二人のふたり ※第1章 そして二人へ……※  「暑い……」  照りつづける強い日差しは、俺たちの体力を徐々に奪っていた。ちょっと前まで寒い地方にいたのだから、慣れていないという事実もある。それ以前に俺たちの格好は、明らかにこの暑さに合わせたものではなかった。  「暑いね。でも、もうちょっとの辛抱だと思うわ」  俺に並んで歩く小柄な少女が、額の汗を拭う俺を見てそう言った。彼女はそれだけいうと、視線を手のひらに乗せた小さな水晶玉へと移す。その水晶玉は、暗い洞窟とおぼしき所で一人あぐらをかいて休む長髪の男を映し出していた。  「近いのか?」  そう問いた俺に対し、彼女は視線を水晶玉に置いたまま頷くことで返答する。いま、目が離せないらしい。何か小声で彼女が呟く。そうするたびに、水晶玉に映る風景が変わった。  しばらくは洞窟内部らしきところを映していたのだが、数回それを繰り返したところで、水晶玉が洞窟の入り口らしきものを映し出す。そこで彼女は、視線を前に向けた。  「ほら、ユーマ。あの岩場の影。多分あそこよ」  確かに、彼女が指差したそこには、彼女が持つ水晶玉に映る映像と同じ風景があった。そこに、奴が潜んでいることは間違いない。  「しかし、よくそんな簡単に見つけられるものだな」  俺は素直に感心する。彼女の実力は知っていたが、奴を追ってこの世界についてまだ3日目。どっちが北かも判らないこの世界で、一人の男を探し出すのは至難の技のはずだった。しかし、彼女は得意げな表情一つしない。  「あれだけ強烈な魔の力を放出していたら、普通だったら見つかるわよ。これが、ただの人間だったらまず無理でしょうけどね」  「なるほどな」  これが、彼女が図に乗らなかった理由である。  そう、俺たちが追っている相手は魔だった。グリードがその名前である。黒の長髪に緑の瞳。見た目こそ人間のそれに近いが、その強靭な腕力と鋭い鉤爪で人間を引き裂き、喰らう魔族だった。俺たち二人は旅先の小さな町で人間を襲うグリードと遭遇し、手傷を負わせることに成功していた。しかし、グリードは俺たちの隙をついて、異世界へと逃げ込んだのである。怪我を回復し再び戻ってくるのを危惧した俺たちは、異世界までグリードを追いかけることにした。手負いの今なら、倒すことも不可能ではないだろう。そうすれば、再びあの町があの魔族の脅威に晒される事はなくなるのだ。  しかし俺は、少なからずこの世界までグリードを追いかけたことを後悔していた。  「それにしても暑いな……」  「そうねー。いくら言ったところで仕方がないんだけど」  彼女もこの暑さには参っているらしい。二人とも寒冷地の出身で、こういう暑さは未体験だったのだ。もうこれ以上、この世界にとどまるつもりはない。グリードを倒した暁にはさっさと元の世界に戻ろうと二人とも考えているという事は、互いに確認せずとも判っていることであった。  それと、暑さ以外にも早く戻りたい理由が一つ。この世界には何もなかった。少なくともグリードを捜しながら歩いた3日間に、人影らしきものは見当たらなかった。一度だけ、何かの大型動物の白骨体の横に、折れた青銅とおぼしき剣が転がっていたのを見かけたので、人かそれに準ずるものがいる事は間違いないだろう。しかし、その粗悪な武器を見る限り、たいした文明を持っているとは思えない。無論、この腰につけた財布の中にある金貨が役に立つ事はないだろう。だとすれば、食料は自分たちで確保するしかなかった。  幸い、この世界には豊富な自然があった。少し頑張りさえすれば、野生の動物をしとめる事はできるだろうし、見た目においしそうな木の実も目に付いた。  しかし、そういう生活に経験のある俺はともかく、上流階級の彼女にそれを強要するのは気が引けた。本人は気にしないのかもしれないが、やはり食料が残っているうちに元の世界に戻るべきだろう。  「どうしたの? ユーマ」  考え事をしている間に、落としていた視線を前に彼女が顔を覗かせていた。丸い目の愛らしい顔立ち。肩まで伸ばした栗色の髪は、体を斜にしているため、横に流れ落ちていた。  「……いや、なんでもない」  暑いので気が緩みかけているのかもしれない。間違っても、今から対峙する相手は気を抜いて勝てる奴ではなかった。あの時、俺たち二人がいなければあの町は間違いなく壊滅していただろう。  俺は気を入れなおす意味で、大きく息を吸い込み、それを吐いた。今、俺の表情を確認したなら、目の鋭さが変わったのを確認できたはずだ。  「行くぞ」  そう宣言して、歩む力を強める。  しかし……。  「そうね。さっさとあの魔族を片付けて、婚前旅行の続きをしなくちゃね」  思わず前につんのめった。  「あのなあ、カディズミーナ」  ドンッ!  「うわっ!」  ジト目で見る俺の背中を、彼女は思いっきりはたいた。元々つんのめっていたところをはたかれたので、二歩ほど前へとふらついた。実はこれ、気に入らない事があった時にやるカディズミーナの癖だった。  文句を言おうと振り向きざま、今度はむっとした声が飛んでくる。  「もう、ユーマ! 私の事は愛称で呼んでいいって言ってるでしょっ」  「……と、言ってもなあ」  彼女の怒りは、妙なところにあった。少し前から、彼女は俺に自分の幼少時代からの愛称で呼ぶ事を強要していたのだが、馴染みのない呼び方は、いつも必要な時に出てこなかった。  「そのね、『デ』の発音が嫌いなの。んもう〜、ユーマはいつもこれなんだから……」  そう言って、彼女は小さく嘆息した。  「自分の名前だろうが、無理やりにでも好きになれよな。……それと、その婚前旅行っていうのはなんだ? そんな良いものではないだろ」  「私が婚前旅行といえば婚前旅行よ。どこか良いところを見つけたら、そこで式を挙げるの。そして、子供を作って、そこで幸せに暮らす……。ねえ、良いでしょ? ユーマ」  すがるような目で下から覗き込むカディズミーナ。その他意なき瞳に、俺は少しだけ笑みを浮かべ、肩をすくめた。  いい加減、二人の略歴を説明した方が良いだろう。  まず先ほどからユーマと呼ばれている俺の名前だが、正確にはユーマリオンが本名である。平たく言えば旅の剣士。元々は凄腕の傭兵で名を鳴らしていたが、俺の名が知れれば知れるほど、その力を欲しがる邪な輩が、金と悪意を持って集まってきた。「元の雇い主の倍額を払うから、こちらへ寝返ろ」そんな言葉に聞き飽きた時、俺は当てのない旅を始めていた。  一方のカディズミーナは、このキャラクターからは想像できないだろうが、いわゆる「深窓の令嬢」だった。優先順位こそ高くはないものの、王位継承権すら持つ良家の一人娘なのだが、類稀な魔法の才能が彼女の運命を変える。社会勉強を兼ねて魔法学院へ入学した彼女は、そこで耳にしたごく普通の生活……小さな幸せに憧れた。何不自由なしに、しかしそれでいて、自由がない生活に嫌気が差していた彼女は、心の奥底にそういう想いを隠したまま、良家のお嬢様を演じていた。  そんな二人が出会ったのは、彼女の住んでいる街で起こったある事件がきっかけだった。魔族の一団が街を急襲したのである。ちょうど魔法学院から帰宅中だった彼女は、従者の制止を振り切り、勇敢にも魔族に立ち向かった。強大な魔力を用いて、かなりの魔族を撃退したのだが、所詮戦い慣れていない彼女は絶体絶命の危機に晒される事になる。  そこに現れたのが、たまたま旅の途中にその街に寄っていた俺だった。当然のごとく魔族を撃退していた俺の目に映ったのは、一目では解りづらいが、良く見れば明らかに身なりのいい服を泥と返り血に汚した少女であった。三体の魔族に囲まれた少女は、あるだけの勇気を使い果たした後だったらしく、青ざめた顔で小さく震えていた。もちろんその時、俺は彼女の服に付いた返り血が、彼女自身が倒した魔族のものとはかけらも思わなかった。  まだ魔族が残っていたため、彼女を救った後はすぐさま別の場所に移ったので、そのときは名前すら聞かなかった。そんな彼女と再会したのは、街を救った英雄の一人として招待されたとある名家でのこと。