見る。  「ねえ、雄馬。あそこにいるの、香美子さんじゃないの?」  (母さん?)  そんな馬鹿なと思いつつも、美奈の視線の方向……後ろを振り向く。10メートルほど先だろうか、こちらに向かって歩いている女性は。確かに、俺の母さんだった。  「やっぱり香美子さんだよ。香美子さーん!」  呼ばれた本人以外の人間まで振り返りそうな大きな声を出し、美奈は母さんのところへ走っていった。もちろん彼女はその声に気付き、笑顔を向ける。俺も彼女たちの元へ歩いて行った。  「あらあら〜。二人揃ってどこへ行くの? いつも一緒で仲が良いわね〜」  相変わらずののんびりとしたおばさん口調で、母さんは俺たちを迎えてくれる。  この、ウェーブの掛かった濃い茶色の髪の女性が、西口香美子(にしぐち・かみこ)……俺の母親だった。笑顔が似合う美人タイプで、歳の程は20台半ば……と言いたくなるが、そんな訳がある筈がない。二十歳の時に俺を産んで、その俺が今高3だから、37か8のはずだ。しかし、その異常な若作りは、見る者の全ての認識を誤らさせた。歳相応の落ち着いた格好をしているにもかかわらずそう見えるのだから、母さんが美奈と同じような格好をすれば、幼く見える美奈と並べても『姉妹』に見えてしまうだろう。美奈が母さんのことを『おばさん』と呼ばずに『香美子さん』と名前で呼んでいるのも、初めて美奈が母さんと会った時に、驚いた美奈が「おばさんなんて言葉が似合わないよ」と言って以来ずっとのことだった。  俺も確かに母さんの衰えない美貌には舌を巻く。しかし……  (そのおばさん口調と、その鞄だけはなんとかならんのか?)  俺は母さんの右手……その手に持った、どう見ても彼女には合っていない豹柄の鞄に視線を注いだ。  その豹柄鞄、俺が持っている一番古い記憶には既にあった。聴けば、結婚する前に俺の父親にプレゼントされたものらしい。母さんの結婚前といえばまだ10代。そんな彼女にこれを贈る親父も親父だが、今も愛用している母さんも母さんだった。  まあ、彼女にとっては思い出の品なので、壊れでもしない限り手放したりしないだろうが……。  (そう言えば、何で母さんはこんな時間帯にここにいるんだ?)  まだ4時半を回ったところだ。母さんの会社はここから10分ほど歩いたところにある。だから、ここにいること自体は別段おかしくない。だが、まだ就業時間の筈だった。それどころか、母さんは留守電に『遅くなる』とメッセージを入れているのだ。こんな時間に商店街をうろついているのは、どう考えても不可解だった。  「今から満載堂に行くんです。香美子さんはどこへ行くんですか?」  「あら、私に敬語は不要よ。普段通りに喋ってくれればいいのよ〜」  ちょうど俺が聞こうとしたことを美奈が問う。母さんは相変わらずの優しそうな笑みを振り撒きながら、話を続けた。  「ちょっとね、気がついたら財布の中身がほとんどなくなっててね〜。社長さんに無理言って、銀行に行く途中だったのよ」  なるほど納得した。恐らく昼休みの時点で気付いていなかったのだろう。母さんの帰る時間では銀行は開いていない。だから、会社を抜け出してきたのだ。  「母さん、今日もぐんと遅くなるのか?」  それまで美奈に向けいた視線を、母さんはこちらへと変える。  「うーん、また終電かな〜」  横で、美奈が「えっ?」と声をあげた。  「ちょっと大きな仕事がまとめて入ってきていてね、この調子で行くと、明日も出なくちゃいけないわね〜」  このところ、彼女は深夜の帰りが続いている。しかし、大変そうな割には、その口調は全然大変そうに聞こえなかった。  「他の人に任されないのかよ? 外注を使うとか……」  「それが、私指定なのよね〜」  「そうなのか……」  母さんの絵を気に入って、仕事を持ってくる業者がいくらかあるらしい。それが重なったようだった。  