初め、綺麗なドレスに身を包んだ少女と、血にまみれた服を着た少女が同一人物だとは気づかなかった。しかし、向こうはすぐに気がついた……というか、初めから俺を探し出すために、街を救った英雄達を家に招待していたそうだ。  その後の彼女は積極的だった。何度も俺を家に招待する。魔法学院の帰りに従者にわがままを言って、俺の泊まっている宿に来る。会えば極力二人になろうとして、二人になれば彼女は自分の好きなことや夢を一人喋っていた。  俺も別段、そんな彼女が嫌いなわけではなかった。両親や従者と一緒にいるときは見せない、俺と二人だけのときに見せる明るく無垢な一面。特にその邪気無き瞳は、欲望に淀んだ瞳を見つづけていた俺を魅せるのに充分過ぎた。だから、俺もほかの町に移ることなく長く、その街に滞在していた。  そんな彼女の行動に渋い顔を見せていたのが、彼女の両親だった。それもそのはず、彼女には許婚がいて、魔法学院を卒業した後には結婚する予定だったからだ。いわゆる政略結婚で、この結婚が成立すれば、彼女の家はより上の立場に立てるらしかった。  しかしながら、彼女にはまったくその気が無かった。別段、相手に不満があった訳ではなかったそうだが、勝手に決められた道に納得が行かなかったらしい。  だから、彼女は自分が作った道を無理やり歩もうとした。俺という、自分とは全く違う道を歩む人間と出会うきっかけを得た彼女は、自分を変えてくれるだろう男に必死でしがみついていた。もっとも、彼女はそれを当時口にしなかったのだが……。  そして、彼女は思い切った行動に出た。出会ってから一ヶ月ほど経ったある日、彼女は俺が泊まっている宿に一人で現れた。それも、深夜に。  『一緒に旅に出ようよ』  女が男のいる部屋に一人で来る。その無防備さに呆れていたいた俺に、彼女はさらに呆れるほどの笑みを浮かべてそう言った。  彼女は俺と一緒に駆け落ちしようとしたのだ。  『お嬢様生活は出来なくなるんだぞ。欲しいものは何も手に入らない、自分のいう事を聞いてくれる従者もいない、夜盗に襲われるかもしれない、怪物に襲われるかもしれない……そんな生活でも良いのか?』  そう俺は問いた。彼女の本当の心など知らなかったので、てっきり魔が差したのだろうと思っていた。しかし、彼女はこう切り替えしてきた。  『良いよ、自分が選んだ道だもの。確かにこの道は、好きな物が手に入らないかもしれないし、自分の思ったようにならないかもしれない。だけど、好きな者が手に入るの。自分が選んだ道を歩めるの。だから、良いの』  それを聞いた俺は、取り合えず彼女を連れて行く事にした。彼女の事は嫌いではない……というか、その頃はかなり好きになっていたのだが、今の彼女の生活を奪ってまで連れて行こうとは思っていなかった。今の裕福な生活の方が、彼女にとって絶対幸せな筈だと思い込んでいたからだ。本音をいうと彼女がこういう行動に出た事を喜んでいたのだが、彼女が旅の生活に耐えられなくなったなら、この街に連れて帰るつもりだった。  しかし、彼女は頑張った。良く困った表情や泣きそうな表情を浮かべてはいたが、泣き言だけは絶対に言わなかった。言えば、追い返されると解っていたのだろう。そして、解らない事にはひたすら挑戦した。どれだけ失敗しても、彼女は諦めなかった。そんなひたむきさに、俺はさらに魅かれていった。そして3ヶ月ほど経った頃には、俺から彼女を手放す気持ちがなくなっていた。  彼女が良く語っていた夢、『どこか遠くの街で、ただ静かに好きな人と幸せに暮らす』。それも悪くないなと思っていた。  そして半年ほど経った時に起こったのが、滞在していた小さな街を、一体の魔族が襲撃した事件だった。  ……強い日差しが照りつづける。三日経った今でも、この暑さには慣れなかった。しかしながら、この世界には緑があった。ならば、うわさに聞きし砂漠というのは、もっと暑いのだろうか? だとしたら、一生そんな場所とは縁がない方がいいと思った。  その時、隣を歩いていたカディズミーナの腹が小さく鳴る音が聞えた。瞬間、丸い目を更に丸くして顔を赤らめたが、彼女は歩きながら背負っていたサックの中身を漁り出す。しばらくすると、中から肉の干物が出てきた。それをほおばると、先ほど小川の横を通りかかった際に水筒に汲んでおいた水を口に含む。肉の干物など、あの家では食べた事はなかっただろう。初めは旅の最中の粗悪な食事に戸惑っていたが。、今では抵抗なくそれを口にしていた。  「それでいいのか? もうちょっとまともな食事にした方が良いんじゃないか」  「良いわ。少しお腹に足しておけば充分よ。あと少しで目的は達成できるんだし、そしたら元の世界に戻って、美味しいものをたくさん食べられるしね。……そうだ。きっとあの街の人、街を救ったお礼にって何かご馳走してくれると思うよ。私があの時ユーマを招待したみたいにね」  あの時の彼女の目的は別のところにあったのだが、それはつっこまないでおいた。  「あ、そうだ。どこかで厨房借りようよ。そうしたら、私がシチュー作ってあげるから」  名案だった。彼女の作るシチューはこの上なく美味で俺の好物だった。というか、彼女の場合それ以外出来ない。今までの生活では、自分が作らずとも専用の調理師がいたからだ。ならば、なぜ彼女がシチューを作れるのかというと、魔法学院の友達に教えてもらったかららしい。少し教えて貰っただけであれだけのものが作れるのだから、しっかりした指導を受ければ、もっといろいろなものが作れるだろう。  「そうだな、この世界でシチューを作ってもらったところで、こうも暑かったら美味しくないだろうからな」  「そんなもの作れる場所も材料もないわよ。だから、さっさとあの魔族を倒して元の世界に戻ろうね」  「ああ」  彼女のシチューをご褒美にすれば、この暑さも我慢できた。改めて前を確認すれば、目指す洞窟の入り口もそう遠くない距離に来ていた。  俺は脇に刺していた愛剣を引き抜き、さっと状態を確認した。強い日差しを反射するその鋼鉄の刃は、どんなものでも引き裂けそうだった。まあ、実際のところあの魔族の肉を切り裂くのは用意ではないのだが、それは置いておく事にして、チェックを次に進める。柄の滑り止めも適度に良く効いていて、振っている最中にすっぽ抜ける事はないだろう。戦闘中に刀身と柄が外れるなんて間抜けな事もなさそうだった。  一方彼女もそれに習ったのか、戦闘準備を始めた。と言っても、彼女の場合そう大した準備があるわけではない。目で確認したわけではなかったが、どうやら手に持っていた水晶玉を、ベルトにくくりつけていた小袋に直そうとしているらしかった。  しかし、その水晶球が地面を転がって、俺の前を横切っていく。  「あわわ……」  それに、彼女の情けない声が続いた。  「おいおい、大事なものなんだろう? 落とすなよ」  「ち、違うんだよ」  ちょうど俺の右手1メートルほどの位置で止まった水晶玉を拾い上げながら、何が違うのかと思い彼女を見ると、慌てて地面に散らばったいろいろなものを拾い上げているところだった。  「……紐が切れたのか」  「うん」  ベルトに留めるための紐が切れたために、小袋ごと落としてしまったらしい。俺も彼女の荷物を拾うのを手伝う事にした。  そんな中に、見覚えがあるものがあった。その小瓶を見て瞬間ぎょっとする。拾い上げて手の中でくるくる回してみる。特に傷は入っていないようだった。  「おまえ、これを持ってきていたのか」  「えっ? ああ、その薬ね。だって、大事なものなんだもの」  「大事なものだったら、そんな小袋に入れていないで、後ろのサックに入れていた方が良いんじゃないか?」  俺たちのいる世界では、スリ行為は日常茶飯事だ。俺は腰に財布を付けているが、それは掏られない自信があるからそうしているだけの事で、彼女のような一般人が同じ事をしていれば、即日持って行かれるだろう。彼女がスリに遭わないのは、いつも俺が横にいるからだった。  いい加減、大事なものはしっかりサックに直させる癖をつけさせた方が良さそうだった。  「だって、サックに入れていたら、押しつぶされそうなんだもの」  「だったら、鉄瓶でも買うか。そんな陶器製の瓶だと心もとないからな」  「うん……」  彼女は申し訳なさそうな顔をしながら、上目遣いで俺の目を見た。実はこれが、欲しい物がある時の癖なのである。家を抜け出した時に大した金を持ってこなかった彼女の路銀が、ほとんど底を尽いていることはとうに知っている。しかし、欲しい物が自由に手に入らない生活が良いと言って俺についてきた彼女は、欲しいものをねだる時に異常に気を遣っていた。  もちろん、俺としては今更そういう事に気を使ってもらう必要はないのだが。  「良いよ、俺が買ってやるから」  「本当!? ありがとう、ユーマ」  嘘のように明るい声を出すと、笑みを浮かべ目を細めた。その細めすぎた目に映っているのかどうかは解らないが、彼女の前に例の小瓶と、たまたま持っていた替えの紐を差し出した。  「ほら、返すよ。それと、替えの紐だ」  「ありがとう」  再び礼の言葉を発しそれを受け取ると、小袋に紐を通す。小瓶に異常がないか一通り確認すると、丁寧にそれを小袋へとしまった。  先ほどから出ているこの小瓶の中身。それは、魔法の知識があまりない俺にとっても、かなり貴重なものだと解る代物だった。  不老不死……彼女が魔法学院で取り組んできた研究課題だった。それを聞いただけで、彼女がどれだけ魔法使いとして優秀だったか解るだろう。戦闘技術がない彼女が、自分の街が魔族に襲われた際、沢山の魔族を屠っていたのも納得が行った。誰もが成しえた事のない事に挑戦させたくなった魔法学院の偉い方の気持ちも解るが、それにある程度答えた彼女は見事だった。  この小瓶の中身は決して不老不死の薬ではないが、それに準ずる物だった。転生の秘薬が、その正体である。  転生といえば、赤子へと生まれ変わる事を想像するかもしれないが、彼女いわく「出来そこない」のこの薬は、今現在存在している者にその意識が移る、いわゆる「乗り移る」に状態に近いらしい。本当はまともな転生の薬を作るつもりだったらしいが、それを作る途中で出来た副産物がこれだったそうだ。それでも、相当の価値のあるものには違いなかった。材料が貴重だと言っていたので、もし割れたら泣くに泣けないところだった。  (……しかし、縁起が悪いな)  俺は、先ほど切れた紐の事を思い出していた。紐が切れるのは、何かの縁の切れ目だという言い伝えが、俺の故郷にあった。  俺は、この戦いに何か不吉なものを感じていた。  洞窟の中は適度に涼しかった。自然物の割には、通路は適当に広く、まるで人用にあつらえたかのようだった。その通路を、淡い光の三つの光球が照らし出している。それは、俺たちの歩調に合わしてゆっくりと漂いながら宙を移動していた。もちろん、カディズミーナの魔法である。光を生み出す魔法は初歩中の初歩だが、同時に三つを術者の動きに追随させるとなると、初歩の段階を大きく飛び越していた。  「近そうだな。襲撃に備えておいたほうが良いぞ」  俺はカディズミーナにそう声を掛ける。俺には彼女の言う魔の力を読み取る能力は無い。これは、今まで傭兵稼業を続けてきた際に培ったものだった。  確かに、奴はこの奥にいる。それも、そう遠くなかった。  「何か作戦立てておく?」  「……前に戦ったときのように、俺が前で奴を食い止めて、後ろから魔法の援護をもらう。それで良いと思うが……。まあ、あいつやたらめったらタフだったからな」  そう、前に戦ったときは幾度と無くグリードに手傷を負わせたものの、致命打を与えることは出来なかった。相手も傷を負わされて逃げたというより、埒があかなくなって引いたという感じだった。恐らく前の戦いで負った傷も、3日も経てば魔族の回復力を考えると全快していると思っていて良いだろう。何か策を講じていないと、持久戦になればこっちが不利になる可能性があった。  「何か手はあるのか?」  これ以上前へ進むと、相手に気づかれるかもしれない。そうなってしまうと作戦を立てるどころではなくなってしまうので、俺は足を止めてから彼女に問いた。  「うん、とりあえずは前と同じようにやってみるけど、倒せそうに無ければ封印してみようと思うの。また前みたいに逃げられたら、せっかくこんなところまで追ってきた意味がないからね」  「そんなことが出来るのか」  俺は眉を吊り上げた。下級の魔族ならいざ知らず、相手は一人で街を壊滅させられそうな上級魔族。簡単に封じれそうな相手ではなかった。  しかし、彼女はあっさり俺の問いを肯定した。  「出来るわ。でも、ある程度相手が弱っていないとだめなのよ。だから、初めは普通に戦わなくちゃ行けないの。それと、魔法の発動に少し時間がかかるわ。だから、その間のフォローお願いね」  「言われなくてもフォローはする。だいたい、おまえ自分の身自分で守れないだろう」  「あはは、そうね。でも、守るだけだったら出来るわ。それじゃあ、意味ないけど」  足手まといにならないようにはするわと、彼女は最後に付け加えた。まあ、実際のところこの洞窟の中なら、相手を回り込ませないようにさえすれば、あんな鉤爪一辺倒の力馬鹿ぐらい何とかなりそうだった。  「あと、封印するための魔法は飛び道具だからね。外れないように上手くやってね」  「外れないようにするのはお前のほうだろう」  少し心配になりながらも、再び歩を進め始めた。洞窟は代わり映えのしない風景を続けていたが、だんだん通路は広くなっているようだった。人が通るに充分な高さといい、だんだん自然物とは思えなくなってくる。案外、グリードがこの穴を掘ったのではないだろうか?  (いくらなんでも、こんな短期間では無理か……。いや、元々奴がこの世界をねぐらにしていたとしたら考えられない話ではないが……)  そう考えを巡らしたが、別に大した事ではなかった。この洞窟が人工物であったとしても自然物であったとしても、俺たちがこの奥にいる魔族を倒し、元の世界に返るという事に対しては何ら変化のない事だったからだった。  グリードを倒す。それ以外にこの何もない世界での目的などなかった。  2分ほど歩いただろうか、突然視界が開けた。そこは、大体15メートルほどの円形の空間で、先ほどまでの通路よりも更に天井が高かった。大広間と呼ぶに相応しい場所で、明らかに人の手が入っているのが判る。  その場所には明かりがあった。左右に一つずつ、松明が立てられるようになった台の上に、それの明かりが存在する。そしてその中心あたり、一番良く光のあたるところに奴はいた。全身黒に統一した出で立ち、浅黒い肌、癖のない黒の長髪はカディズミーナのそれより長い。今奴は、片膝を立て、もう片膝は胡座を組んでいるかのように畳んだ状態で、俯いて座っていた。  一見すると人間にしか見えない。しかし、奴が顔をあげる。俺たちの顔を確認すると、表情が寝起きで機嫌が悪そうなものから苦笑いへと替わった。その際、その口元から硬い岩でも噛み砕きそうな犬歯が漏れた。  「……こんな所まで追って来やがったか。物好きな連中だ」  「喋った!?」  横で心底意外そうな表情をカディズミーナが浮かべていた。まあ、確かに魔族の中でも人間の言葉を喋るのはごく一部なので、驚くに値するのかもしれないが、別段相手の格好が格好なので、違和感はなかったと思うが。  (そういや、先の戦いでは喋ってはいなかったな)  あの時は前口上なしにいきなりこっちから掛かって行ったので、こうやって喋っている時間がなかったのを思い出した。  「変か? せっかくこういう姿をしているんだから、別段喋れてもいいと思うんだがな。言っておくが、グリードっていう名前は俺の正当な名前であって、お前ら人間風情が勝手に付けた呼び名じゃねえぞ」  「別に聞いてないぞ」  「聞けよ。俺のお気に入りの名前なんだからな」  (カディズミーナ、お前も見習え……)  口には出さず心の中で呟いた。  「何でもいいけど、ここから逃れる事は出来ないわよ。覚悟しなさい、グリード!」  初めて魔族と対峙した時の彼女はどこへやら。