「香美子さん、無理しないで……」  心配そうな目をしながら、美奈が呟く。  俺も心配なのだが……。  「したくはないんだけど、納期があるからね〜。あ、そうそう」  突然、母さんは話題を変えた。  「美奈ちゃん、昨日も雄馬の晩御飯を作ってくれたみたいね。いつもごめんね〜。おばさん、助かるわ〜」  そうだった。彼女はよく俺の家に来て晩飯を作ってくれていた。料理ぐらい俺も作れる……というか、一人で食べる機会が多いので、今では母さんが作る料理よりも上手に作れるようになっていた。だが、美奈は俺の遥か上を行く。はっきり言って、根本が違うのだ。  別段母さんに昨日の晩飯のことを言った訳ではない。というか、ここ3日ほど母さんと顔を合わせていなかった。母さんは帰ってくるのが深夜の上、家を出る時間が俺が起きる時間より早いからだ。しかし、母さんにはわかったらしかった。  「いえ、私料理作るの好きだから……」  そう言いながら、彼女は照れたのか、顔を赤らめ俯き加減になる。  ……美奈と母さん。二人の接点は俺「西口雄馬」だと思うかも知れないが、実はそれだけではなく、不思議な繋がりがあった。  ちょっと前に俺と美奈の出会いの話をしたが、その話には続きがあった。学校にまで呼び出され、怪我をさせた相手の家を一軒一軒回ったにも関わらず、母さんは俺に対しまったく怒らなかった。それどころか、一番最後の家を回った後、忙しい母さんに迷惑を掛けたと思い落ち込んでいた俺の頭を、優しい笑みを浮かべながら撫でたのである。  虐められていた女の子を助けたという経緯を先生から聞いていたので、それで怒らなかったのだとその時の俺は思っていた。確かにその通りだったのだが、母さんにとっては、助けた女の子が『みなみなみ・みな』だった事が重要だったのだ。  実は、母さんと美奈の母親は、高校時代の先輩後輩の間柄で、大の仲良しだったらしい。母さんが結婚を機にこの町に引っ越してきた際に交流が切れたそうだが、子供同士がその切れた縁を戻したのである。  ちなみに、この『みなみなみ・みな』という、何も考えていないとしか思えない彼女の名前。驚くべき事に、これは母さんがつけたらしいのだ。母さんが引っ越す直前、産まれてくる子供の名前で美奈の母親から相談を受けた母さんは、『本気で』その名前を薦めたらしかった。「かわいいと思ったのよ〜」という母さんも母さんだが、その名前に決めてしまった美奈の両親も両親である。美奈に聞いたことがあるのだが、やはり前の学校でも虐められていたらしい。俺が助けていなかったら、虐められつづけていたのは確実だった。  しかし、そのことを知っている割には、美奈は俺の母さんのことを気に入っているようだった。それどころか、彼女は一人で家計をまかなう母さんの信者にすっかり成り果てていた。  「美奈ちゃん、料理上手いんだってね〜。今度、私にも食べさせてもらえるかしら?」  「えっ? あはは……。私なんてまだまだですよ」  そう言いながら、頭を掻く美奈の髪に、初めて母さんは気がついたらしかった。  「あら、美奈ちゃん。そういえば髪どうしたの? いつものポニーテールは?」  「……雄馬に踏まれた」  途端にふてくされた顔になる美奈。母さんは瞬間眉を寄せた後、ゆっくりとこちらを向く。  「雄馬。一体どういう歩き方しているの」  母さんの顔はいたって真面目だった。  「普通に歩いているよ! こいつが俺の手を持ったままこけるから、踏んでしまったんだよ」  「うー。雄馬、反射神経いいのに、何でこういうときだけ避けてくれないのよー」  「いくらなんでも、避けれる時と避けれない時があるよっ! だいたい、慌てて起きようとするから余計酷くなったんだろうが」  「こけたまま突っ伏していたら余計おかしいでしょ!」  光が注ぐアーケードの下、口喧嘩を始めた二人を、最初はきょとんとした表情で見つめていた母さんは、気がつけば元の笑みを戻しくすくすと笑っていた。  