やけに自信たっぷりでいう彼女。この半年ほどの旅で魔法で闘う事を多少繰り返した成果を見せたいのかもしれないが、できればでしゃばらない方が標的になる確立が減っていいと思う。  「いや、逃げようと思えばこの前のように異世界に逃げ込めば簡単なんだが」  グリードがあっさりカディズミーナの台詞を否定すると、途端に彼女は泣き出しそうな顔になった。  「たかだか人間風情に何度も逃げ回るのも格好悪いしな。今回は正々堂々最後までやってやるよ」  「それはありがたい。またこれ以上暑いところに連れて行かれた日には干からびてしまいそうだからな」  「なんだそりゃ? 俺もこれ以上暑いところには行きたくねえよ」  ちょっと口元を歪めるグリード。奴も暑いのは案外苦手らしい。だから、こういう暗くて涼しい場所を選んで休んでいたのだろう。ひょっとすると、異世界に移動できても、その世界まで指定できないのかもしれない。  まあそれはいいとして、魔族から『正々堂々』なんて言葉が出てくるとは思わなかった。魔族の口約束など大した意味を持たないと普通は思うのだが……。  (しかし、この魔族はなんか他の魔族と違うものを感じるな)  妙に人間じみているというかなんというか、こいつが『逃げない』と言えば、本当に逃げないような気がした。  「……なんでもいいけど、さっさと始めない?」  先ほどせっかくの台詞を台無しにされ拗ねていたカディズミーナが、ちょっと遠慮しているような声で言った。  「お、悪い悪い」  なぜか謝ったのは俺ではなくグリードの方。奴はゆっくり起ち上がると、その場で上半身を左右に何度か捻った。先の戦いで負わせた傷は、全て跡形もなくなっている。追い払うきっかけとなった左足の大きな裂傷も、履き替えたらしいズボンの下に隠れて判らなかったが、この戦いへの影響はないように思えた。  「準備運動はその辺でいいか」  「いや、もうちょっとやっておきたいところだが、そっちの嬢ちゃんが待てそうになさそうなんで、この辺でいいぜ」  ボケているのはわざとなのだろうか、それとも性格なのだろうか。この手のやり取りが好きな俺はともかく、カディズミーナはノリに付いて行けず、丸い目を何度もぱちくりさせていた。  「ならば、こちらから行かせてもらうぞ」  カディズミーナが正気に戻るのを待っていると時間が掛かりそうなので、無理やり話を進めさせてもらう事にした。グリードに歩み寄りながら愛用のバスタード・ソード(片手でも両手でも持てる剣)を腰から引き抜くと、後ろでカディズミーナが慌てて戦闘体制を整える気配がする。グリードも腰を落とし下から睨み付けるような体勢を取った。ちょうど、猫科の動物が獲物に襲い掛かるような感じだ。  この戦いのポイントは、グリードを後ろに回りこませない事。先ほどは通路を予想していたのだが、実際には広間だったので、比較的回り込むのは難しい事ではない。グリードが後ろに回り込めば、そこには無防備なカディズミーナがいる。彼女は防御の魔法は心得ているものの、状態が常に変化する戦闘で瞬時に防御の判断ができる程戦い慣れてはいない。だから、そうなる事は避けねばならなかった。  3日前の戦いでは、グリードは左右の鉤爪以外の攻撃はしてこなかった。もっとも、この鉤爪で幾多もの人間の肉はおろか骨までを引き裂いているのだ。まともに受け止めれば、いくら俺が人間ばなれしているといえど吹き飛ばされるかもしれない。まかり間違って喰らおうものなら、俺の胸当てごと引き裂かれるだろう。  (丁寧に受け流して、相手の隙を狙うしかないな)  そう決めると、俺はこちらの間合いからは攻撃を仕掛けず、そのまま相手の間合いに進入した。思った通り、グリードは屈していた膝を伸ばしこちらへ突っ込むと、右の鉤爪を縦に振り下ろす。この間合いでは愛剣を振う事は出来ない。しかし、俺は敢えて愛剣を振う事は考えず、こちらから更に間合いを詰めた。  「なっ」  予想外の動きに驚くグリード。奴の腕は俺の肩に当たって止まっていた。かなり痛いがヒットポイントのずれた攻撃では俺は倒せない。  俺は相手が驚いている間に素早く右手を股へ潜り込ませると、肩を掴まれるよりも早く左足を払った。思わず横転するグリード。そこを狙って剣を振り下ろしたが、そこまではさすがに喰らってくれなかった。転がって俺との距離を取ったのだ。  「くっ」  4メートルほどの距離で起き上がると、片唇を吊り上げる。犬歯が、松明の光に照らされ異様な光を見せた。  再び突っ込んでくるグリード。今度は、左の鉤爪を斜め下から振るう。その動きを良く見ていた俺は、鉤爪を避けざまタイミングを合わせて、肘のあたりを叩く。すると、グリードは自分の勢いも手伝って背中を晒す事になった。  「のわっ、やべえっ」  慌てて元いた位置へ突っ込むようにして逃げるグリード。勢い余って転びそうになるのを、強靭な足腰が無理やり防いでいた。もちろん、その隙を狙っていた俺は素早い動きに追撃のチャンスを逃した事で軽く舌打ちしていた。  「……人間風情がやるじゃないか。さぞかしその肉は美味いんだろうな。殺して喰わせて貰うぞ」  そう言ってにやりと笑う。こいつは、案外この戦いを楽しんでいるようだった。どうやら、俺と同じ種類の人間……もとい、魔族らしい。  「だったら、俺がお前を倒した際には、お前の肉を喰ってやるよ」  「ユーマ、気色の悪い事言わないで……」  冗談の判らない子が、後ろで情けない声をあげた。本当に喰うと思ったのだろうか?  しかし、この冗談に余計な言葉を返したのは、付き合いのいいグリードだった。  「気色の悪い? 案外美味いかもしれないぞ。俺は力がみなぎっているから、喰うと精力がついてそっちの嬢ちゃんも喜ぶんじゃないぐあっ!」  カディズミーナの気弾の集中砲火が、グリードの台詞の語尾を変にした。単発で雑魚の魔族なら消し飛ばしかねない威力の気弾を、遠慮なしに連続で打ち込む。奥の壁に叩きつけられたグリードは、合計74発の気弾を打ち込まれる間、ずっと壁に張り付いたままだった。  「変な事言わないでよっ!」  一気に魔力を放出して荒い息をつきながら、なおも大きな声で言い切る。どうやら彼女は、この手の冗談は嫌いらしい。やっとの事で地面で伸びる事を許されたグリード。しかし、その5秒後には半身を起こし、何事もなかったかのようににやりと笑った。相変わらず、化け物みたいにタフな奴だ。  いや、化け物か……。  「ものすごい魔力だな。人間風情にこれだけの魔法を操れる奴がいるとは思わなかったぜ」  ……グリードは先ほどからやたらと『人間風情』という言葉を使う。口癖なのだろうか?  「嬢ちゃんにいい事教えてやるよ。俺の好物は力を持った人間……剣の力でも魔法の力でもいい。権力を除いた、力を持った人間の肉なんだよ。特に、女は肉が柔らかくて脂も乗っているしな」  ニヤニヤした表情のまま、カディズミーナを脅す。脅された彼女は、俺の後ろへこそこそと移動したまま黙ってしまった。そのままだと話が進まないので、俺が切り出す事にした。  「……おい、ウォームアップは済んだか?」  「そうだな、そろそろマジでやらないと殺られるかも知れないな」  「えっ?」と、小さな声が後ろでした。俺としては、仮にも肉弾戦を得意とした上級魔族が俺に軽くあしらわれるのもおかしいと思っていたので、別段驚く事ではなかったのだが、彼女にしては意外だったらしい。まあ、彼女には俺たちが普段の何パーセントの力で戦っているのか判りもしないのだろう。特に、この間の戦いは油断していたグリードに早々と幾重の手傷を負わせたので、最後まで奴は本調子でなかったはずだ。だから、向こうの本当の実力を見るのは初めてといってもいい。彼女が相手の実力を読み違えるのは仕方の無いことだった。  「本気で……やらせてもらうぜ!」  グリードが再び攻撃を始めた。先ほどと同じように突っ込んでくるが、今度は数割スピードが速い。こちらも戦法を変えて、今度は奴が間合いに入る前にこちらから攻撃を仕掛けた。剣先ぎりぎりの距離で横に剣を振るうと、グリードはしゃがんでそれを避ける。返しの刀を振ろうとしたが、それよりも速く奴は踏み込んできた。  (速い!)  また右下からの鉤爪。また同じようにかわしてからの肘を狙うが、その左手のモーションがぴたりと止まった。  (……フェイントかよっ)  奴が狙っていたのは右の鉤爪を振り下ろすことだった。かわしきれないと判断した俺は、刀身をその軌道に滑り込ました。途端にものすごい負担が俺の両腕に掛かる。奴は、俺の愛剣を鷲掴みにし、そのまま力を押し込んできたのだ。俺も人間としてはかなりの腕力を誇るのだが、相手は力馬鹿の魔族。片手で俺を圧倒していた。  ふと右に目をやると、奴の左手がモーションに入りかけていた。  (やばい!)  左に動いて力を流そうとしたその刹那……。  「わちゃちゃあぁっ!!」  いきなりグリードが大きな悲鳴をあげて剣から手を離した。何が起こったのかと思い刀身を見れば、オレンジ色に淡く輝いていた。カディズミーナの魔法である事は間違いない。ひとしきり手を振り手のひらの火傷を確認していたグリードに、今度は左右から光輪が襲い掛かった。俺の横を通り過ぎ、弧を描きながら飛ぶその光輪は確かにグリードを捕らえたかに見えたが、そこはさすがに獣並みの反射神経でかわしきる。  「かわされた?」  当たったと思っていたのだろう。無傷でその場に立っているグリードの姿に、カディズミーナは意外そうな声をあげた。  「結構後ろの嬢ちゃんが鬱陶しいな」  そう言うと、今度はこちらの返答を待たずして突っ込んできた。先ほど剣に掛かった魔法は持続しているらしく、刀身はオレンジ色に光ったままだ。高温になっている事は間違いないので、先程みたいに掴まれる心配はないだろう。切れ味も増しているかも知れない。  (ならば、スピードで対抗してみるか)  今度もこちらの間合いに入った時点で剣を振るった。しかし、先程と違って大した力は込めず、剣先の速度を代わりに上げる。グリードはまた一撃目をかわし、二撃目の間隙に飛び込もうとしたが、今度はこちらのスピードが勝った。慌てて右腕でカバーするが、本来力を込めれば重い一撃をも完全にブロックするその肉体を、小手先で速くした剣先が引き裂いた。慌ててグリードは距離を取り直し、傷口を舐め、にやりと笑う。  戦いを好む血が、笑みをこぼさせたのか……。  「結構イケるじゃないか、俺の血も……」  それで笑っていたのか??  「冗談だ、そう変な顔するなよ。嬢ちゃん」  俺は確認できないのだが、恐らくまた丸い目を更に丸くしていたのだろう。そんな彼女の反応を待たずして、再び腰を落とし構えに入る。今度は、何やら力を溜めているようだった。  「……その剣のおかげで懐に入りにくくなったな。ならば、これはどうだ!」  腰を落とした状態から更に膝を屈すると、5メートルほどの距離をいきなり跳躍してきた。天井すれすれのところを奴の体が舞う。  (多少傷を負わされる事を覚悟の上か!?)  確かに相打ち狙いなら、通常耐久力に自信のある奴の戦法としては合理的だが、この剣の切れ味を味わった後の攻撃としては愚策と思えた。しかし、そう思った瞬間、奴は天井に爪を引っ掛けると、力ずくで無理やり軌道を変えた。俺の頭上を飛び越える形へと。  (しまった!)  狙いは俺の後方、カディズミーナだった。今にも頭上を越えようとしているグリードに剣を引っ掛けても止まらないのは明白なこと。  (ならば!)  瞬時の判断で、奴の足首を掴むとそのまま壁へ叩きつけようとした。本当は真横に投げるつもりだったのだが、さすがに向こうの体重と勢いがあったので、わずかに軌道が横にそれるだけの結果となった。しかしながら、カディズミーナに危害が及ぶ事だけはぎりぎり避ける事が出来たようだ。グリードはなんとか鉤爪を伸ばしたものの、それはカディズミーナのベルトについた小袋を弾き飛ばすだけの結果に終わった。そのまま、俺達が来た通路へと転がっていく。俺は空中を舞った小袋をキャッチすると、それを素早く背中のサックに仕舞い、カディズミーナの横を抜け奴を追う。一方、かなりの距離を転がったグリードは既に起き上がり、攻撃を再開してきた。体勢を低くしてこちらの間合いへ入ると、左右の鉤爪を振るう。こちらは相手の間合いの外から攻撃し、入られたなら追い払う事に専念するという、先程までとは打って変わった緊迫の主導権争いになる。  スピードはほぼ互角。パワーとテクニックの勝負。しかし、この切り合いは俺にとっては不利だった。相手はこの剣の威力を知っているので無理に突っ込んではこない。だが、俺は後ろにカディズミーナがいる関係上、あまり下がる事が出来ないのだ。普通なら距離を詰められたらその分下がればいい。しかし、それが出来ない以上、パワーのある相手を押し返さなくてはいけなかった。そしてその繰り返しは、確実に俺のスタミナを奪っていった。  (……!)  疲労でスピードの鈍った俺の胸を、グリードの右の鉤爪が薙ぐ。鋼鉄製の胸当てを、まるでそれが粘土細工であったかのような爪跡が残った。間髪いれず、グリードは更に踏み込み、返しの左を振るおうとする。  しかし、それは踏み込もうとした足が何かに引っかかったせいで達成できなかった。声こそ上げなかったものの、驚いた表情は隠せない。大きくバランスを崩したわけではなかったのだが、俺の鋭い勝負勘は、その一瞬の隙を見逃さなかった。  「ぐあっ!」  慌てて身を引いたグリードの脇腹を、剣先が掠めた。僅かながら、手ごたえが剣を伝って掌に伝わる。奴が手で押さえた脇腹から、血が滲んでいるのが見えた。  「……足元に何かを仕掛けたな? 嬢ちゃん。人間風情が小賢しい真似をする」  (なるほど、カディズミーナの魔法か)  こちらの激しい切り合いに攻撃魔法のタイミングを見つけられなかった彼女は、先程からずっとグリードの足元を掬うタイミングを見計らっていたらしい。そのタイミングは、まさに絶妙と言ってよかった。  そのカディズミーナが、後ろから小声で声をかけてきた。  「あの傷……。あそこから魔力を潜り込ませて、封印する事ができるわ。魔法の準備をするから、打ち込む隙を作って」  彼女は、脇腹を抑えながらもニヤニヤと笑うグリードを見て、封印と言う選択を取ったらしかった。俺と奴の実力は拮抗している。長期戦となるとどう勝負が転がるか判らない以上、賢明な判断と言えた。  「どのぐらい時間が掛かる?」  小声で言葉を返す。  「20秒弱よ」  「判った。声を掛けたら迷わず打ち込め」  幸い、相手は通路の方にいるので、打ち込む狙い目があった。先程までの迎え撃つスタイルから一変して、今度はこちらから攻め立てる。速い剣さばきで相手を後退させるが、こちらに倒す意思はない。そもそも、いくら強化された剣とはいえ、ただ単に早くした剣技では奴は倒れない。これは、ただの時間稼ぎである。  (もうすぐ20秒……)  速いといえ、一定のパターンで繰り出されていた剣に慣れたのか、グリードが踏み込むタイミングを掴んだ。しかし、タイミングが一定なのはわざと。そこで、手首を捻り唐突に剣の軌道を変えると、グリードは危険を察知して慌てて左に逃げる。その一振りは空振りしたが、もとより俺の目的はそこにはなかった。  目的は……グリードを壁際に寄せる事!  「行け!」  カディズミーナは、俺の言葉に素早く反応した。  「当たれぇっ!」  彼女の大きな声が、洞窟内に木霊する。その声にグリードは顔を上げた。  「そんなもん当たるかよっ」  自分自身に危害を及ぼす白い光を確認したグリードは、そう叫びざま、左にステップを切った。  ……が、それが俺の狙いどころだった。  「いや、当たらせる」  瞬間的に間合いを詰めた俺の体当たりに、グリードが目を見開いた。初めから、奴の逃げどころが限られたこの状況を狙っていたのだ。ステップを切ったため宙に軽く浮いていた奴の体は、踏ん張る事も出来ずに元の位置に弾かれる。  そこに、白い光が到達した。  「ぐああぁぁっ!!」  白い光に包まれるグリード。その光が、徐々に先程つけた脇腹の傷へ集まり始める。すでに奴は動けないようだった。