「ふふふ……。本当に仲が良いわね〜」  その言葉に、二人同時に彼女の方を向いた。  「どこをどう見てそう見える?」  「喧嘩するほど仲がいいってね」  その穏やかな笑みに、すっかり俺たち二人は毒気を抜かれてしまう。  母さんはまだ含み笑いを続けていた。  「そうね〜。このまま、二人が結婚してくれたら、母さん楽すること考えようかな〜」  「母さん!」  とんでもないことをさらっと言う。それを聞いた美奈は、横で顔を真っ赤にしていた。  「うふふ、冗談よ。美奈ちゃんは美奈ちゃんの好きなように、雄馬は雄馬の好きなように……」  そう言うと、母さんは右手に持っていた例の豹柄鞄を左手に持ち替えた。その際、近くにあった時計屋の看板にもなっている時計に視線を巡らせ、時間を確認したようだった。  「それじゃあ、私もうそろそろ行かなくちゃいけないから……。二人とも気をつけてね〜」  母さんは、笑みを浮かべたまま、俺たちの返事を待たずに駅の方へと歩き始めていた。  「あ。香美子さん、さようならー」  やっと我に返ったらしい美奈が、慌てて挨拶する。既に後姿になっていた母さんの右手が、それに応え数回振られた。  「まったく母さんは、毎回毎回……」  呆れた顔で俺はその後姿を見送った。母さんが俺達の関係を取り持つような発言をするのは、別にこれが初めてという訳ではない。特にここ数年は、3人が顔を合わす度に言っているような気がした。  「香美子さん、いつ見ても若いわねー。それに、綺麗……。たしか、私のお母さんと二つ違いだったよね。凄いなあ」  俺と同じくその姿を見送っていた美奈が嘆息する。そうしている間にも、母さんはどんどん小さくなっていた。  「お前の母親も充分に若いと思うけどな。しかし……」  俺の視線は、小さくなった母さんの左手に行っていた。正確には、左手に握られた鞄に。  どうしても、それが気になった。  「あのおばさん趣味な鞄だけ、なんとかならんのか」  「ええっ、あの鞄? 可愛いと思うけどなあ……」  (……お前も同類かいっ!)  かなり力が抜けた。後ろから見れば、肩の位置が3センチほど下がったのが、目測で確認できたはずだった。  「そういえば、香美子さんって、再婚したりしないの? あれだけ綺麗なんだから、話の一つや二つあってもいいと思うんだけどなあ」  再び歩き出す二人。満載堂まで後1分程度と言うところで、美奈がそう問いてきた。  「あったにはあったらしいが、流れたらしいな」  その問いに、俺はそう答えた。  確か4年ぐらい前だったと思う。「母さん、再婚を考えているの」と、突然聞かされた事があった。俺的には、それで母さんが楽になるなら賛成だったのだが、しばらくしてからその話が流れた事を知った。理由を聞くと、困ったような表情で首を傾げたまま黙っていたのを思い出す。なにか、言えないような事があったらしい。だから、俺はそれ以上の追求を諦めていたのだ。  それ以降は、そういう話は聞いていなかった。  「ふうん……。再婚した方が、香美子さん楽だと思うんだけどねー。雄馬はそう思わない?」  「俺だってそう思うよ。でも、いい相手がいないんだろう? 多分な……」  多分なと、心の中で繰り返した。  「そっか。香美子さんの好きなタイプって、どんな人なんだろうね」  「さあな……。俺の親父とは見合いじゃないと聞いているから、親父みたいなタイプがいいんだろうけど、俺は自分の親父がどんな人間だったのか、全然知らないからな。」  「そうだったね。どんな人だったのかな、雄馬のお父さん……」  そこで会話が途切れた。満載堂に到着したからだった。  カディズミーナと美奈。二人の間で悩む雄馬=ユーマリオン。  次章、そんな雄馬と美奈の前に現れた変な一団が。そして、二人の関係に何か進展が?  タイトルは『雄馬の憂鬱』です。  お楽しみに。