振り返りカディズミーナを見ると、白い光は見えないものの、両手を翳し何かの力を送り込んでいるのが見える。  そこに油断があった。鉤爪しか能のないと思いこんでいたグリードが、突然叫ぶ。  「させるかよ!!」  振り返ると、カディズミーナに向け突き出された掌から、赤い光が走らんとしているところだった。  (魔法だと!?)  本来超高速で走っているはずのその光が、やけに遅く見えた。そして、それに飛びこもうとした俺も動きもまた遅い。  グリードとカディズミーナ。その間に割り込むのが精一杯だった。魔法の力にあがらうための準備も出来ていなかった。  なにか、強い力に飛ばされそうになる感覚が俺を襲う。  「ユーマ!」  「やめろ!」  カディズミーナが、魔法を中断しようとする。それを、俺は慌てて制止した。魔法を中断すれば、それまでに要した魔力がすべて使用者に返ってくる。全身全霊を掛けた彼女の魔法は、返ってくれば確実に彼女を死に至らしめる。  「ユーマ!」  もう一度、彼女が叫ぶ。  それが、俺がカディズミーナを見た最後だった。  気がつけば、どこか判らなかった。  洞窟の中ではない。枯草が目立つ荒野だった。先ほどまでの暑いところとは違い、今いるところはかなり寒い。俺たちが元いた世界に近いか、それよりも少し暖かいか。さっきまでのところとの共通点といえば、何も無いことぐらいだった。  そして、俺の横にいつもいた、カディズミーナの姿も無かった。  (飛ばされたらしいな)  先ほどのグリードの魔法は、転移の魔法だったらしい。どれぐらいの距離を飛ばされたのかを、この気候と景観が物語る。はっきりいうと、最低な展開だった。  (カディズミーナは大丈夫だろうか?)  グリードの妨害は俺が割り込んだおかげで防がれたはずだ。順調に行けば、グリードを封印しているだろう。それよりも心配なのは、彼女を一人にしてしまったことだ。元より生活能力に欠ける彼女が、この何も無い世界で生活できるのか。  (早く捜し出さないと……)  しかし、どちらに行けば良いのか。それを示すものは何も無かった。いま、太陽が沈みかけているところを東として方角を決めたところで、先ほどまで俺がいたところがどちらの方角にあるのかが判らなければ意味がなかった。  だが、じっとしていても始まらない。とりあえず、今太陽がある方角に向かって歩き始めた。歩きながら、何か彼女がいる方向を見つける方法を考える。  しかし、そんなものは無かった。そもそも、太陽が沈む方向が東という俺たちがいた世界の常識が、この世界で通用するのかどうかも怪しい。ならば、暑い気候は北という概念も捨てたほうが良いだろう。  (カディズミーナはどうしているだろう? 泣いていないだろうか)  30分ほど歩いただろうか。俺は考えることをやめて、彼女のことを思った。あの愛らしい笑顔を見て、安心したかった。  『……こえる? ユーマ、聞こえる?』  その時、どこともなしにカディズミーナの声がした。小さくて聞き取りにくかったが、彼女に間違いなかった。  「どこだ、カディズミーナ!」  後ろの方から聞こえたのだが、振り返っても彼女の姿はどこにもない。俺の返事も、向こうには聞こえなかったようだ。  再び、彼女の声だけが聞こえてきた。  『ユーマ、聞こえていたら返事して。お願いだから……』  泣きそうな声。その発生源が、今の声で解った。サックの中だ。俺はそれを肩から外すと、中を開けた。  『ユーマ、無事だったら返事してよぉ』  やはり、その中だった。先程よりははっきりと声が聞こえた。  「聞こえるぞ。大丈夫か?」  数秒の間をおいて、明るい声が返ってきた。  「ユーマ? よかったあ、さっき声を掛けても反応がないから、心配したのよ」  ほっと胸を撫で下ろす仕草が想像できた。  「どうでも良いが、お前の声はどこから聞こえてくる? サックの中に入っているんじゃないんだろう?」  魔法を使っているのは間違いないのだが、俺は彼女が通信に使いそうな道具を持っていない。しかし、そう思っていたのは間違いで、実際のところ俺はそれを持っていた。  また数秒の間を置いて、彼女の声が聞こえてくる。  『どうでもいい事ないよ。心配したんだから……。えっと、声が聞こえるのは水晶玉からよ。ユーマ、私の小袋もっているでしょ?』  少し文句を挟んでから、答えを返してきた。  (小袋? ……ああ)  思い出した。グリードに弾かれて宙を舞った彼女の小袋を、俺はキャッチしてサックにしまっていたのだ。戦闘中に瞬時にやった事なので、記憶が薄かったらしい。確かに、彼女の小袋を開けると、水晶玉が淡く輝いていた。  『今、その水晶玉を介してユーマと話しているの。私は、あの洞窟の入り口にいるわ』  「グリードはどうした? 封印したのか」  彼女が無事と言う事は、恐らくそうなのだろう。だが、念の為に聞いておいた。  『したわよ。これで自力で復活する事はないわ』  また数秒の間が空いてから、彼女の声が返ってきた。どうも、先程から会話のレスポンスが悪い。  『ユーマ、自分がどのぐらい飛ばされたか見当つく? なんか、すごく遠そうなのよ。魔力を飛ばして水晶玉を捜すのにも時間が掛かったし、ユーマの声が返ってくるのも遅いし……わざとじゃないよね?』  反応が悪いのは向こうも同じらしかった。  「違うぞ、こっちも返ってくるのが遅いんだ。それと、俺もどのぐらい飛ばされたのかは判らん。右も左も判らない状態だ。ただ、今いるところは寒い。そちらからはかなり距離が離れいてるのは確かだと思う」  『やっぱりね……。とっても疲れるのよ。この会話だけでも』  そういう声も疲れているようだった。  「……こっちがいる方角は判るか?」  『大体の方向は判るわ。距離感はなんともいえない……。ユーマが遠ざかったり近づいたりしたら、判るかもしれないけど』  (なるほど、ならば手はある)  この通信は疲れると彼女は言った。元々彼女はグリードを封印するために多大な魔力を消費しているはずだ。だから、早めに休ませるべきだった。  「そうか、解った。今日はもう休め。明日から、俺は取り合えず歩いてみる。そうすれば、それで俺がどちらの方角に移動したのか調べれば、こちらもお前がいる方向を知る事ができるからな」  『私はじっとしているの? そんなの嫌だよ。私は、早くユーマに会いたいよ』  「そうか……。なら、お互い移動だな。そっちの身は安全か?」  この3日間の事を思い出すと、この世界は元いた世界に比べると安全そうだった。しかし、俺たちはたったの3日分しかこの世界を知らない。ひょっとすると、身の毛もよだつような危険な事があるのかも知れなかった。  『多分大丈夫よ。私には魔法があるからね。それより、そっちこそ大丈夫なの?』  「どうだろうな」  この寒い地では、あまり生命体に姿を見かけない。身の危険性はなさそうだが、食料の確保が難しそうだった。  『ユーマの事だから大丈夫だと思うけど……。あ、駄目。もう魔力が持たないわ。休んだら、また連絡を入れるよ』  「ああ」  それっきり、彼女の声が聞こえなくなる。  途端に寂しい思いに包まれた。  (まだ、もう少し歩けるな)  とにかく、俺は歩く事にした。カディズミーナのいる方角を確かめるためもあったが、食料の確保も目的の一つだった。生命体の希薄さもそうだが、緑色をした草も少ない。何かの果実を手に入れる事も困難そうだった。  あれから一週間の時が流れた。  通信は、彼女の魔力を持ってして、1日30分程度が限度だった。本来、彼女はこの魔法で相手と1日喋れるらしい。それが、俺との距離を物語っていた。  俺はただひたすら歩いていた。途中少ない食料を確保しながら、合っているのかどうかも判らない道を進む。いや、そんな舗装された道などなかった。ただ、荒野を進む。  一方のカディズミーナは、俺との距離を詰めるべく確実な方向を歩んでいるはずだった。聞けば、食料は思ったよりも簡単に手に入るらしい。お嬢様育ちの彼女を心配したが、彼女は俺が思っている以上に逞しく、一人旅の苦労に負けていなかった。  しかし、カディズミーナよりも気がかりな事があった。カディズミーナの位置がまったく掴めないことである。彼女から見て「右に移動している」のなら、俺は右手の方向に向かえばいい。「距離が近づいている」のなら、そのままお互い歩き続ければいい。だか、彼女の答えは「まったく距離感が変わらない」だった。初めは、二人とも同じ方向に進んでいるのだと思い、来た道を逆戻りしたのだが、それでも彼女の答えは「変わらない」だった。  『ユーマぁ……』  今日の通信は、俺の名前を呼ぶ泣きそうな声から始まった。  「どうした、何かあったのか?」  『海なの』  ぼそりと、はるか向こうにいるだろう彼女の呟きが聞こえた。  「海?」  『ユーマのいる方向、海なのよ。右も左も海。……私、これ以上進めないよ』  どうやら、彼女は半島の先に来てしまったらしい。今度は、はっきりと泣いているのが解った。  『ユーマぁ。私ユーマに会いたいよぉ』  もう一週間も会っていない。道を塞がれたせいで、彼女が抑えていた寂しい思いが一気に溢れたらしかった。だからと言って、泣いているだけでは俺との距離は縮まることはない。だから、俺はきついと思いながらもはっきりと彼女に言った。  「迂回するんだ。そんなところで立ち止まっていても、俺には会えないぞ」  『……どっちに行けばいいの?』  そう問われる。それは、俺には判らなかった。返答に困っていると、カディズミーナが言葉を繋げてきた。  『……ごめん。私がどっちにいるかも判らないのに、そんなことユーマに判るわけないよね。ごめんね、ちょっと混乱してた』  そうだろう。つい半年前までは、何もしなくても必要なものが与えられるような生活をしていたのだ。それが、突然何もない世界に一人放り出されたのだから。  頼りになるのは、俺の声だけ……。  『迂回するわ。ちょっと遠回りになるけど』  泣くような声を隠し、はっきりとそういった。気丈な子だった。お嬢様の中に隠されていた、芯の強い一面……。  「頑張れ。諦めたらそれまでだからな」  『うん』  比較的元気な声が返ってきた。  2ヶ月が過ぎた。相変わらず俺は同じような景色の中を歩いている。一体、この荒野はどこまで続いているのだろうか。  カディズミーナのいる所は、あの暑かったのがだんだんと涼しくなっているらしい。今は、非常に過ごしやすい気候だそうだ。  彼女はこの間、ずっと海岸線に沿って歩いていた。彼女によると、たまに地元の人間に会うらしい。魔法を使って交流もしているようだ。この間見つけた集落の人間に魔法を見せると、神の使いとして崇められたと、久しぶりに聞く笑い声で言っていた。  俺のいる地には、人間はいないらしい。ただ一人、荒野の中を歩んでいた。カディズミーナのいる方角は、いまだに判っていない。相変わらず彼女の答えは「変わっていない」だった。  何かがおかしかった。  『ユーマ』  カディズミーナの声が聞こえてきた。いつもの時間より、今日は早い。俺は水晶玉を小袋から取り出し、返答する。  「今日は早いじゃないか。どうした?」  『ちょっと前から考えていたことがあったの。それを言おうかなと思って』  嫌な考えなんだけどと、彼女は付け加える。  「なんだ、言ってみろ」  『うん。この2ヶ月間、ユーマはずっと同じ方向に歩いているよね』  「ああ」  俺の方向感覚が狂ってさえいなければ、確かに同じ方向へ進んでいるはずだった。  『でも、私との位置関係が変わらない。私は海岸線に沿っていろいろ方向を変えているのに、それでも近づいたり遠ざかったりしない』  だとすると、俺は彼女のいる空間とは別の空間にでもいるのだろうか? いや、もしそうならば、彼女の声はこの水晶玉まで届かないだろう。  (ならば、答えは……)  それは、俺が薄々気付いていた答えと同じだった。  『……多分だけど、ユーマとの距離。多少移動した位じゃ良く判らない位に離れているんだと思う』  「やはりそうか……」  俺は立ち止まった。だとすると、歩いてどうこうという話ではない。  『それともう一つ。これもいい話じゃないんだけど、私のいるところ、多分大きい島だと思う。いま、初め進んでいた方向と逆に進んでいるの。このまま行けば、あの洞窟付近に逆戻りするかもしれないわ』  「……何か別の手段を考えないと、このままお互い歩いても無駄という訳か」  別の手段などない。俺は彼女のように魔法など使えないのだから、歩くしか能がなかった。だから、頼みの綱は彼女しかない。  「おまえの魔法の中に、何か使えそうなものはないのか?」  『あったら、とうの昔に使っているわ。飛行の魔法があったら、海を越えて一直線でいけるんだけど、習っていないし……』  しばらくの沈黙。てっきり途方に暮れているのだと思っていたのだが、彼女は考え事に没頭しているところだった。  「カディ……」  『そうだ! 習っていないんだったら、自分で編み出せば良いのよっ』  これ以上ない名案といわんばかりに、跳ねるような声が俺の言葉をさえぎった。心なし、手の中の水晶玉が、その淡い光の強さを増したように見える。  (……)  簡単に言っているが、魔法を編み出すことが容易じゃないことぐらい、傭兵稼業だった俺でも知っている。熟練の魔法使いが、適切な設備の元で何年も何十年も掛けて編み出すのだ。いくら彼女に天才的な魔法の素質があるとはいえ、無謀な挑戦に思えた。  『よーし、そうと決まったら早速……そうだ、あの集落に戻って、あそこで研究しよう。あそこだったら、食料に困らないしね』  「カディズミーナ……」  『なに?』  「……いや、何もない。俺は取り敢えず歩いてみるよ。じっとしていると食料が確保できないからな」  『うん、解った』  「頑張れよ」  『うん。今日はこれで切るね』  それを最後に、水晶玉の輝きが消えた。  (カディズミーナ……)  俺は彼女に言うべきことを言うのをやめた。会わなくなって解ったことがあったからだ。解ったのは、相手をより必要としていたのがカディズミーナではなく、俺のほうだったこと。  今はただ、逢ってその姿を確認したかった。  だから、俺は言わなかった。  2年が過ぎようとしていた。  俺はずっと歩みつづけていた。ただ何もない荒野は抜け、半年ほど前から緑が増えそれに伴い獣の数も増えてきた。  軌道修正もした。この2年間欠かさず通信を続けているカディズミーナによると、彼女から見て右の方向に、僅かにずれながら近づいているらしかった。だから、少し右に角度を変えて歩んでいた。これで、彼女に少しでも近づいているはずだった。  一方のカディズミーナは今も研究を続けていた。資料も何もないこの世界で、やはり研究は難航したようで、1年経った頃は情緒も不安定になっていたようだ。水晶玉を通じて、毎日のように『逢いたいよ』と繰り返していた。  ただ、最近変わってきたことがあった。通信を手短に切ってしまうのだ。何かを掴みかけているらしく、『いま、いいところまで来ているから』と言っていた。それが、1ヶ月前のことだ。最近は、明らかに声が疲れている。研究で無理をしているのが解った。  俺は心配だった。彼女が無理を重ねて、身体を壊してしまわないかが。ただでさえ、慣れない生活を繰り返してきたはずだ。2年も経っているとはいえ、この世界の生活が昔の彼女の生活に比べて楽だとは言いがたいだろう。長きに渡った疲労に無理が重なれば……。  しかし、本当に心配しなければいけなかったのは、自分の身体のほうだった。  初めは、身体がだるかった。風邪かと思っていたが、そのうち一日の移動量が半分に減った。カディズミーナに悟られないよう、通信の際には平常を装っていたが、移動量は3分の1になり、1割も行けなくなり……。  ついに、一歩も動けなくなった。  俺は、木陰に入り木の幹にもたれかかっていた。元の世界なら、医者に診てもらえば治っていたかもしれない。あるいは、高位の魔法使い……カディズミーナがそばにいれば、魔法でなんとか出来たかも知れない。  (あいつがそばにいるんだったら、俺はこんなところを彷徨っていないな……)  苦笑いも精一杯だった。もう、数刻もこの身体が持たない。もはや、立っていることも出来なかった。  膝が崩れる。両手を地に突き、顔面が地面に叩きつけられるのをなんとか防いだ。それ以上は、何も出来なかった。  『ユーマ! ユーマ! 聞いて聞いて!』  小袋の中から、カディズミーナの声が聞こえてきた。いちいち小袋から水晶玉を取り出さなくても、充分聞こえるほどの大きな声だった。  「カディズミーナか……」  いいタイミングで話し掛けてきた。最期に、もう一度カディズミーナと喋れるようだ。  俺は、彼女に言わなければならないことがあった。  『あれ? ユーマ、聞こえてる!? 魔法が完成したんだよ! 飛行の魔法が! これで、ユーマのところに行けるよ! もうすぐ会えるよ!』  彼女には、俺の小さな声は聞こえなかったらしい。水晶玉を仕舞ったままだったせいもあるのだろう。  彼女の声はこの2年間の間……いや、出会ってから今まで聞いてきた中で一番明るい声だった。  (皮肉な話だ。今になって完成するとはな……)  カディズミーナを責める訳ではない。目に見えないものを。運命というものを責めた。  『あれ、返事がない? ユーマ! 寝てるの?』  両手を突いたままでは、水晶玉は取り出せない。俺は仰向けに転がると、小袋から水晶玉を取り出した。  今日の輝きは、普段に増して明るかった。  「聞こえているよ……」  『えっ、どうしたのユーマ? 病気なの!?』  驚くほど弱々しい声だったらしい。すぐさま、慌てた声が返ってきた。  「ああ……」  返事をするのも辛かった。  『大変、すぐに行くよ! 全速力で飛ばしていくから、それまで我慢してね』  「……いや、いいんだ。もう間に合わないから」  彼女がどれぐらいの時間でここに来れるのかは判らない。だが、この身体が治療を施すには既に手遅れなのは解っていた。  『何言っているの? 今冗談言っているタイミングじゃないよ』  半信半疑。その声は明るいものだったが、どことなしに不安そうなものが混じっていた。  俺はその声に答えなかった。  『冗談……だよね?』  俺はやはり答えない。それで彼女は理解した。今俺が言ったことが、冗談でもなんでもないことを。  『冗談……』  もう、彼女は判っていた。俺の言っている事が、冗談でもなんでもない事を。ただ、認めたくない。その思いが、言葉に出ただけだった。  『なんで……。私、頑張ったのに……。一生懸命頑張ったのに、何でこんなことになるのよ!!』  大きな声で泣き出した。この2年間、溜めていた寂しさ、悲しさを全て吐き出すかのように、彼女は大声で泣きつづけた。  「カディズミーナ。聞いてくれ……」  20分ぐらい泣いていただろうか。彼女の鳴き声が小さくなったのを見計らって、声を掛けた。返事はなかったが、泣き声が止んだ。彼女は言葉の続きを待っているようだった。  「お前は、元の世界に帰る事が出来るんだろう?」  返事はなかったが、聞こえているはずだった。  そう、彼女は帰れた筈だ。元いた世界へ帰る事が出来たはずだった。ただ、俺がいたから、帰らなかっただけなのだ。本当は、もっと早く言っておくべきだったのだ。「俺のことは諦めて、元の世界に帰って別の幸せを見つけるんだ」と。だがあの時、俺は自分の勝手でそれを言うのをためらった。それが、2年もの間彼女を束縛したのだ。  俺が死んだら、彼女がこの世界に残る理由はない。俺の言葉で開放してやるのが、俺が彼女に出来る最後の事だった。  「元の世界へ帰るんだ。あっちに戻れば、両親がいるだろう? 今でも受け入れてくれるかも知れない。それが無理でも、お前なら誰かが幸せにしてくれる……」  『嫌だよっ!!』  !?  鋭い叫びが、俺の言葉を遮った。  『嫌だよっ! 私はユーマに逢うんだよ! 逢って、どこか静かなところで一緒に幸せに暮らすんだよっ!』  「わがまま言うなっ!!」  精一杯の声で一喝した。  「もう、俺はこの世界から消えるんだよ。お前がこの世界に残る意味はないんだ。死んだ人間を、捜すことなんか出来やしないのだからな……」  これで良かった。伝えることは出来た。今は納得してくれないかも知れない。しかし、元の世界に戻りさえすれば、いつかは幸せを掴んでくれるだろう。そうなれば、いつかは俺のことを忘れるはずだ。  そうなることを、祈って眠りにつく。それで、俺の人生は終わるはずだった。  しかし、次の彼女の返答は、俺の予想範疇を遥かに越えていた。  『……方法はあるよ』  (方法?)  俺を生き返らせるとでも言うのだろうか? そんなこと、出来るわけない。蘇生の魔法。それは、不老不死同様、幾多の魔法使いがいまだ到達していない究極の魔法……。  (……ん? 不老不死?)  自分の思考に、引っかかるものを感じた。  『ユーマ。私の作った転生の薬、まだ持っているよね?』  確かに持っている。あの時、俺は小袋ごとサックの中に仕舞ったのだ。当然、小袋の中にあの小瓶も入っていた。  『あの薬を作る材料。私、持っているんだよ。だから、ユーマがそれを服んだら、私も薬を作って服むから。そうしたら、例え私も死んだとしても、お互い転生した姿で逢えるかも知れないから……』  「なっ?」  思わず言葉に詰まる。そんな俺を無視して、彼女は続けた。  『私はユーマに逢いたいんだよ……。姿が変わっていてもいい。少しくらい歳が離れていてもいい。ただ、ユーマに逢いたいんだよ』  彼女は信念を貫き通そうとした。俺と一緒に小さな幸せを掴むという、ささやかな夢を見続けようとした。  馬鹿だった。元の世界に戻れば、別の幸せが待っているかもしれないのに、いままさに消えかけている俺との幸せに固執する。自分の信念を貫き通そうとする……。  どうしようもない馬鹿だった。だが、その馬鹿にどうしても逢いたくなった俺もまた、どうしようもない馬鹿だった。  「今度は水晶玉はないんだぞ。俺の居場所を示すものは、俺の手元からなくなるんだぞ。見た目の区別もつけれなくなる。それでもいいのか?」  『うん』  その返事に迷いはない。  「どれぐらいの時が掛かるか判らないぞ? 数百年……数千年になるかも知れないぞ? それでもいいのか?」  『いいよ、いつか再び逢えるんだったら……。その時、暖かく受け入れてくれさえしてくれたら……』  「そうか」  それでこそ、カディズミーナだった。俺が惚れ込んだカディズミーナだった。一度は費えた彼女に『逢いたい』という気持ちが、いまは再び熱く燃え上がっている。  「解った。俺はこの薬を飲むよ。そして、お前を捜す。絶対に探し出すからな」  『ありがとう、ユーマ。私も絶対に薬を飲むから』  「ああ……」  上がらない手で小袋から例の小瓶を取り出すと、なんとか蓋を開ける。こぼしそうになるのを必死で防いで、その中身を無理矢理口の中に放り込んだ。味などは既に判らない。だが、確実にそれを服んだ。  「服んだよ……」  『服めた? 良かった……』  水晶玉の向こうの彼女が、安堵のため息をついた。  『……もう、魔力が持たないわ。ごめん、最期を看取ってあげることが出来ないみたい』  「別にいい。再び逢えるのならな」  『絶対に逢おうね。約束だよ!』  「ああ……」  『さようなら、ユーマリオン……』  最後だけ、俺をフルネームで呼んで、彼女の声は聞こえなくなった。  「いつ、逢えるんだろうな」  雲ひとつない空、その空に向かって一人呟く。当然、空は答えなかった。  やがて、その空も見えなくなった。目を開けることが出来なくなったからだ。  (絶対に探し出すからな)  そう念じたのが、ユーマリオンの最期であり、ユーマリオンの大切な人を捜す永き時の旅の始まりでもあった。  離れ離れになった二人。  二人の『逢いたい』という気持ちは、どんな再会をもたらすのか。  次章は世代が変わり現代へ、新しい主人公『西口雄馬』と、ニューヒロインが登場します。  タイトルは『いつも近くにいる存在』です。  お楽しみに。